COLUMN

横尾忠則 87歳 絵は“飽きた”けれど・・・描くワケ

2023.11.14 :

「もう飽きちゃってるんですよ。もう、ずーっと子供の頃から、絵しか描いてませんからね」

かくしゃくとして語るのは、日本を代表する美術家、横尾忠則さん。10月、文化功労者に選ばれた。大胆な色使いに奇抜な構図。横尾さんの作品は日本にとどまらず、世界を魅了し続けている。御年、87歳。いまも東京・世田谷のアトリエに自転車で通い、制作に取り組んでいる。

それでも描くことに「飽きた」という、その真意は。

世界のYOKOO

Photo:K.Kurigami
画家でグラフィックデザイナーの横尾忠則さんは兵庫県出身の87歳。

1960年代からグラフィックデザイナーとして舞台芸術のポスターなどを数多く手がけてきた。
2022-05-01 2022年 キャンバスにアクリル 162.1×130.3cm
奇抜な構図に鮮やかな原色を重ねて描き出す、サイケデリックとも言われた作品が若者を中心に高い人気を集めてきた。

80年代にはニューヨークでみたピカソの展覧会に衝撃を受け、画家に転向。
2022-10-20 2022年 キャンバスにアクリル 162.1×130.3cm
その後も大衆的なイメージと神秘的なイメージが入り交じる前衛的な作品を次々と発表している。

現在も精力的に制作を続けていて、海外でも高い評価を受ける日本を代表する美術家だ。

テレビは「苦手」

この日、文化功労者に選ばれたことを受けて、私は東京・世田谷区にある横尾さんのアトリエをたずねた。

横尾さんは軽い足取りで迎えてくれた。
「テレビのインタビューはあまり好きではないんですよ」
カメラの準備をしていると、横尾さんが先制ジャブ。

テレビにありがちな演技を強要するような質問を受けるうちに、普段の自分を見失うところが、嫌なのだという。

「短くしますから」といいつつ、インタビューの椅子に座ってもらった。

選ばれても・・・難しい

まずは、文化功労者に選ばれたことについて。

横尾さんは、困ったように語り始めた。
うーん。そうねぇ…難しい。なんて答えていいかわからないけれども、やっぱり、そういう年齢になってきたのかな。去年、急性心筋梗塞になって倒れて。それで、なんとか、死なないで済んだんですけれども、あのとき死んでてもおかしくなかったんですけどね。そのぐらい苦しかった。だから、去年、もしそのまま死んでいると、きょうはなかったかなと思いますね
自分の作品が評価されることについて、聞くと。
やっぱりね。この年齢になるとですね。先がそんなにあるわけじゃないので、いちいち、そのことを自分の大問題として僕の中でそれをとらえようとする、そういう気持ちは非常に薄れていますね
さらに問いかけると。
今回のような、ある意味で非常に抽象的な、過去の業績ですか。それに対する評価ですよね。あの作品と、この作品というもんじゃないですから。非常に抽象化されてしまってるわけですね。もっと若ければ、それを励みにしてですね。『また明日から頑張るぞ』とか。『また次を狙うぞ』とか。そういうのはあるかもしれないけど。作品に与えられる賞とはちょっと違いますよね。だから、非常に期待されているような答えがなかなか出てこないんですよね

「未来のビジョン持てない」

「先がそんなにあるわけじゃない」

ポロっと出た、その一言の真意を聞いてみる。
これから先は読めないんですよね。まもなく90に近づいてね。あした何があってもおかしくないし、明日じゃなくて、3年後、5年後かもしれないけれど、そんなに変わらないような気がするんですよ。あと10年も生きるということも、ちょっと想定できませんからね。自分の体のこと、いろんなこと、自分なりに、感じ取ってますからね。だから、一喜一憂するっていう、そういう体の環境というのか、状況じゃないことは確かですね。この年になって、近未来に対するビジョンがないんです
それは、描きたいものがなくなったということなのだろうか。
もうこの年になると、夢とか希望というのは、もう、いまの状態と同質化してしまっているので、そういうものは持てないんです。だから、きょう1日無事に終われれば『あ、きょう1日は生き延びられた』っていう、そういう感覚なんですよね。(文化功労者に選ばれたことを)それほど重要な問題なのか、ということを考えた場合は、もっと重要な問題が僕のなかに、あるわけです。それはなんなんだっていわれたら、それもわからない。まぁ、あと何年生きて何点くらい絵が描けるのかなあっていうぼんやりしたことしか浮かびませんね

