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文化
2022.01.07
ことしの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。
主人公は、源頼朝亡きあと、内部抗争を勝ち抜いて鎌倉幕府の実権を握ったとされる北条義時です。
その義時も当事者となった「乱」が、1221年、今から800年余り前に起きました。
「承久の乱」です。
京都の朝廷が鎌倉の幕府側に敗れ、それ以降、江戸時代まで続く“武士の世”が決定づけられました。
日本史の大きな転換点とも言えます。
この乱に巻き込まれた1人の若者がいました。
時代の荒波に翻弄される生涯を送ったこの人物。
知られざるその人生に今、光が当たろうとしています。
四国・徳島県を東西に流れる吉野川。
北岸に広がる阿波市の「御所神社」で去年11月、承久の乱から800年を記念した祭りが開かれました。
神社にまつられているのは「土御門上皇」。
乱をきっかけに、この地にやってきました。
式典では、土御門上皇の霊を慰める舞や、上皇がこよなく愛したという和歌などが奉納されました。
土御門上皇がいらっしゃる御所神社は村の宝であり、心のよりどころでもある。
今後も守り引き継いでいくのが私たちの務めだ。
昔、地元に上皇さまがいたということは誇りに思います。
これからも上皇さまについての言い伝えを受け継いでいきたい。
土御門上皇は、建久6年(1195年)、当時の後鳥羽天皇の第1皇子として誕生したと伝わっています。
源頼朝が鎌倉に幕府を開いてからまだ間もないころです。
4歳で後鳥羽から譲位され、土御門天皇となりますが、政治の実権は上皇となって院政を敷いた父が握っていました。
南北朝時代に成立したとされる文書『増鏡』。承久の乱など、主に鎌倉時代の出来事について記しています。
その中に、土御門が11歳のときに行われた元服(成人の儀式)のときの様子が書かれています。
「元久二年正月三日御冠し給 いとなまめかしくうつくしげにおはします 御本性も 父御門よりは すこしぬるくおはしましけれど 情け深う 物のあはれなど聞こし召しすぐさずぞありける」
《元久2年(1205年)正月3日、ご元服なさった。たいそう優美でかわいらしくいらっしゃる。ご性格も、父の後鳥羽上皇よりは少し温和でいらっしゃったが、情け深く、情趣や人の喜怒哀楽などをお聞きになって放っておくことがなかった》
温厚な性格だったという土御門ですが、即位して12年後の承元4年(1210年)、16歳のときに弟(順徳天皇)に譲位し、上皇となります。
これは、弟を溺愛していた父・後鳥羽の意向だったと、『増鏡』は伝えています。
この間、朝廷の最高権力者の座にあった後鳥羽は、鎌倉幕府3代将軍・源実朝への異例の官位昇進などを通して、鎌倉との協調関係を保っていたとされています。しかしこの関係も長く続きませんでした。
土御門が譲位して9年後の建保7年(1219年)1月。
鎌倉・鶴岡八幡宮で、将軍・実朝が暗殺されるという大事件が起きます。その後も幕府内の権力闘争に起因すると考えられる事件が京都に持ち込まれるなど、朝廷と幕府の関係は冷え込んでいきました。
そして承久3年(1221年)5月、後鳥羽はついに幕府の実権を握っていた執権・北条義時追討の命令を下します。これが「承久の乱」の始まりです。
これまでの間、土御門はどうしていたのでしょうか。「保暦間記」という文書には、こう記されています。
「関東ヲ滅サルベキニ也ヌ 中ノ院 是ハ時至ラヌ事也 悪キ御計哉ト随分諌為申給ケレドモ不叶」
