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文化
2021.05.28
世界各国で世代を超えて親しまれている絵本「はらぺこあおむし」を描いたアメリカの絵本作家、エリック・カールさんが91歳で亡くなりました。NHKでは2017年にカールさんが来日した際にインタビュー取材を行い、特集記事を掲載しました。カールさんをしのんで、当時の記事を再掲載します。
(科学文化部記者 黒瀬総一郎)
幼いあおむしが、毎日おなかをいっぱいにしながら成長し、美しいちょうになる様子を、色彩豊かに描いた絵本、「はらぺこあおむし」。
アメリカで最初に出版されたのは、1969年。以来、世界の63の言語に翻訳され、累計発行部数は4400万部にのぼり、世代を超えて親しまれています。
日本では、1976年からこれまでに750万部が発行され、いまも、年間25万部以上が売れる異例の作品となっています。
その「はらぺこあおむし」を描いたアメリカの絵本作家、エリック・カールさんが東京で作品展が開かれるのにあわせて、来日しました。
長く愛される絵本がどのように生まれたのか、カールさんにその秘密を直接たずねると、鮮やかな色彩に隠された、意外な「原点」を教えてくれました。
(科学文化部・黒瀬総一郎記者)
絵本「はらぺこあおむし」は、幼いあおむしの成長を描いた物語です。
生まれたばかりのあおむしは、りんごを食べたのをきっかけに、毎日、おいしいものを、たくさん求めるようになります。
すもも、オレンジ、アイスクリーム、ソーセージ、カップケーキ。
食べ過ぎておなかをこわす失敗も。
そんなあおむしも大きく育ち、やがてちょうになります。
親しみのもてる物語と、鮮やかな色彩が、子どもたちの心をつかんでいます。
鮮やかな色彩は、カールさんのほかの絵本にも共通した特徴です。
なぜ、こうした鮮やかな色彩を使うのか、カールさんに尋ねると、意外な答えが返ってきました。
その原点は、戦争体験にあると言うのです。
カールさんは、「私は戦争を経験し、悲しい時代を過ごしました。そのときの悲しさを、絵本を通して、喜びに変えているんです」と話しました。
1929年、アメリカで生まれたカールさん。野山で遊んだり、絵を描いたりするのが大好きな子どもでした。
カールさんを取り巻く状況が大きく変わったのは、6歳のとき。
両親のふるさと、ドイツに移り住みましたが、その後、まもなく、第2次世界大戦に巻き込まれることになります。
ドイツのナチス政権下では、市民生活もさまざまな形で抑制されました。
街なかの建物や人々の服装から、色もなくなっていきました。
当時のようすについて、カールさんは、こう話します。
「爆撃機から目立たないよう、家は茶色やクリーム色に塗り替えられていましたし、街では、鮮やかなスカーフや服を見ることもなくなりました。すべてが灰色だったんです」
そうした中、カールさんが12歳のとき、美術の先生が見せてくれた絵画の鮮やかな色が、心に強く刻まれたといいます。
カールさんは、そのときのことを次のように語りました。
「当時、ヒトラーは、ピカソの抽象画やマティスの大胆な表現を抑圧していました。私は、ピカソもマティスも知りませんでしたが、ある日、美術の先生が、こっそり、その色鮮やかな絵を見せてくれたんです。そして先生は、『君は自由に絵を描けばいいんだ』と言ってくれました。当時はなぜ先生がそんなことをしてくれたんだろうと思いましたが、いまでもずっと、強く心に残っています」
この経験から、カールさんは、色鮮やかな絵を描くようになりました。
色が、自由と平和のシンボルとして、心に穏やかさをもたらしてくれると思えるようになったからです。
苦しい世界から救いを求めて、色彩に目覚めたカールさん。
「私の人生には、いろいろなことがありました。私の本が皆さんの喜びになり、学びになり、成長の助けとなることを願っています」
みずからの絵によって、多くの人に安らぎを感じてほしいと優しい表情で語りました。
カールさんの絵本には、もう一つ、人気を誇る理由があります。
それは、絵本に施された、さまざまな仕掛けです。
カールさんの「はらぺこあおむし」では、あおむしの食べたあとに、穴が開いています。
子どもに物語をよりリアルに感じてもらうアイデアです。
そして、ページの幅にも工夫が。あおむしが食べる量が増えるにつれて、ページの幅も広がるようになっています。
ただ読むだけではなく、物語に参加している気持ちになれるのがカールさんの絵本のもう一つの特徴です。
こうした「仕掛け」のある本を作ろうと思った理由も、カールさんの生い立ちに関係していました。
カールさんは、「アメリカで生まれ育ち、幼い頃は恵まれていましたが、異国のドイツでは、すべて学び直さなければならなかったうえに、間違えれば体罰も受けるようになったんです」と当時を振り返ります。
子どものころ、厳しい環境で、学ぶことに苦労したカールさん。
より分かりやすく、子どもが夢中になれるものをと考えて生まれたのが、「仕掛け」のある絵本でした。
取材を進めると、実は、もうひとつ、「仕掛け」絵本の誕生に隠された秘話がありました。
「はらぺこあおむし」が、1969年に世界で初めてアメリカで出版されたときの本をよく見ると、「Printed in Japan」と書いてあります。
この本、英語版にも関わらず日本で印刷・製本されたものなんです。
本に施す仕掛けが複雑で、アメリカでは、コストが高くなるため印刷を引き受けてくれる会社が見つかりませんでした。
そうした中で、手を挙げたのが、日本の会社だったというのです。
カールさんは、「当時、アメリカでは、本に穴を開けたり、ページを小さく切ったりしようとすると、コストが非常に高くなりました。私の編集担当者が、日本の会社を見つけてくれて、はじめて出版できたんです」と教えてくれました。
本に穴を開けるというアイデアは、生活の中でのふとしたひらめきで、「穴開けパンチで、紙に穴を開けていた時に、本を食べる虫の話を思いついたんです」と話していました。
カールさんは、その後も、さまざまな『仕掛け』を、世に送り出しています。
例えば、「ゆめのゆき」という絵本では、フィルムをめくると、雪に隠れて見えなかった動物が姿を現します。
「だんまりこおろぎ」という絵本では、音を鳴らせずに悩んでいたこおろぎが、最後にやっと出せた瞬間、本から実際に音が鳴る仕掛けになっています。
カールさんは、絵本に込めた思いをこう語っていました。
「私の絵本はおもちゃと本をミックスしたものなんです。子どもは、おもちゃで遊んだのちに、本で勉強することを覚えますが、私は、その橋渡し役を担いたいんです」
絵本に詳しい日本女子大学の石井光恵教授(当時)は、「カールさんの『仕掛け』は、絵本で伝えたいメッセージを際立たせる効果を持っている。カールさんのこうした『仕掛け』は、国内外の多くの絵本作りの土台となっている」と指摘しています。
東京の世田谷美術館で(2017年)4月22日から7月2日まで開かれたカールさんの作品展には、色鮮やかに描かれた絵本の原画や、絵画作品、およそ160点が展示され、カールさんの作品展としては、これまでで最大です。
作品展にあわせて開かれたカールさんのサイン会では、若い女性が感動して泣いていたり、子どもが自分で描いた絵をカールさんにプレゼントしたりしていて、世代を超えた人気を実感しました。
今回、カールさんには、特別に30分の時間をいただき、詳しくお話を伺いました。
色彩の豊かさは、自由や平和のシンボル。
一冊の絵本に込められた深くて尊い思いを知ることができました。