それでも描くのは・・・

将来へのビジョンはないと語る横尾さんだが、いまも毎日のようにアトリエに通っては、制作に取り組んでいる。

どうして描くのか。
うーん。どうしてなんでしょうね。もう飽きちゃってるんですよ。もう、ずーっと子供の頃から、絵しか描いてませんからね。誰のために描くわけでもないんですよね。世のため、人のためにも描いているわけではない。じゃあ、自分のためか?自分のためでもない。じゃあ、何なのか。(それは)『みえないなにか』、存在を想定するしかしょうがないんですよね。その『みえない存在』に対する、なんていうのか、『奉納』みたいな感じですよね。お寺とか神社にいくと、奉納がありますよね。あれは神仏に対する奉納ですよね。だから、僕の場合は、神仏のように、はっきりはビジョンが持てないんだけれども、インスピレーションを僕に送ってくれた源泉=『もと』ですね。『もと』がなんだかわからないけれど、それに対する奉納。そのために描いているのかなと思いますね
作品をつくることとは『創作の源』というみえない何かに対する『奉納』だという横尾さん。

いまは、なにより楽しむことが重要だという。
きょうできることを、できるだけ、楽しんで描く。それしかないんじゃないかなと思って。で、あしたになると、またあしたに描きたいものが、また浮かんでくる。そしたら、また描く。絵を描けば描くことによって、自分の存在が明らかになってくるのかなと思って、やるけれど、ますます、自分の存在がわからなくなってくるみたいな。だから、続けて描いているんでしょうね
「自分」という存在を追い求めて描く横尾さん。

そう考えて、作品をみると、その時々の横尾さんの心の中が反映されているようにもみえる。
やっぱり自分からしか、出発できませんからね。自分っていうのは、不透明な状態で、それが、明確にわからないから、描くのかなって。答えを求めているけれども、答えはないっていうことがわかってるわけですよね。変な職業ですよね
2022-04-27 2022年 キャンバスにアクリル 162.1×130.3cm
アイディアは一点描けば、その絵が終わる頃に次のアイディアが浮かぶんですよ。前もって、2~3日前に浮かぶってことはないんです。とにかく1点描ききって、もうそろそろ、書き終わりだなという頃に、次のが浮かぶので。それのこう、連続性を続ければいいわけですよね

デザイナーと画家

横尾さんは、グラフィックデザイナーとして、頭角を現した。

ところが、80年代になると、突如「画家」に転向。
商業とは全く異なるアートの世界に飛び込んでいる。
デザインと美術。一般的には、その違いってのは、なかなか区別がわからないかもしれないですけども、水と油みたいなところがありますね。デザインは制約とか条件とか、そういったものを与えられて、それにしたがって、時に抵抗しながら、やっていく。一般的に『お仕事』ですよね。絵に関しては『お仕事』じゃないんです。じゃあ、なんなんだろうっていったら、生活なのか。でも、絵で収入を得ているわけじゃないから、生活でもない。なんだろうって、考えたときに、やっぱり生きるっていうことなのかなっていうね。かたや、お仕事。かたや、人生っていうのか、生きていくっていうことになってくるんじゃないかと思うんですよね。絵の場合は

AIに任せたら「生きている意味がない」

最近の話題についても聞いてみた。

人工知能=AI。画像生成AIなどは、創作の現場にもすでに影響が出ている。
絵を描くというのは、結果ができてしまえばいいんじゃなくて、絵を描くプロセス。描いている最中が楽しいわけです。AIにやらせれば、AIに楽しい部分を持っていかれて、こちら側はそれを見ているだけでしょう。だから、楽しみを奪われてしまうと、それは絵としても成立しない。AIも感情は表現するかもわからないけれども、魂までは描けないと思うんですよね。それはやっぱり人間がやらなきゃ、それは、魂は描けないと思いますね。AIがそれを全部やってしまったら、人間の存在価値がなくなって、生きていること自体が、なんていったらいいんですか。不必要になっていきますよね。意味がない。生きている意味がないですよね。AIに全部預けてしまうとね

「自分探し」で病院へ

インタビューも30分がたとうという頃、話題は、作品を生み出す「肉体」に移っていった。
アスリートみたいな方が、ある年齢に達して『体力の限界』なんていって、さっと引退しますが、それはできないんですよ。引退というものがないんですよね。とにかく死ぬまで筆は持って、そのままいくのかなと思いますね。だけど、一方では、アスリート気分ですね。もう体力、体優先で絵を描きますから。思考はもうあんまり役に立たない。できるだけ、頭のなかを空っぽにする。思考することから極力離れていくっていうことになっていく。考えることから極力逃れたい。だからコンセプチュアルアートみたいに考えて考えて、考え抜いてアートをやるっていうんじゃなくて、もう捨てて捨てて捨てて。空っぽになるっていうことに、僕はそちらのほうのタイプの人間だと思いますね。
横尾さんは、キャンバスを前にあえて思考を捨て筆をとる。