《(後鳥羽上皇たちは)鎌倉幕府を滅ぼすべきだということになった。土御門上皇は「それは早計です。よくない計画です」とずいぶんお諌めなさったが、かなわなかった》
戦いに傾いていく父たちを止めようとした様子がうかがえます。
土御門は、乱の計画に関与していなかったことが定説とされています。
父・後鳥羽に似て気性が激しかったという弟・順徳は、父とともに朝廷内での主戦派でした。
持ち前の優しい性格に加え、事態を客観的に見られる立場にいたからこそ、父や弟のふるまいを止めようとしたのかもしれません。しかし、その思いは届きませんでした。
開戦後、有名な“尼将軍”北条政子の演説に鼓舞された鎌倉武士たちは破竹の勢いで京都に攻め上がり、各地で朝廷軍を撃破。わずか1か月で入京を果たし、乱は鎌倉の圧勝で幕を閉じます。このときの後鳥羽側のことばが、鎌倉幕府の『吾妻鏡』という文書に残されています。
「今度合戦 不起於叡慮 謀臣等所申行也」
《今回の戦は(後鳥羽上皇の)ご意志から起こったものではない。謀略をめぐらせた臣下たちが申してやったことである》
なんとか責任を回避しようとしたのでしょうか。
しかし、幕府はそれを許しませんでした。
後鳥羽と順徳の2人をそれぞれ隠岐国(島根県・隠岐島)、佐渡国(新潟県・佐渡島)に流罪としたのです。
3人の上皇のうち、土御門だけは罪を問われませんでした。幕府は土御門が乱に直接関わっていなかったと判断したのです。しかし―。
「父の院 遥かにうつらせ給ぬるに のどかにて宮こにあらん事 いと恐れあり」(『増鏡』)
《父の後鳥羽上皇がはるか遠くの隠岐島にお移りになったのに、のんびりと都にいるのはとても恐れ多い》
みずから配流となることを望んだ土御門。
その意志は固く、幕府もついにこれを認めます。
そして同年冬、四国へ赴きました。
その道中、土御門はこんな歌を詠んだと『増鏡』は記しています。
「うき世には かかれとてこそ 生まれけめ ことわり知らぬ わが涙かな」
《こうなる運命だということで、私はこの世に生まれたのだろう。けれどもその運命を受け入れられずに涙が流れることだなあ》
みずから望んだこととはいえ、涙がこぼれる。
そんな寂しい胸の内をうかがうことができます。
土御門は最初、土佐国(高知県)に置かれましたが、まもなく阿波国(徳島県)に移されます。理由は諸説ありますが、『増鏡』には幕府が「せめてもう少し京都に近い場所に」と指示したからだと書かれています。
土御門の阿波での足跡についてはっきりしたことはわかっていません。
ただ、寛喜3年(1231年)、京都に戻ることのないまま、亡くなります。享年37でした。
土御門上皇が晩年を過ごした阿波。各地に上皇の伝説が残っています。
上皇が亡くなるまでを過ごしたとされる場所の1つが、阿波市にある「土御門上皇行宮跡」です。
上皇の住まいがあったとされ、一帯には「御所屋敷」や「御炊所」、「山皇子」といった地名が残されています。
行宮跡から北に車で20分ほど走ると、香川と徳島を隔てる讃岐山脈の深い谷川の岸に、1本の石碑がひっそりと建っています。
石碑には「土御門上皇御終焉伝説地」と刻まれていて、この場所で土御門が亡くなったという伝説が残されています。
そばには、土御門上皇が、みずから腹を切って亡くなったと伝わる岩があります。
地元では「お腹石」と呼ばれ、上皇の血で真っ赤に染まったと伝えられています。
地元の旧家に伝わる「帝王略記」という書物にはこう記されています。
「寛喜三辛卯年十一月 北條ノ臣七條板東討手トシテ御所ニ馳向フ 守護之士防戦之内 帝王細尾ヨリ宮川内谷深ク奉忍 御運拙ク思召哉 勿体ナクモ 十二日辰時 御覚悟被為遊而 御歳三十七ニテ崩御在ス」
