文化

自分が好きなものを作るんじゃない

自分が好きなものを作るんじゃない

2020.11.06

昭和から平成にかけてヒット曲を連発し、“歌謡曲の神様”とも呼ばれた作曲家の筒美京平さんが先月亡くなった。「また逢う日まで」「魅せられて」「木綿のハンカチーフ」。1度聴いたら耳から離れない、思わず口ずさんでしまう名曲の数々。送り出した曲は2700曲以上。シングル曲の売り上げは、歴代最多の7560万枚。現在のJーPOPにつながる日本の歌謡曲の歴史を作り上げた天才作曲家の創作の秘密とは。その知られざる素顔を追った。
(科学文化部 記者 加川直央・NHKスペシャル取材班)

「売れるものを作らなくちゃいけない」

作曲家としてのシングル曲の売り上げ、7560万枚。

これは小室哲哉さんや桑田佳祐さんを抑えて、歴代最多の記録だ。

筒美京平さんは、文字どおり「最も売れた作曲家」だった。

その筒美さんが、生前、常に口にしていたのは「ヒットする曲、売れる曲を作る」ということだった。

一方で、メディアにもほとんど顔を出すことはなく、職業作曲家として黒子に徹していた。

晩年、NHKの番組やラジオに出演した筒美さんの言葉が残されている。

「流行歌の作曲家の良心みたいなもの。自分で好きなものを作るんじゃなくて、売れるものを作らなくちゃいけない。そういう思いが、どこか頭の中にあったんじゃないかな」
「黒子みたいにいるべきだと。自分の持っている音楽を表明していく感じでは全然ない。ヒットすることがベスト。それに殉ずる」(NHKの番組での筒美京平さんの言葉)

デビューから一躍ヒットメーカーに

筒美さんは、1940年に東京で生まれた。

レコード会社で海外の曲の買い付けやプロモーションの仕事をしながら曲作りを学び、1966年、26歳の時に作曲家としてデビュー。

2年後には、自身が作曲した「ブルー・ライト・ヨコハマ」がミリオンセラーを達成した。

その後も、アメリカの最新のポップスを歌謡曲に転換する手法や、印象的なイントロ、管弦楽を導入したゴージャスな響きなど、聴く人を飽きさせない巧みな作曲術で、一躍 時代のヒットメーカーとして頂点に上り詰めた。

盟友の作詞家との出会い

松本隆さん

デビューから7年後の1973年。

のちに400曲近くを共作することになる、ある青年と運命的な出会いを果たす。

作詞家の松本隆さんだ。

松本さんは、当時24歳。

日本語ロックを確立したとされる伝説的なバンド「はっぴいえんど」のドラマー兼作詞家として活躍したあと作詞家へ転向し、独自の詞の世界や音楽性を追求していた。

「はっぴいえんど」ジャケット写真

すでにヒットメーカーとして名を馳せていた筒美さんが、松本さんに共作を願い出たのが出会いのきっかけだった。

初めて2人が顔を合わせたとき、筒美さんにかけられた言葉を松本さんは強烈に覚えている。

「自分でプロデュースしたレコードを持って行って、『こういうのを作りました』と言って聴かせて反応をみたら、『趣味で音楽できていいわね』って言われて(笑)。趣味で音楽って作っちゃいけないのかなと。僕はそれまで趣味でしか音楽を作ったことがなかったから」(松本隆さん)

その言葉には、「曲をヒットさせる」という掟を自らに課していた筒美さんの自負が込められていた。

「正反対の人と巡り会えたわけですごく面白かった。筒美京平という歌謡界の巨人と自分のような駆け出しのTシャツにジーパンの若造がどう共同作業したら、これからの音楽業界を変えていけるかという、戦いの始まりでした」(松本隆さん)

「曲先」か「詞先」か せめぎ合う2人

戦いの始まり、松本さんがそう表現した、筒美さんとの曲作り。

それは、新人の女性歌手、太田裕美さんのプロデュースをめぐって本格化する。

2人でシングル曲を3曲発表したあと、手応えをつかみかねていた松本さん。

これまで慣例だった、曲にあとから詞をつける「曲先」(きょくさき)と呼ばれる手法をやめて、「詞先」(しさき)にしたいと申し出た。

松本さんは、「はっぴいえんど」で作り上げてきた得意の手法を突きつけたのだ。

「これまでどおりの『曲先』では、世界が変わらないと感じて、ちょっと冒険させてくれと言った。メインストリームにいた京平先生と、(私の)サブカルチャーの衝突でした」(松本隆さん)

