文化

信長を突いた?伝説の槍

信長を突いた?伝説の槍

2021.02.09

“織田信長の最期”と聞いて、どのような場面を思い浮かべるだろう。

 

炎が迫る本能寺の奥の間。奮闘のあと、すべての終わりを悟った白装束の信長は、扇を手に舞い、自刃するー。諸説あるものの、小説やドラマではおなじみのシーンだ。しかし、その直前、信長に槍でけがを負わせたとされる武将は、どれほど知られているだろうか。ましてや、その槍とされるものが今に伝わっていることなど。

 

その武将は何者なのか、槍は本物か―。戦国時代最大の事件にまつわる伝説を追った。

信長を突いた?一本の槍

きっと偽物だろうー。第一印象はこうだった。

佐賀県唐津市のシンボル、唐津城。

何の気なしに見学に入った天守閣2階の郷土資料室に、一本の槍が展示されていた。

長さは3メートル半。実戦で使われたのか、ところどころ刃がこぼれている。年季の入った立て札には「安田作兵衛の槍」とある。説明文に目を通すと、なんと“本能寺の変で信長を突いた槍”と書かれている。

目を疑った。なにしろ、この槍が、あの織田信長公を傷つけたというのだ。鈍い光を放つ穂先を眺めていると、400年以上前のあの事件の現場に引き込まれそうになり、ふと、われに返る。

いや、そんなハズはないー。

第一、これが本物なら、すでに世に知れ渡っていてもおかしくない。そもそも安田作兵衛とは誰なのか。なぜ唐津城に展示されているのか。思いがけない槍との出会いをきっかけに、作兵衛の足跡をたどる取材を始めた。

「本能寺の変」で描かれる安田作兵衛

本能寺の変の周辺情報を調べると、断片的だが、安田作兵衛の名前はすぐに出てきた。

過去のNHK大河ドラマにも登場している。昭和58年の『徳川家康』。本能寺の変のシーンでは、追い詰められた信長の前に、槍を手にしたひとりの武将が現れる。そして、信長を見据え、次のように叫ぶ。

「右大将信長公と覚えたり。明智勢にその人ありと知られた安田作兵衛!」

明治時代に刷られた錦絵にも描かれていた。「本能寺焼討之図」の主人公は、信長ではなく作兵衛だ。

その姿、表情は荒武者そのもの。絵の中央で、信長に向けてまっすぐに槍を突き出している。背後からは、主君の危機を救おうと、十文字の槍を抱えた森蘭丸が駆けつける。

作兵衛は、本能寺の変で信長に最初にけがを負わせた猛将として、物語本、歌舞伎や浄瑠璃などで古くから描かれていることがわかってきた。

信長の家臣・太田牛一が江戸初期にまとめた『信長公記』にも目を通した。同じ時期のほかの史料との整合がとれていて、その信ぴょう性は比較的高いとされる。そこに記された本能寺の変の描写には、作兵衛の名前こそないものの、信長は“肘に槍傷を負って退いた”とある。傷を負わせたのは、作兵衛なのか。

本能寺での活躍は証拠なし

多くの文献に共通する記述で、作兵衛の生涯をまとめてみた。
美濃国(岐阜県)出身の作兵衛は、同郷の明智光秀の家来となり、各地の戦に参加。槍の名人で、その勇猛さから「明智三羽烏」のひとりとされた。

本能寺の変では先遣隊として出陣し、森蘭丸から浴びた槍で下腹部を負傷しながらもこれを切り伏せ、信長に一番槍をつけて自害に追い込んだ。その後、主君の明智家が滅びると、世を渡るため天野源右衛門と改名して生き延び、諸国の大名のもとを渡り歩く。

