科学と文化のいまがわかる
文化
2021.09.27
「もし生きていたら私と同じ年齢になって、お互い、なんて年寄りまで生きたんだろうって話をしてただろうと思うんですね。折に触れて、色々な形見の物が出てきて。やっぱり話をしていますね」
ことし91歳の女性は、今も思い続けている。
生きていれば、同じときを過ごしたはずの女性のことを。
「滄海よ眠れ」、「妻たちの二・二六事件」そして「密約」。
昭和史に埋もれていた真実を次々と掘り起こしてきたノンフィクション作家、澤地久枝さんは、9か月だけ向田邦子さんより年下。20代からつきあいのあった「親友」だ。
向田さんが、突然の航空機事故で他界してちょうど40年。
澤地さんは、今、何を思うのだろうか。
白いジャケットを身に着けてインタビューの場に現れた澤地さん。
みずからのエッセーで、向田さんとの関係を次のようにつづっていた。
「好きなもの、必要なものにかこまれて暮らしているが、見まわすと、向田さんの表情や、語った言葉、声がよみがえってくる多くのものがある。借りたまま返さなかった本があり、貸したままになった本もある。二十代からの長いつきあい、浅からぬ縁を思う」
(澤地久枝「もう一度逢いたい」~“時のほとりで”より)
向田さんが、不慮の航空機事故で亡くなって40年がたつ。
まずは、そのことについて尋ねた。
「私は91歳なんですね。そして向田さんは、生きていれば11月に92歳になったはず。
私自身もずいぶん長く生きてきたと思っていますけれど、向田さんがいかに早く亡くなったかということをしみじみ感じます。
時間というのは、過ぎているときには感じませんでしたけれども、やはり、あれから40年もたったのかなと。
折に触れていろいろな形見の物が出てきて。やっぱり向田さんと話をしていますね。
それはもう、ずいぶん親しくさせてもらって、20代の終わりごろからのつきあいですから。あのひとは突然消えてしまって、ちょっと信じられなくて。
私はお別れの会で弔辞を読んでいるんですけれども、それでもまだ、本当に夢を見ているような、今もそう思いますね。
友達というものは、やたらにできるわけではないのですが、私がしょっちゅう話しかけている相手と言えばやはり向田さんですから。
別れてからの時間が長くなるほど、向田さんというひとは私の中で大きくなってきたんだと」
ラジオドラマ「森繁の重役読本」。
テレビドラマ「七人の孫」、「だいこんの花」、「時間ですよ」、そして「寺内貫太郎一家」。
“放送”の世界を舞台に次々とヒット作を生み出した向田さんは、40代半ばのとき、乳がんの手術を受けた。
輸血による肝炎と手術の後遺症で動かない右手。
押し寄せる死の恐怖。
そうしたものと向き合いながら、向田さんは文章をつづり始める。
最初のエッセー集が、澤地さんも登場する「父の詫び状」だ。
「もちろんドラマになったものは台本のときから見て知っていますし、ドラマもみんな見ましたけれども、やっぱり『父の詫び状』というのはすぐれていると思います。
向田さんが乳がんの手術をして、もう右手が利かなくなってね、左手で書くというような、非常に追いつめられて、私もそれは知らなかったんですね。
そのときに一緒に行った旅のことを書きたいと思うけれども、書いてもいいかという電話があったんですね。
私はもちろんエッセーを書こうなんて気持ちがないから、どうぞあなたの好きなようにと言いました。
それで『父の詫び状』の中には、本当はこんなことはなかったけれども、向田さんがこう書くならしかたがないなっていうようなことがありますよ」
「父の詫び状」の中の「兎と亀」には、向田さんと澤地さんが南米ペルーでお正月を迎えたときのことが書かれている。
向田さんと澤地さんは、観光のためアマゾン川・上流の町に航空機で向かう。その機上で、ふだん、きちょうめんで筆まめな澤地さんが、三角形の目をさらに三角形にしてダイヤの指輪を取り出したという。澤地さんは「これがあるから何とかなる」と向田さんの脇腹をつついた。墜落して現地で何かあったとしてもダイヤを渡して助かろう。そもそも航空機が墜落しても2人だけは助かろうという厚かましさ。あまりのことに2人は大笑いに笑ったというエピソードだ。
「向田さんは最初のころはね、かなり苦労して書いていますね。だから、実際にそんなことはありえないけれどもおもしろくするために無理して書いています。だから私は当事者になってみると、ここは向田さんが作ったなと思うこともいろいろありましたね(笑)。
でもそれからだんだんとたくさん書くようになって、向田さんも体から湧くようにしてすごい文章を書いていると思います。
だからエッセーを書き始めのころと、それから亡くなる1~2年前までのエッセーを比べてみると、変わっています。
「父の詫び状」から次々に本を書いて、もう書く材料がないんじゃないかと、私は見ていて思っていたんですね。山口瞳さん(※)が書いておられるのを見ると、向田さんがもう何も書くことがないと山口さんには打ち明けていらっしゃるのね。