松本さんが筒美さんに投げかけた詞、それは「木綿のハンカチーフ」というタイトルだった。

就職のためにふるさとから都会に旅立った男性と、その帰りを待つ女性の思いのすれ違いが、一人称で交互に語られる文学的な構造を持った詞になっていた。

当時の歌謡曲は「2コーラス+サビ」という「2ハーフ」と呼ばれる形式が一般的だったが、この詞は、全部歌うと4コーラスに及んだ。

「アメリカ民謡みたいにすごく長い詞が書きたいなって、そういう歌謡曲があってもいいかなと思った。京平さんだったらなんでもできると僕は思ってたから、すごい曲作るだろうなと楽しみにしていた」(松本隆さん)

詞を受け取った筒美さんは、当時のヒット曲のセオリーでは考えられない詞の長さに驚き、すぐに、短くさせようとレコードディレクターに電話したという。

ところがこの電話がつながらなかった。

当時は携帯電話もない。

諦めて、深夜午前3時に曲作りを始めたという筒美さん。

朝方、ディレクターのもとに届いたのは、「すごく良い曲が出来た」と話す明るい声だった。

出来上がった楽曲。

それは、男性から女性の語りへと入れ替わるタイミングで挿入される「いいえ あなた」というフレーズを、絶妙なリズムとメロディーで強調することで、松本さんが作り上げた詞の世界観をさらに深め、豊かに押し広げる見事な構成になっていた。

ヒットにこだわる筒美さんと、新たな詞の世界を追求する松本さん。

2人のせめぎ合いの中で日本の歌謡曲の流れを大きく変える名曲「木綿のハンカチーフ」が誕生した。

これ以降、2人の曲作りは多くが「詞先」で行われるようになり、次々にヒット曲を世に送り出した。

形式にとらわれない、新たな作曲の境地を切りひらいた筒美さんは、後に「詞先で曲を作らせたら、私がいちばん上手いと思う」と語っている。

職業作曲家として苦悩した時期

1970年代の終盤。

日本の音楽界は、みずから作詞作曲して歌う、シンガーソングライターによる「ニューミュージック」と呼ばれるジャンルが台頭する。

このころ、松本さんは、ふだん弱音を絶対に吐かない筒美さんから、「作曲家を辞めたい」という言葉を聞いたという。

松本さんは筒美さんを励まそうと自宅を訪ねた。

「楽しんで仕事しようって。彼はすごく売るっていうことに関して、責任感が強くて。僕が言ったのは、作詞家・作曲家たちってそんなに責任を負わなくていいんじゃない?ということ。自分たちが面白い詞を書いて、面白い曲をつくれば、楽しんでくれるんじゃないの。いつも1位を取らなくていいと思うって言ったのね」(松本隆さん)

ちょうどこの頃、2人はニューミュージック系の歌手に曲を提供することになっていた。

松本さんは、伝統的な歌謡曲の雰囲気を漂わせた歌詞を書き上げ筒美さんに託した。

筒美さんが曲をつけ、仕上げたのが中原理恵さんの「東京ららばい」。

哀愁漂う歌謡曲とラテン音楽を組み合わせた楽曲は大ヒット、中原さんはその年のレコード大賞新人賞を獲得した。

松本さんの言葉から再びヒットの糸口を掴んだ筒美さんは、その後、「辞めたい」と口にすることは無くなったという。

筒美さんの曲のアレンジを多く手がけた編曲家の船山基紀さんは、筒美さんが長年ヒットメーカーとして活躍できたのは、常に時代の変化を敏感に捉えようとしていたからだと分析している。

「世の中にだんだんシンガーソングライターとか、フォークソングが多くなってきて。そうすると京平先生はその時代を捉えるために、その時代のアレンジャーだったり、ミュージシャンだったりを起用していくわけです。モチベーションをくすぐるような、そういう香りをいつも感じたかったんでしょうね」(船山基紀さん)

無名のバンドを異例の試みでプロデュース

1980年代の日本の歌謡界は、アイドル全盛の時代を迎える。

一方、世界では、シンセサイザーや電子ドラムなどの電子楽器を使った「ニューウェイブ」と呼ばれる新たな音楽の潮流が、流行の兆しを見せていた。

こうしたなか、筒美さんと松本さんのもとに、解散寸前のバンドに起死回生の1曲を提供してほしいという依頼が舞い込む。

当時はまだ無名だった「C-C-B」だ。

筒美さんはこのバンドを、「ニューウェイブ」の新星として生まれ変わらせようと決意する。

目を付けたのが、ドラマーの笠浩二さんの声。

透明感があるハイトーン・ヴォイスに魅力を感じ、ドラマーにも関わらず、メインボーカルを委ねた。

当時としては異例の試みだったが、電子楽器の派手なサウンドに埋もれない個性的なヴォーカルが必要だと考えたのだ。

突如、ヴォーカルに抜擢された笠さんは、プレッシャーに押しつぶされそうになっていた。

「なんで俺を選んだのっていう感じで。自分にすごく自信がない人間だから、自信をもってドラムを叩いたり歌ったりできなくて、よく間違えるし。メンバーからも、なぜ笠がメインヴォーカルなの、っていう。板挟みみたいになってしまって。筒美先生のデモテープが来て、それをプロデューサーの会社で1週間歌って、だめ出しをされて。だんだん、自分で歌自体がどういうものか分からなくなっちゃって。最後は泣きながら帰ったときもあった」(「C-C-B」笠浩二さん)

