文化

金印は本物? 真偽めぐる論争過熱

金印は本物? 真偽めぐる論争過熱

2018.01.31

今からおよそ2000年前の弥生時代に中国の皇帝から与えられ、江戸時代に見つかったとされている国宝の金印「漢委奴国王」。多くの人は、その“史実”を疑う余地などないと信じてきたことでしょう。

しかしいま、この金印をめぐる根本的な議論がわき起こっています。

金印は、本物なのかー。真偽を問うシンポジウムが、出土の地、福岡で開かれ、本物と偽物それぞれの立場をとる研究者が激論を交わしました。

弥生時代の交流示す国宝

歴史の教科書などでおなじみのこの金印は、江戸時代の中頃、現在の福岡市の志賀島で水田の溝を修理していた農民が土の中から見つけたとされています。

正方形の印面は1辺が2.3センチ、重さ108グラムの純金製で、とぐろをまいたような蛇の形をした「つまみ」があり、印面には「漢委奴国王」の5つの文字が3行にわたって彫り込まれています。

所蔵する福岡市博物館によりますと、読み方は諸説ありますが、「漢の委の奴の国王(かんの・わの・なのこくおう)」すなわち「漢に朝貢する、倭の中の奴国の王」という意味だとする考えが通説となっています。

中国の古代王朝は周辺の国に対して主従関係の証しとして印を与えていて、中国の歴史書「後漢書」には、西暦57年に「後漢に貢ぎ物を持ってあいさつに来た倭の奴国に対して皇帝が印を与えた」という記述があります。

志賀島の金印はこの記述に相当するという見解が定着し、九州北部の「奴国」が中国の王朝と交流していたことを物語る歴史的価値の高い資料として、昭和6年に国宝に指定されています。

出土状況は謎だらけ?

実はこの金印、発見以来、後世に作られた偽物ではないかとする疑問の声がつきまとっています。

金印の発見時の様子が分かる古文書は複数あり、発見した農民の口上書のほか、当時、随一の学才を備えていた福岡藩お抱えの学者の鑑定書も残っています。

にもかかわらず、発見されたとされる場所は不明確でそれらしい遺構もなく、出土品もほかにありません。さらには、金印を発見した農民「甚兵衛」が実在したかどうかを怪しむ声もあるほどです。

長年くすぶり続けているこの話題に火をつけたのは、千葉大学の三浦佑之名誉教授。12年前に「江戸時代に作られた偽物だ」とする説を発表し、以後、考古学や金属加工の専門家を巻き込んだ論争が続いています。

「偽物説」主張の根拠は

最大の論点は、この金印が「いつ」作られたのか。

金属製品など古代の工芸技術に詳しいNPO 工芸文化研究所の鈴木勉理事長は、金印に残る彫り痕の特徴が古代中国で作られたとされる印と大きく異なっていると指摘。後世の偽造ではないかと考えています。

鈴木さんによりますと、志賀島の金印は、文字の中心線を彫ったあと、別の角度からも「たがね」を打ち込んで輪郭を整える「さらい彫り」という技法が使われています。

一方、この金印とほぼ同じ時期のもので特徴もよく似ているとして「本物説」の根拠の1つとなっている、中国で見つかった「広陵王璽」という印は、たがねで文字を一気に彫り進める「線彫り」と呼ばれる高度な技法で製作されているということです。

さらに、前漢から後漢の印の多くは1つの線がほぼ均一の太さで彫られているのに対し、志賀島の金印は中央から端に向かって太くなる特徴があるうえ、印面に対する文字の部分の面積がほかの印と比べて突出して大きいということです。

鈴木さんは「さらい彫り」やこうした文字の特徴は江戸時代の印によく見られるとして、「金印は江戸時代に作られた偽物の可能性が非常に高い」と指摘しています。

「本物説」主張の根拠は

これに対して、「本物説」の論者も黙ってはいません。

明治大学文学部の石川日出志教授は、その根拠として、彫られた文字の特徴や飾りの形、それに金の純度などを挙げています。

石川教授は弥生時代の考古学が専門で、これまでに中国で見つかっている古い時代の印の外見や刻まれた文字の特徴との比較などをもとに研究を進めてきました。

それによりますと、志賀島の金印は、「漢」の字の「偏」の上半分が僅かに曲がっている点や、「王」の真ん中の横線がやや上に寄っている点が、中国の後漢初期の文字の特徴をよく表しているということです。

また、蛇の形をした「つまみ」について、中国や周辺の各地で発見された同じような形の印と比較すると、後漢はじめごろに製作されたものが最も特徴が近いとしています。

さらに、志賀島の金印に含まれる金の純度は90%以上と古代中国の印とほぼ同じだと指摘。「江戸時代に金の純度をまねてまで作ることはできず、後漢のものだとして何ら問題がない」と主張しています。

白熱のシンポジウム

1月21日に福岡市博物館が初めて開いたシンポジウム。

本物と偽物それぞれの立場をとる研究者が招かれ、金印の文字やつまみの形などをめぐって激しい議論が交わされました。

しかし、双方とも最後までそれぞれの主張を譲らず、様子を見守っていた地元の歴史ファンの受け止めも、「本物説の方が信頼性があった」「偽物説の方が論理的だった」などとさまざまでした。

今回は「引き分け」に終わりましたが、両者は今後さらに主張の根拠を固め、将来、別の舞台で決着を図ることを約束しました。

新たな視点も紹介

一方、シンポジウムでは、これまでとは違う視点からの研究も紹介されました。

福岡市埋蔵文化財課の大塚紀宜さんは、金印の「つまみ」が途中で作り変えられているのではないかとする自説を発表。蛇の形をしている金印の「つまみ」は、もともとラクダの形をしていたのではないかと指摘しました。

確かに、つまみの部分をよく観察すると、前足や後ろ足があるようにも見え、一般的にイメージされる蛇とはほど遠いデザインであることに気付かされます。

大塚さんによりますと、つまみの形と印が見つかった場所との関係を調べてみると、当時、「蛇=南」「ラクダ=北」という区別があったと推測できるということです。

大塚さんは、漢は奴国が北にあると思い込んでラクダにしたものの、途中で間違いに気付き、あわてて蛇に変えた可能性があるとしています。

“史実”とは何かを考える

金印は本物だとする立場を変えていない福岡市博物館が、なぜこのようなシンポジウムを開いたのか。

有馬学館長は「歴史的な価値が確定したかのように思われている資料でさえさまざまな見方ができ、学問的な根拠がぶつかっている。こうした議論があることを多くの方に知ってもらうことで、文化遺産についての理解がいっそう深まると思います」と話しています。

1つの小さな資料でありながら、研究の手法が異なれば全く違った見解になる。そして、論争があるからこそ研究が深まり、新説も生まれてくる。私自身、取材を通じて“史実”とは何かを考えさせられ、歴史をひもとくことの魅力や奥深さを感じました。

この金印、福岡市博物館で実物が常設展示されています。2000年前の本物なのか、それとも後世の偽物なのか、みなさん自身の目で確かめてみてはいかがでしょうか。

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