そして、自分とは、何者なのか、ということに向き合う。
しかし、横尾さんには、もっとてっとり早く自分を知る方法もあるという。
つまり、自分は何者だ、っていうことでしょう。僕はすぐに病院にいっちゃうんですよ。病院にいって、先生に『僕はどこがどうなってますか』って、僕の体のことについていろいろレクチャーされるわけです。それが僕なんですよ。だから、哲学的に物事をつきつめて考えている僕じゃなくて、体をつきつめて、体についての情報を得る。これもひとつの自分への関心、自分の追求でもあるんじゃないかと思うんですね。何者かっていったときに、体の中の様子が、自分なんですよ。脳の中の、哲学的な、形而上学的な、そういう要素ではなくて。だから、僕はしょっちゅう病院にいきます。で、先生と会って。雑談をして。そこから、自分が少しずつ、自分の体がわかっていく。自分の体がわかっていくってことは、自分がわかっていく。あるいは、わかっていたと思ったけれども、先生と話しているうちに、わからなくなってしまうってこともありますよね
肉体を使って絵を描く。体で作品を生んでいるからこそなのか。
だと思いますね。そうでなければね。たとえば、僕が、文学者かなんかで、観念と言語で、作品をつくっていると、そういうことには興味ないと思います。絵っていうのはね、頭の仕事じゃなくて、これはもう非常に身体的な仕事なんですよ。そうすると病院と直結するんですよ。そこで。僕の体のことがわかれば、僕自身のことがわかるのかっていうと、そうなんですよ
それがまさに「アスリート気分」ということか。
そうなんですよ。アスリートというのは瞬間芸だと思うんですよ。瞬間、瞬間に、彼らは考えていないと思うんですよ。瞬間は、頭の中が空っぽになっていると思うんですよ。だから、人間離れしたプレイができると思うんですね。いちいち考えながらやってると、ピッチャーにしても、バッターにしても、考えながら、投げたり、打ったりしていると、あの大谷さんみたいな成績は上がらないと思います。考えないからできるわけですね。僕のやってる絵は、コンセプチュアルの考えを放棄した状態でやってるから、非常にアスリートに近い。だから絵を描くのは早いんですよ。瞬間芸だから。ゆっくり描いているとね。肉体が頭脳に上がってくるんですよ。だから、頭脳を肉体にうつさなきゃいけない。で、手を、脳の状態にさせちゃうんですよね。うん。だから、アスリートかなぁと思って
ゆっくり描いていると、だんだんと考えが浮かんできてしまう。
そうなんです。ゆっくり描いているとね、いまおっしゃったように、ほんとにね。考えがそこに入ってきます。それが雑念になっていきますよね。早く描く。瞬間芸だと思ってるから、そしたら、そんときは空っぽになれるんですよ。だから、投げた瞬間、打つ瞬間というのは、たぶん、ああいう優秀なプレイは、頭空っぽだと思いますよ。そこがいいんです。だから、僕も、考えないでやりたいんですよ。考えてやるとどうしても頭脳的な作業になっちゃう。考えないとアスリートに近くなっていく
87歳になった日本美術界の鬼才、横尾忠則さん。

命ある限り、「アスリート人生」は続く。

横尾さんの作品は、現在、東京国立博物館の表慶館で開かれている展覧会で楽しめる。並ぶのは、いずれも新作の102点。12月3日まで。

(2023年10月21日NHKニュース等で放送)

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科学文化部記者

福田陽平

神奈川県茅ヶ崎市出身。2013年入局。岡山、札幌局を経て科学文化部。専門分野はIT・サイバーセキュリティーと文化・芸術(美術・アート)。地方局時代には、アニメーション監督・高畑勲さんや脚本家・倉本聰さんといったクリエイターなどを取材。岡山では、ハンセン病の元患者、札幌ではアイヌ、LGBTの当事者など、マイノリティーをテーマとした取材も継続している。学生時代に観た是枝裕和氏のドキュメンタリーに衝撃を受け、善悪の単純な二元論で、物事を捉えるのではなく、その「間」を深く取材し、多面的に報道することを目指している。趣味は映画鑑賞、美術館巡り、ひとり海外旅行、読書(小説)。学生時代に吹奏楽部、映画サークルに所属し、いまも年間150本は映画を観る、完全な「文化系」。日課は、契約する7つの動画配信サービスを横断し、映画・ドラマをひたすらチェックすること。悩みは、新たにどの動画配信サービスに入るべきか。

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