ある日、記者のもとに届いた“少年時代の思い出の風景を調べてほしい”という依頼。
かつて名古屋に大きな煙突があったといいます。
手がかりは、煙突に書かれた「ミソタ」の文字。
街の記憶を探っていくと、人々に愛された煙突と、ある夫婦の物語にたどりつきました。
(NHK名古屋 記者 河合哲朗)
昭和の写真集に かつて見た風景が

きっかけは、少年時代を過ごした中村区・鳥居西通の1枚の写真を見つけたことだったといいます。


ここに小さく煙突が写っているんですけど、よく見るとカタカナで「ミソタ」と書いてあるんです。

「ミソタ」っていうのは?

記者

少年時代にこのあたりに「ミソタマリ」って、黒地に白で書かれた煙突があって、よく見上げていたことをこの写真を見て思い出したんです。懐かしくなって。

周りに高い建物もなくて目立ったんです。「ミソタマリ」っていうことばの意味は分かってましたけど、ふだん使わないことばですから、何か特別な呪文のように思えて。いつからあって、いつごろなくなっちゃったのか。インターネットでも手がかりがなくて、調べてもらえないかなと…。
わかりました、調べてみます!

街の記憶に手がかりを求めて…

鳥居西通で40年以上続くこの店で、モーニングの時間帯に張り込みます。

75歳 男性「工場みたいなのあったね。なんでそんなこと調べてるの?」
71歳 女性「参道の魚屋さんのじいちゃんなら知ってるんじゃない?」



みそ屋は戦前からあったという情報も。
「7歳か8歳くらいだから戦前だよね。お袋と買いに行ったことあるもん。昔だで一貫目(3.75kg)とか二貫目とかで買ってね」


煙突のみそ屋さん、ご記憶にありますか?


うん、コンクリートで作った煙突のね。今はガソリンスタンドとマンションとかがあるところ。たまに配達行ってかわいがってもらっとった。もうやめられて40年くらいにならへんか?
どんな方が営んでいましたか?


旦那は知らんなぁ。いつも奥さんが店先に見えたで。ただ自分も当時まだ若いもんでな、そんなお調子いいことも言わなんだ『毎度ありがとう』ってあいさつするくらいで。力になれんで、ごめんな。
不動産店に貴重な情報が
その途中、古そうな商店でひたすら話を聞いていると。
そのみそ屋こそが“家庭の味”だったという人に出会えました。
同じ通りの不動産店の店主(73)です。


親父が気に入ってて、刺身はあそこのたまりじょうゆ。みそは赤みそ系でコクがあっておいしかったですよ。秋口になると大豆を蒸す匂いが西風でここまで香ってね。ああ、仕込みが始まるなって。自分が結婚してからも、娘が三輪車乗ってるときくらいまでは、あそこでみそ買ってましたよ。
じゃあ親子3世代で。店先の雰囲気は覚えていますか?


店の戸を開けると…みそのたるが2つか3つ。量り売りでね。たまりじょうゆは一升瓶持っていくと奥で詰めてくれる。奥さんは、和服だったな。 上品な方でしたよ。

書棚にしまわれていた古い電話帳を調べてもらうと…。

記者「かなますや?金属の『金』に?」
店主「木へんの『桝』ですね」
みそ屋の屋号は「金桝屋」だったことがわかりました。

みそ屋の歴史をさかのぼると…
愛知県のみそたまり業の組合に協力を求めました。

「これですね、鳥居西の金桝屋、『村井喜一』さん。昭和42年(1967年)の名簿によると組合の理事も務められていたようです。愛知の組合員さんたちをリードしていく立場だったんでしょうね」

明治期の名古屋商業会議所の刊行物に『金桝屋』『村井治兵衛』の名前がたしかにありました。
煙突のみそ屋は、少なくとも明治時代から続いていたことがわかりました。

みそ屋の“最後”を知る人物が
かつてみそ屋があったという場所には、ガソリンスタンドとマンション、戸建て住宅が建ち並んでいました。

ついに「金桝屋」の“最後”を知る人に出会えました。

まだここにみそ屋があった40年ほど前、買い物のたびに、みそ屋の奥さんとのおしゃべりを楽しんでいたそう。
「20歳か30歳は年上に見えた」という奥さんは、若い金山さんのことをいつも気にかけてくれたといいます。
「ぼくも当時はあまり裕福じゃなくてね、苦労話を話したり、聞かせてもらったりね。『お兄さんしっかりやらなあかんよ』とか『まじめにやりなさい』とか、けっこう教えられたこともたくさんあるけどね。誠実な人だね、裏表のない。正直でまっすぐな人」


そのうちに引退かなんかね、神戸の方へ引っ越しするとかなんか、そう言ってたね。
神戸の方?


うん、「さみしいね」ってそう言っとったんだけど。ここもう処分する言うて。
煙突を追いかけて…
ここまで来ると、「調べつくしたい」という気持ちが芽生えてきました。
鳥居西通の人たちやみそたまり業界などおよそ40人から話を聞き、手がかりを集めました。

みそ屋の夫婦の長男、村井重夫さん(80)に会うことができました。

見ていただきたい写真がありまして。この写真なんですけど…



ああこれは。笑 うちの「金桝屋」の煙突ですね。両親がやっていたみそたまり店の煙突。間違いないです。当時のことを知っている方がまだおられるんですね。
そう言って重夫さんが抱えてきたのは、煙突のみそ屋に関する資料の数々。



こんなような畑の中に新しい工場を作ってたんですね。
その時に、こういうふうに煙突を立てまして。

初めて姿がわかりました!


「高さは80尺(=24メートル)。この上のところに『ミソタマリ』と書いてあったと思います」

夫婦が歩んだ「煙突のみそ屋」

当初は岐阜県で「染め物屋」として商売を始め、明治元年にみそたまり業に転換。
濃尾地震で被災したことで名古屋に移り、最盛期は名古屋で4つの店を構えるほどに栄えたといいます。
そのうちの1つが、鳥居西通の煙突のみそ屋でした。


で、この鳥居西だけが残った。この煙突のみそ屋だけが残ったんです」



1983年に店を閉じ、重夫さんが暮らす芦屋市で余生を過ごしたといいます。






「父と母が一生懸命、みその味、しょうゆの味を守っていたんで、その味と一緒にそういう風景を覚えて頂いてありがたいなと思いますね。なんとかね、この場所に思い出を少し残せたのかなと思います」

いま 煙突の場所には

「敷地の中で好きな場所を選んでいいから」
そう言われて選んだのは、あの煙突があった場所でした。
金山さんは、ちょうどその場所に桜の木を植えていました。
