文化

世界一強いはずの兵隊さんが、泣いた

世界一強いはずの兵隊さんが、泣いた

2021.12.08

「日本の兵隊さんは世界一強いと聞いていたのに、みんなすすり泣きしている。本当にびっくりしたんです」

 

終戦間際の昭和20年、佐賀県鳥栖市のある少年と、本土決戦のために集められた兵士たちの間に、不思議な交流が生まれていた。きっかけは「歌謡曲」。兵士たちの涙のわけは―

“少年”はいまも健在

その“少年”はいまも健在だ。ことしで86歳の宮原寛之さんは、9歳当時の出来事を、遠い目をしながら語り始めた。その語り口は、実に軽やか。無邪気な少年時代の姿が浮かぶようだ。

「日が暮れるころ、兵隊さんに手を引かれて駐屯地に行く。すると20人か30人ぐらいの兵隊さんが輪を作って待っているんです。あっちこっちに弾薬がいっぱい積んである。そこに蚊帳をつって僕1人、その中で歌うんです」

本土決戦に備え鳥栖に部隊集結

資料提供 国立公文書館アジア歴史資料センター

幼い少年が、兵士たちに歌を披露する。なぜ、そんなことが起きていたのか―

終戦間際、九州各地には、アメリカ軍の上陸に備えて大勢の部隊が集められていた。 “軍都”の福岡県久留米市に隣接した交通の要衝、鳥栖市もそのひとつ。寺や神社、学校などは軍が接収し、およそ2000人の兵士が駐屯していた。資料によると、その多くは通信部隊で、もともとソ連と満州の国境付近で活動していたが、戦況の悪化に伴って朝鮮半島~博多を経由して帰国。そのまま、空襲が激しさを増していた鳥栖市に駐屯し、本土防衛の任務にあたっていたのだ。

資料:中国で作戦に参加する旧日本軍

“天才少年”部隊に招かれる

そんな兵士たちと少年を結びつけたのは歌謡曲だった。

昭和初期の宮原製粉

製粉会社を営む家に生まれた宮原さん。海軍に納めるそうめんなどを製造し、戦時中も比較的暮らしは豊かだったという。自宅には最新式の蓄音機があり、物心つく頃から、父や兄たちが聞いていた歌謡曲を耳にして育った。

少年時代の宮原寛之さん

「いわゆるデンチクというやつです。電気蓄音機。家ではいつも歌謡曲のレコードが流れていましたし、兄貴たちは真空管のアンプを持っていました。小さい頃は記憶力がよかったんでしょうね。歌の意味はまったく分かりませんでしたが、いま思い出しても感心するくらい、その頃の曲を覚えていました」

覚えたレパートリーはなんと100曲以上。大人たちのどんなリクエストにも応えて歌う宮原少年は、いつしか、まちじゅうの有名人になっていた。レコードは貴重で、もちろんラジカセなどもない時代。生声で完璧に歌いこなす“天才少年”の噂は兵士たちの間に広がり、「部隊で歌を聞かせてほしい」という依頼が寄せられるようになったのだ。


歌は世につれ世は歌につれ―。世相を反映したさまざまな歌のリクエストが寄せられたという。勇ましい軍歌は、兵士たちが手をたたいて調子をとった。

「『麦と兵隊』のように中国大陸をテーマにした歌だとか、『爆弾三勇士の歌』とか。かっこいい戦闘機が出てくる『加藤隼戦闘隊』。マレー半島のスパイの『マレーの虎』とか。次から次とリクエストをもらいました」

時には、戦火に翻弄された男女の恋をテーマにしたものも。
昭和13年の『上海の街角で』はそのひとつ。

『上海の街角で』 (歌:東海林太郎、作詞:佐藤惣之助、作曲:山田栄一)

    リラの花散るキャバレーで逢うて
    今宵別れる街の角
    紅の月さえ瞼ににじむ 
    夢の四馬車が懐かしや(1番)

「日本軍のおかげで平和になった。自分は仕事で上海を離れるから、お互いの幸せのために別れよう、なんてこと言っているんですね。当時、何を言っているか全然わからなかったんですよ。よくこんな歌を小学生が歌ったものです」

追憶の『誰か故郷を想はざる』

数々のリクエスト曲の中で、特に印象に残っている歌がある。昭和15年の流行歌「誰か故郷を想はざる」。どの部隊に招かれても、必ずリクエストされたという。

『誰か故郷を想はざる』 (歌:霧島昇、作詞:西條八十、作曲:古賀政男)

 花摘む野辺に日は落ちて
 みんなで肩をくみながら
 唄をうたった帰りみち
 幼馴染のあの友この友
 ああ 誰か故郷を思はざる (1番)

資料提供 古賀政男記念館

懐かしい故郷と、そこで暮らす家族や幼なじみへの思いを込めた望郷の歌。中国戦線から帰国してもなお、故郷を離れた鳥栖市で任務に当たる兵士たちの胸に響いた。宮原さんは歌の意味を理解していなかったが、これを歌うたび、その場がただならぬ雰囲気に包まれたという。

資料

「あちこちですすり泣きが聞こえるんです。日本の兵隊さんは世界一強いと聞いていたのに、みんなすすり泣きしている。僕は本当にびっくりしたんです。ある時の帰り道に、その理由を大人に聞いたら『みんなあんたと同じ位の子どもを国に残した兵隊さんだから、その子のためにもしっかり頑張るという気持ちで涙を流している』と言われて、はー、人間はそんなことで涙を流すんだ、と不思議に思いました」

今はわかる兵士の胸中

兵士たちとの交流が続いている間にも、鳥栖市はたびたび戦火にさらされた。
空襲や機銃掃射で多くの市民が犠牲になり、駐屯していた兵士も命を落としている。

終戦からまもなく部隊は解散し、兵士が駐屯していたことは忘れ去られていった。軍国少年だった宮原さんも、自由をおう歌する青年のひとりとなり、戦時中の歌謡曲も、みずからが歌を披露したことも、記憶の彼方に消えかけていた。

ところが、戦後ずいぶんと経ったある日、ある歌に、思いがけず再会する。ふと耳に入ってきた『誰か故郷を想はざる』のメロディー。無意識に口を突いて出てきた歌詞が、自身の胸に強く響いたのだ。

数十年の時を経て人間関係は広がり、父親になっていた宮原さん。故郷に家族を残し、あすの命も知れぬ任務に当たっていた兵士の境遇に思いをはせ、当時、自分がしていたことの意味に気づいたという。

「私の歌を聞いて故郷を思い、友を思い、家族を思い、懐かしい気持ちになって涙を流していたあの姿が目に浮かびます。自分も成長し、家族ができて、ようやく彼らの気持ちがわかりました」

当時、宮原さんの歌に聞き入っていた兵士たちは、どう感じていたのか。兵士のその後をたどる資料を探したが、残念ながら手がかりは得られなかった。一方、終戦から30年以上たった昭和50年代まで、元兵士の有志がたびたび鳥栖市を訪れ、駐屯していた小学校に植樹をしていたことが、今回の取材でわかった。彼らはどんな思いで訪れたのか。そこで“歌の上手な少年”の話題は出たのか。いまでは知るよしもない。ただ、 “少年”の心の中では、歌謡曲がつないだ兵士たちとの思い出が、今も生き続けている。

信長を突いた?伝説の槍

NEWS UP信長を突いた?伝説の槍

ゴジラのきょうだい!? 佐賀で“生きていた” ティラノサウルス

NEWS UPゴジラのきょうだい!? 佐賀で“生きていた” ティラノサウルス

ご意見・情報 お寄せください