だから、ずいぶんこのひとは刃物の刃を渡っていくように、かなり大変な思いをして文章を書いていたひとだと思います。
周りの人たちは、そのことに気づきませんでした。
生まれつきのものを書いているとみんなに思わせて。
そういうものも確かにありながら、しかし、向田さんは大変な努力のひとでしたね」(※作家。向田邦子さんと親交があった)
向田さんが“見えない努力”を重ねて紡いだ作品は今、若い世代の心を捉えている。その背景にあるものは何だろうか。
澤地さんは、次のように考えている。
「やっぱり向田さんが持っている人間としての悲しみのようなものではないんでしょうか。
あのひとは喜びを書かないですから。笑わせてくれるところはありますよね。でも本質において笑ってるひとじゃないですよ。翳りのあるひとでしたね。
私が向田さんと向き合って話をしているときにはお互いに笑っていますけれども、例えば青山で向田さんの後ろ姿をみつけたとき、何てこの人は寂しそうな歩き方をしているのかと。
私の直感が感じたことですけれども、向田さんはおそらく親きょうだいにも自分の本心を見せなかったと思います。それは、やはり、向田さんの人生の中にあるんですね。私は気づいていることもありますけれども、一切、口にしたことはないですね。
向田さんが何も言わないで、しかし、道を1人で歩いているときに隠しようもなく表に現れた影みたいなものをね、これはこういうことですという謎解きを向田さんはついにしなかった。
でも、謎を解くことはないと思うのね。だから今、作品を読む人たちがいろんな意味で惹かれていくのもよく分かります。
向田さんは“自分の友人の母親で”、あるいは“父親がこういうことがあって亡くなったときにお葬式がこうだった”というふうな例え話をしてくれましたが、それは、でも今思えば向田さん自身が通ったことなのね。でもそれは私の恋人がなどという言い方はあのひとの美意識がさせなかったんですね。それはそれでいいと」
向田さんの「翳り」について、澤地さんはそれ以上を語らなかった。
最も近しい存在だった澤地さんにさえ明かせない思い。
それが何だったのか、正解を求める必要はないのだ。
「それはそれでいい」
もう少し、澤地さんに向田さんの素顔を語ってもらおう。
「30年近い友人関係があったわけですよね。霞町のマンションのときから自宅に行くようになって、青山のマンションでお正月などは本当にあのひとのところの手料理を食べて新しい年を迎えてっていうのがいつもの習慣でしたから。
彼女は慌ただしいなかでおそばもゆでて、年越しそばを祝って、本当に彼女はいろいろなしきたりというものを大事にするひとでしたね。私はその中にどっぷりつかって。ともかく1週間に1回ぐらいは夜を明かしてしゃべってたんですからね、電話でね。
向田さん、うちへすぐ来るし。夜中にね。私に電話かけてきて、この切手あるかしらって聞かれると、私は必ず持っている人間なのよ。で、来るわけ彼女は。車拾ってね。バッグの中に食べ物をいっぱい買って、いっぱい詰めてくるわけよ。高い切手だって向田さんは言ったけれど、そりゃそうよね。
逆に私は向田さんのところに何かを借りに行ったり、もらいにいったりしないの。いつも向田さんところでごはんを食べていたの。だから彼女の手料理っていうものをよく食べていましたね。彼女はわたしたちを置いておいて、キッチンとみんなのいるところがくっついているから、しゃべりながらちゃっちゃっと作るんですよね。それでよくご馳走になってましたね」
澤地さんの話は続く。
「今、振り返ると、やっぱり美しいひとだった。
マニキュアをいつもちゃんとしているひとでしたね。濃い色で。どうしてマニキュアするの?って私が聞いたのね。そうしたら何か自分の爪は汚いとかって言いましたよ。足は?って聞いたら足もやってましたね。でもすごく濃い色でいつも塗っていましたね、きちっと。
あのひとはね、あすドラマの役者さんがそろって、脚本が間に合わないと穴があくっていうようなときに書くわけですよ。それも最後の3時間ぐらいで書くの。その時間のあいだに何をするかっていうと、マニキュアなんかを塗っている。うちへ来ているときもあるし。電話がかかってきてしゃべっているときもある。もう、あなた原稿書かなきゃダメでしょって私が言っても、いいのよって。だけど彼女は背中に火がついているんですよ(笑)。
でも、声が思い出せませんね。テレビを見ていて向田さんの声っていうのが流れてくると、これは違うと思う私がいるわけです。あのひとはハスキーな声だったような気がするけれども、録音されてるものは高い声ですね。だから、どれが向田さんの肉声か、もう私の中で、分からないですね。だけど、もし仮に会うことがあったら、すぐ分かるはずなの。声でね」
1980年7月、向田さんは直木賞を受賞した。
志茂田景樹さん1人の受賞が決まりかけたとき、選考委員の水上勉さんが声を上げ、山口瞳さんも強く推した。
