STORY

那須正幹さん 未発表作に込めた平和への思い

2021.12.21 :

ことし7月、ある児童文学作家が亡くなった。
「ズッコケ三人組」シリーズなどで知られる那須正幹さん。「子どもは未来を作る存在だ」と話し、平和の大切さを訴え続けてきた。
那須さんが亡くなったあと、取材を続けていた私は、ふとした出会いから、一般には存在が知られていなかった未発表作品が残されていたことを知る。那須さんがそこに表現したのは、広島の原爆がもたらした哀しみ。そして、「二度と戦争をしてはならない」という強い決意だった。

未発表作品「ばあちゃんの詩」

「ばあちゃんの詩」
未発表作品の存在を明かしてくれたのは、広島市東区民文化センターの山本真治館長。
那須さんとは、数年来の交流があった。
ことし7月、那須さんが亡くなったあと作品の存在を思い出し、自分のパソコンの中を探した。
やはり、あった。

「ばあちゃんの詩」

800文字足らずの短い作品だが、もう一度、読み直してみると、那須さんのメッセージが心の中にしみいってくるように感じた。
山本さんは、次のように話す。
(山本真治さん)
「広島には原爆のことを心の中に残し、葛藤しながら生活してる人がいるんだということが、作品の中に表現されていました。800字に満たない短い物語ではありますが、那須先生が広島への思いを込めて書いたのかなと思いました。だんだん、原爆の体験を語ることのできる人が少なくなるなかで、『僕がやっぱり、何か残さなきゃ』というようなこともおっしゃっていました」

那須さんの生い立ちと「ズッコケ三人組」

那須さんは、1942年に広島市で生まれた。
3歳のとき、爆心地から3キロほどのところにあった自宅で被爆。
東京での暮らしを経験したあと、広島に戻って児童文学を志し、1972年に「首なし地ぞうの宝」という作品でデビューした。
その6年後に発表したのが、小学6年の3人が活躍する「それいけズッコケ三人組」だった。
せっかちでおっちょこちょいのハチベエ。
物知りだけど、理屈っぽいハカセ。
のんびり屋で気持ちの優しいモーちゃん。
那須さんは、日頃から「子どもを大人と対等に扱うべきだ」と考えてきた。
このため、シリーズには、自殺や離婚、金もうけといった当時の児童文学ではあまり扱われなかったテーマも取り入れた。
こうした思いは当時の子どもたちにも届く。
人気を集めた「ズッコケ三人組」シリーズは2004年に50巻でいったん完結。その後も読者の要望を受けて「中年三人組」、「熟年三人組」と続き、シリーズは全61巻、累計発行部数2500万部を超えるベストセラーとなった。

「子どもたちに平和な未来を」

那須正幹さん
もう1つ、那須さんを語るうえで欠かせないのは、みずからの被爆体験を踏まえ、戦争や原爆をテーマにした作品を数多く手がけたことだ。
1995年に発行された「絵で読む 広島の原爆」では、当時の広島のまちや暮らし、原爆の構造、放射線の影響などを多角的に取り上げた。
2011年には戦後の広島を力強く生きた人々の姿を描いた「ヒロシマ」3部作を発表した。
那須さんは、執筆活動のかたわら、依頼されれば積極的に講演会などに参加した。
核兵器の廃絶を訴え、子どもたちに平和な未来を残したいという思いで情報発信を続けた。

「ばあちゃんの詩」とは

ここで「ばあちゃんの詩」について紹介したい。
登場するのは、子どものころ広島の原爆で兄を失い、その後の原爆症で父と母も亡くした「ばあちゃん」と、孫の「ぼく」だ。
ひとりぼっちで成長した「ばあちゃん」は結婚して子どもを授かり、孫の「ぼく」が生まれた。
そして「ぼく」が中学校に通うようになったころ、高齢になった「ばあちゃん」に変化が訪れる。
「ぼく」のことを、“兄ちゃん”と呼ぶようになったのだ。
亡くなった自分の兄のことをいつまでも忘れられないのかもしれない。
最初は戸惑っていた「ぼく」だが、玄関で迎えてくれる「ばあちゃん」の笑顔を見て、次のような約束をする。
ぼくらはぜったい戦争なんかしない。