そして晩年、初代唐津藩主の寺沢広高に召し抱えられ、そのまま唐津で没した。菩提寺の浄泰寺は、作兵衛が生涯、手放さなかったという槍を寺宝として守り伝えてきたー。

ところが、客観的な史実を積み上げようとすると、とたんに作兵衛は謎だらけの人物になる。槍を管理する唐津市によると、作兵衛が本能寺の変で活躍したことを示す史料は、何一つ見つかっていないというのだ。

唐津市教育委員会の岩尾峯希さんは「本能寺の変の直後に書かれた文書に作兵衛の活躍が出てくるわけではない。柳川藩(福岡県)の立花宗茂に仕え、名護屋城の築城に携わった記録などはあるものの、いつ唐津藩士になったのかもよくわからない」と話す。

有り余る逸話

では、伝説はいつから語られるようになったのか。

唐津市によると、江戸時代半ばの18世紀頃、『絵本太閤記』などの物語本に、本能寺で信長に槍をつけた人物としての記述がみられるという。

また、唐津地方の逸話を集めた『松浦拾風土記』にも本能寺の変と、その後の作兵衛の歩みの物語が採録されている。しかし、編纂されたのは本能寺の変から200年以上経った江戸時代後期で、編者は不明。史料としての信ぴょう性が疑わしい部分が見受けられる。

例えばこの中では、唐津藩主の寺沢広高が、京都に住む作兵衛を直接訪ねて家来になるよう説得するという、まるで三国志の「三顧の礼」をほうふつさせる出来事が書かれている。しかしその頃、作兵衛は柳川藩に仕えていて、京都にはいなかったことがわかっている。

さらに中盤からは奇想天外な物語へと変わっていく。

唐津に向かう作兵衛が旅先で偶然出会った男の正体は、なんと信長の旧臣。そこからは突如、江戸庶民が大好きだった「仇討ち」の物語が始まる。これを受けて立った作兵衛は結局、男を返り討ちにし、虫の息となった男の忠義を褒めたたえたあと、とどめを刺した…。

読み応えは十分だが、明らかに創作とみられる。作兵衛がこうした言い伝えによって「盛られた」人物だと考えると、そのイメージが根底から揺らいでくる。

安田作兵衛とは、一体何者なのか。

武勇を「ブランド」にたくましく生きた

戦国時代の研究が専門の静岡大学名誉教授・小和田哲男さんは、作兵衛の歴史的な評価は定まっていないとしながらも、本能寺の変では、何らかの決定的な活躍をしたとみている。その後、さまざまな大名に召し抱えられていることが、根拠の一つだという。

「天野源右衛門と名を変えて生き延び、蒲生氏郷、立花宗茂、最終的には寺沢広高に仕えている。いまの言葉でいう再就職は、戦国時代は一般的で、大名たちは武勇が優れた人を家臣に欲しがった。信長に槍をつけたことが作兵衛のブランドになったに違いない」

江戸時代に、本能寺の変は、歌舞伎や浄瑠璃の演目として「忠臣蔵」と並んで人気が高かった。このことからもわかるように、戦のない安定した社会が続いた江戸時代には、庶民の間に戦国時代や武将への憧れが生まれていた。そうした中で、猛将としての作兵衛のイメージが一人歩きしていったという。

「江戸時代の人たちにとっての戦国時代は、人は殺され、家は焼かれ、田畑は荒らされ、大変だったんだろうけれど、それなりに興味、関心があった。槍の名人といわれた安田作兵衛がどういう人物だったのかは興味津々で、演目の主要な人物として人々にインプットされていった」

小和田さんは、伝説だからと軽視するのではなく、なぜ伝説が残っているのかという視点で、郷土史への理解を深めてほしいと考えている。

「作兵衛は、明智家が滅んだことで日の目を見なかった武将の一人だが、戦国から近世をたくましく生きたという点では、武士というものの底力を今に伝えている。そんな人物が唐津にいたことは郷土の誇りであり、槍を起点に、歴史研究・歴史探訪が進むことを願っています」

歴史のロマンを秘めた一本の槍は、時空を超えて、本能寺の変といまを結んでいる。

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