《寛喜3年(1231年)11月、北条氏の家臣、七條板東が上皇を討つために御所に向かった。上皇を守る武士たちが防戦している間に、上皇は細尾から宮川内谷の奥深くに隠れなさった。上皇はご自身の命運が尽きたと思われたのだろうか、恐れ多くも12日午前8時ごろ、覚悟をなさり37歳で崩御された》
上皇を乱の罪に問わなかった北条氏が彼の命を狙ったのでしょうか。
はっきりしたことは分かりません。
ただ、800年の年月の間に、こうした伝説ができ、人々が土御門をしのんできたことは確かでしょう。
「御終焉伝説地」の碑のそばには、上皇をまつる小さな社がひっそりとたたずんでいます。
800年にわたって語り継がれてきた上皇の伝説。
それを地域の活性化につなげようという動きが始まっています。
去年11月、上皇の行宮跡にやってきたのは、徳島県内の観光ボランティアガイドたち。
今後、徳島を訪れる観光客などに上皇の伝説地へ足を運んでもらおうと、初めて観光ガイド向けの研修会が開かれました。
研修会では、上皇が徳島にやってきた経緯や、上皇が都をしのんで詠んだとされる和歌を学んだほか、当時をイメージして復元された井戸なども見学しました。
上皇のことは県内でもあまり知られていないと思う。上皇がいた場所があるということを身近に感じてもらえるようなガイドをしていきたい。
徳島の枠を越えたプロジェクトも動き始めています。
その名も「島の文化会議」。
承久の乱のあと、3人の上皇が暮らした隠岐島・佐渡島・徳島の3つの“島”をオンラインで結んで開かれました。
会議では、隠岐島・佐渡島・徳島から上皇の伝説の紹介がありました。
(隠岐島・大江和彦 海士町長)
「台風や大雨が来るたびに隠岐神社へ行って、『後鳥羽院さん、なんとか助けてください』とお祈りするなど、後鳥羽上皇は身近な存在だ」
(佐渡島・高野宏一郎 元佐渡市長)
「順徳上皇は佐渡中を行動されて、いろんな逸話がある。それぞれの地域の人との密着した生活を二十数年にわたって過ごされていた」
(徳島・松嶌慶祥 土御門上皇顕造学会京都支部長)
「土御門上皇700年祭のときには、当時の知事が食べて『うまい!』と絶賛したうどんが、今でも地元の名物として残っている」
3人の上皇にまつわる伝説が今なお色濃く残る3つの“島”。
今後、観光や特産品などのコラボレーションを計画し、地域を盛り上げていく予定です。
先月、京都からある人が徳島を訪れました。
池田游達さん。
かつて貴族や武士がたしなんだ「蹴鞠」の専門家です。
蹴鞠は後鳥羽上皇が好み、「長者」と称されたほどの名人でした。
その縁で、池田さんは後鳥羽にまつわる場所で蹴鞠を奉納してきました。
そして、承久の乱から800年の節目を迎えたことから、後鳥羽を含む3上皇が赴いた地を“巡礼”してきました。
(池田游達さん)
3上皇さまの地を巡らせていただきたいというのは私の長年の願いでした。それがかない、感慨無量です。
池田さんが大切にしている蹴鞠の基本精神は“和を以て貴しと為す”。
それが土御門上皇の生き方と重なると、池田さんは言います。
承久の乱を起こすことに反対の意見を持っていた土御門上皇は、おそらく平和な世の中を望んでいたと思います。
平和を愛した土御門上皇を皆さんにもっと知ってもらい、徳島でどのような思いで過ごされたかを感じてもらえばよいのではないかと思います。
承久の乱から800年――――。
権謀術数と武力闘争の果てに、歴史の主役が貴族から武士へ交代し、日本史の転換点となったこの乱。
そのかげに、平和を望みながら徳島の地に没した1人の上皇がいたことが忘れ去られることなく、末永く語り継がれていってほしいと思います。
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