そして迎えた、レコーディング本番。

ハプニングが起きる。

笠さんが、緊張のあまり、「胸が苦しくなる」という歌詞の末尾の「なる~」というメロディーを、筒美さんから指示された下げ調子ではなく、上げ調子に勝手に変えて歌ってしまったのだ。

いたたまれずスタジオを飛び出した笠さんに、筒美さんがかけたのは意外な言葉だったという。

「“これでいいよ”って言ってくれたのね。自分が歌いやすいところで歌ってるんだから。それが君のメロディーなんだから、と。本当に嬉しくて、いままで一生懸命歌っていて、報われたというか。もっと好きに音楽を楽しみなさいという感じで、勇気づけられた」(「C-C-B」笠浩二さん)

音楽を楽しむ。

それは、かつて松本さんが落ち込む筒美さんにかけた言葉だった。

こうして誕生した「Romanticが止まらない」は、その年のレコード大賞の金賞に輝いた。

若い才能とタッグを組み時代の最先端のサウンドを作り出す筒美さんの企みは成功した。

80年代の筒美さんは、近藤真彦さんや小泉今日子さん、郷ひろみさんなど、次々とアイドルに曲を提供し、アイドルブームをけん引した。

1人1人の声質やキャラクターを的確に捉えて個性を引き出し、歌の経験が乏しいアイドルも大ヒット歌手へと導く「ヒット請負人」として、君臨し続けた。

「プレッシャーの中で名曲は生まれるんだ」

ところが、1990年代に入ると音楽シーンはめまぐるしく変化する。

小室哲哉さんがプロデュースするアーティストたちのダンスミュージックが、日本中を席巻。

筒美さんの曲は、常連だったヒットチャートから、少しずつ遠ざかっていった。

筒美さんは、NHKのラジオや番組で、当時の心境を次のように語っていた。

「自分たちでもびっくりした。われわれみたいな職業作曲家の名前が、ベストテンからあっという間に消えた。日本の文化が変わり目に来ていた」
「時代がいつでも先に行って、時代が作曲家を選んでいくということを、つくづく思いました」(NHKの番組での筒美京平さんの言葉)

それでも、筒美さんは精力的に作曲活動を続ける。

そのひとつが、1994年に発表されたNOKKOさんの「人魚」という曲。

詞は、NOKKOさんが自ら書いた。

筒美さんはこのとき、54才。

すでにデビューから30年近くが経っていた。

筒美さんは当時、NOKKOさんにこう話していたという。

「もっとどんどん曲を頼んでほしい。プレッシャーの中で名曲は生まれるんだ」

2000年代に入ってからも、筒美さんはTOKIOの「AMBITIOUS JAPAN!」、中川翔子さんの「綺麗ア・ラ・モード」など、印象的な楽曲の数々を生み出す。

令和を迎えた去年5月にも、新作を発表。

晩年になっても、流行の音楽を研究し続けたという。

「アメリカのチャートの動きが大好きなんだよね。最後のほうは、『アデルが』(イギリスの歌手)とか言ってた。さすがに早いなと思ったよ。僕なんかより、やっぱり全然詳しかった」(松本隆さん)

ヒットメーカー・筒美京平が目指したもの

売れる曲、ヒットにこだわった筒美京平さんと、独自の詞の世界を追求した松本隆さん。

正反対に見えた2人だが、実は同じ場所を目指していたのではないか。

筒美さんが亡くなった今、松本さんは、そう考えている。

「いい曲とか、いい詞っていうのは、すごくあいまいで、抽象的。何がいい詞かというのは、聞いた人によって全然違う。それでもヒットチャートがなぜ良いのかというと、多くの人がこういうものが好きっていうのが、やっぱり1位を取る。そういう普遍的なものは、僕が追求したことだし、京平さんも追求したところ」(松本隆さん)

多くの人の心を掴む、普遍的な曲。

それが、2人がそれぞれのやりかたで追い求め続けた、音楽の頂きだった。

「ヒットに殉じる」

そう語った筒美さんの音楽は、今も、そしてこれからも私たちの心に響き続ける。

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