結果は2人受賞。短編3作での受賞は異例のことだった。
「いい小説は、必ず日の目を見る」。
水上さんは、後に、そう語っている。
澤地さんは、当時のことを次のように振り返った。
「ずいぶん、盛大な受賞を祝う会もありましたよ。
向田さんは本当に喜んでいたけれども、だからといって頑張ろうっていうようなひとじゃないのよね。およそ、そういうことに似合わないひとなのよね。ほめられたから、ここで頑張りますというようなひとじゃないのよね。むしろ身を引くようなひと」
しかし、向田さんは、ずいぶんと忙しくなった。
心から祝福した澤地さんだが、2人の間には少しだけ距離ができたたようだ。
「直木賞を受賞してから、あのひとは新しい友人が多くできて、忙しくなりました。だから私は、これはちょっと身を引いたほうがいいなと思ったんですね。私の判断で。
あんまり騒がないっていうか、電話をかけたりしなくなりましたね。
そのあと、私が中国への1か月の旅から帰ってきて、向田さんとずっと話をしていませんでしたから、思い立って電話をかけたら、もう気配で分かるじゃありませんか。私が『あなた出かけるところなら、もう急いで切るわ』って言ったら、『いや、あなたは帰ってきていたの?』と向こうも言うわけですよ。それで『あなたは出かけるんでしょ?』って言ったら、『台湾へ行くのよ』って。私は『台湾?』って聞き返しました。
初めて聞きましたからね。でも分かったって言って、早く出かけてって。
彼女は電話を切って、その晩はほとんど寝ていないと思いますけれど、朝になって出かけたんです。
で、帰ってこなかったんです。
私は、向田さんが亡くなった翌々日に、向田さんのお母様に会いに行きました。そのとき、お母様は泣かないで、涙いっぱいの目で笑ってね、澤地さんが泣いちゃダメでしょって私は言われたんですよね。そういうお母様でした。にっこり笑って。
私は向田さんが亡くなって2年後ぐらいに台湾に行きました。向田さんが行こうと思って果たせなかった土地も全部、歩いたんですね。これは別に向田さんの代わりにというような、そんな気持ちではないですけれども結果においてそうなったんですね。
そのときも、やっぱり向田さんと話をしているわけです。あなた、ここへ来るはずだったんでしょって。心の中でね」
直木賞の受賞から僅か1年。
航空機事故によって、私たちは、もう二度と向田さんの新作を読めなくなった。
ただ、澤地さんによれば、向田さんは長編小説を書こうとしていたという。題材は自分の父親のこと。父親の出身地の福井県にまで取材に行き、その人生だけでなく、さらにその親の世代のことも調べていた。
「父の詫び状」の「お辞儀」というエピソードに、ふだんは威張っていた父親が、向田さんの祖母の葬式を訪れた会社の社長に対し、「平伏」とも言えるようなお辞儀をする場面が描かれている。
「私達に見せないところで、父はこの姿で闘ってきたのだ。父だけ夜のおかずが一品多いことも、保険契約の成績が思うにまかせない締切の時期に、八つ当りの感じで飛んできた拳骨をも許そうと思った。私は今でもこの夜の父の姿を思うと、胸の中でうずくものがある」(向田邦子「お辞儀」~“父の詫び状”より)
ひょっとしたら、向田さんの目には、この日の父親の姿がずっと焼きついていたのかもしれない。
向田さんが今も生きていたら。
澤地さんは、そんなことを思うことはないだろうか。
「向田さんの美意識から言ったら90歳を過ぎるまで生きるのは、あのひとは、よしとしなかったと思う。
やっぱりあのひとは、かっこよく生きたいひとでしたね。私はもう、90を過ぎたときに本当にぶざまでも自分が生きてる間は一生懸命生きなきゃならないと思いましたけれども、向田さんにはそういう感覚は多分なかったと思います。
51歳というのは、今振り返るとあまりにも若いけれども、向田さんはそれまでに十分に生きているし、向田邦子というひとは、それで十分なものを残したと思いますね。向田さんが60歳とか70歳は想像できませんもの」
1時間に及ぶインタビューが終わりを迎えたとき、澤地さんは向田さんからもらったという「トンボ玉」のネックレスを見せてくれた。
1981年の1月、アフリカに行った向田さんがお土産としてくれたものだという。
澤地さんは、その場でネックレスを着けてくれた。
向田さんが亡くなる年に、澤地さんに贈られた大切な思い出の品。
実は、身に着けるのは初めてだという。
「選んで買ってくれた人がもういないっていうのは変な気がしますね。それからもう40年もたっているということもね。
まさかこんなときにすると思ってないでしょうね。
彼女だって忘れてるかもしれないわね」
凜としたたたずまいの澤地さんは少しほほえんだ。
そしてネックレスを着けたまま、NHKをあとにした。
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