子どもを殺したりしない。

悲しい思い出も作らない。

「ばあちゃんの詩」誕生秘話

実は、その誕生までには紆余曲折があった。
2013年のこと。
2年後(2015年)の「原爆投下から70年」を前に、平和祈念コンサートが開かれることが決まった。
広島市で文化に関わる仕事をしていた山本さんは、このコンサートで「ヒロシマ」をテーマにした新しい歌を披露できないかと考えた。
作曲家として白羽の矢を立てたのは、広島にゆかりがあり、その後、数々の合唱曲やテレビのウルトラマンシリーズなどの音楽を手がけた冬木透さん(=本名・蒔田尚昊)。
そして作詞については、平和の大切さを広く訴えてきた那須正幹さんが適任だと考えた。
那須さんは、最初は少し戸惑った様子だったものの、「広島の力になれるなら」と依頼を引き受け、「ばあちゃんの詩」と「ふるさと広島」という2つの作品を書き上げた。
しかし、大人向けの歌を考えていた冬木さんのイメージとはズレがあり、新しい歌作りはなかなか進展しなかったという。
山本さんは、冬木さんの住む東京と那須さんの住む山口県を行き来しながら間を取り持っていたが、一時は那須さんから「相性があるから、合わなければ恨みっこなしで。やめましょう」と告げられたこともあった。
山本さんは当時のことを振り返って苦笑いをする。
(山本真治さん)
「胃が痛かったですね。那須さんから『やめよう』という話が出たときにはドキッとしましたが、冬木さんと那須さんに何とか歩み寄ってもらって丸く収まりました」

平和祈念コンサートが開かれて

最初の依頼から2年近くがたち、コンサートの直前になって那須さんの「ふるさと広島」をもとにした「ふるさとの詩」が完成。
コンサートには、那須さんも姿を見せた。
演奏を聞いた那須さんは、「僕が書いた作品がこんなに聞きやすい歌になるとは思っていなかった」と笑顔で話したという。

一方で「ばあちゃんの詩」については、いわば“お蔵入り”の状態となった。
そして、山本さんが長く保管することになる。

冬木さんと那須さん

冬木透さん(左から3人目)と那須正幹さん(右から2人目)
歌作りを巡って苦労を重ねた、冬木さんと那須さん。
実は、直接会ったのは、歌を作ることが決まった直後と、その翌年の2回だけ。
それでも、2人が心を通わせるには十分だったのかもしれない。
山本さんは、その後も2人と交流を続けた。
冬木さんを訪ねると「那須先生はお元気かね」と聞かれた。
那須さんを訪ねると、今度は「冬木先生はお元気かね」と聞かれた。
実際には会うことがなくても、お互いを思い合う。
きっと、2人はそんな関係だったのだ。

「那須さんなら受け止めてくれる」

今回、私は改めて冬木さんに会い、どんなふうに那須さんのことを思っていたのか、尋ねてみた。
すると冬木さんは、次のように話してくれた。
(冬木透さん)
「僕は旧満州から引き揚げてきて原爆を知りませんでした。僕自身にも原爆について思いを吐き出したいような気持ちがありましたが、その相手が見つかりませんでした。那須さんなら受け止めてくれる。そして語り合えるような、そんな気がしていました」
私は久しぶりに「ばあちゃんの詩」に目を通してもらおうと思っていた。
しかし、冬木さんは、首を横に振った。
今はまだ、そんな気持ちになれないという。
那須さんが亡くなったことを思い出すのは、まだつらいのだと。

来年1月のコンサートで

山本さんは、来年1月にコンサートを予定している。
その際、「ばあちゃんの詩」に音楽をつけて、広く一般にも披露したいと考えている。
そのことを伝えると、冬木さんも少し顔をほころばせた。
(冬木透さん)
「それはいいかもしれない。みんなが那須さんの世界に入っていくための、1つの立派な作品だと思う」

大好きな“ばあちゃん”を悲しませないために

那須さんと冬木さんは、歌作りの方針について、こんなふうに思っていたという。

「新しい歌には明るさを入れたい」

戦争を経験した人が少なくなり、その証言を聞く機会も減っている。
たとえ証言を聞けたとしても、その内容には耳を塞ぎたくなるかもしれない。
私はまず、“そのときに何が起きたのか”、そして“その後、どんな影響を残したのか”を知るきっかけが大切だと感じている。
「ばあちゃんの詩」はその象徴のような作品だ。

大好きな「ばあちゃん」、そして大切な人を悲しませないために、私たちにできることは何なのか。
那須さんが残したこの問いかけを、私は心に刻もうと思う。

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科学文化部記者

富田良

記者を志望する時に持っていた「小さい声を届けたい」という思いが、いつしか「ほかの人が注目していないけれど発信すべき人物や話題を取り上げたい」という方向にシフトチェンジ。いろんな分野に関心を持って手を出し、ゼロから勉強する…という繰り返し。興味は尽きません。

前任地の長崎で経験した原爆・平和関連の取材は、ライフワークとして何らかの形で携わり続けていきたいと思っています。文化担当ですが休みはスポーツに時間を割いており、特に走ることが生きがいになりつつあります。マラソンや駅伝の企画を作ることがひそかな夢。

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記事の内容は作成当時のものです

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