STORY

三島由紀夫没後50年 美輪明宏が語る“素顔”

2020.11.16 :

昭和を代表する文豪・三島由紀夫。『潮騒』や『金閣寺』などの名作を残し、ノーベル賞の候補にまでなりながらも、1970年11月25日、自衛隊駐屯地での割腹自殺という衝撃的な最期を迎え、45歳でその生涯を閉じた。

 

没後50年を迎える今、三島由紀夫に再び注目が集まっている。純文学のイメージを覆すエンタメ小説『命売ります』の異例のヒット、気鋭の若手演出家たちが三島作品の舞台化に挑んだ演劇の連続上演など、現代の私たちにいまだ新鮮な魅力を与え続けている。

 

その三島由紀夫の実像に迫る「NHKスペシャル」が11月21日に放送される。番組では、これまで関心が集められてきた三島の「死」ではなく、その生涯をどのように生きたか、三島の「生」にスポットを当てようと、生前の三島と長年にわたって親交を結んでいた美輪明宏さんにインタビューを行った。会えば冗談を言い合い、いつもユーモアにあふれ、「少年のように純粋な人だった」と語る美輪さん。そのことばから、文豪の“素顔”に迫る。

(科学文化部・河合哲朗)

『かわいくないやつ』と言われた三島との出会い

美輪さんが三島由紀夫と出会ったのは、16歳の時。歌手を目指そうと地元・長崎から上京し、音楽学校に通っていた時のことだったという。
「長崎を出て、国立(くにたち)の音楽学校へ転入して、銀座4丁目にありました『ブランスウィック』という喫茶店でアルバイトを始めたんです。お客さまには政官財界の人々から芸術・芸能関係の方もいて、そのうちに、当時売り出し中の三島由紀夫さんが雑誌社の方たちと見えたんです。そこは1階が喫茶店、2階がクラブになっていて、私は下の喫茶店にいたんですけど、三島さんが『あの子を呼んでこい』と。私はその頃は生意気でしたからね、ふてくされて行ったんですよ」
三島は美輪さんの10歳年上で、当時26歳。2年前に発表した『仮面の告白』が文壇に衝撃を与え、新進気鋭の作家として注目を集めていた時期だった。美輪さんは、店で周囲から「先生、先生」と声をかけられる三島がどうも気に入らず、当初そっけない態度を取っていたという。
「三島さんがね、『かわいくないやつだ』と吐き捨てるようにおっしゃったので、『かわいくなくていいんです。きれいですから』って私はやり返したんですよ。あきれていらっしゃってましたけど、それが三島さんにはおもしろいと思われたようなの。飛ぶ鳥を落とす勢いの流行作家となるとみんなぺこぺこするんですよ。でも私だけ傲然としていたもんですから、そういう人間を見たことがなくてびっくりなさったんでしょうね。それからときどき、お店にいらっしゃるようになりました」
1950年代・2人が出会った銀座4丁目にある時計台

美輪さんが見た文豪の“素顔”

この店で美輪さんの歌うシャンソン「バラ色の人生」を耳にし、その才能にほれ込んだ三島。2人はお互いの才能を尊敬し合う間柄でありながら、会えばいつも冗談ばかりを言い合っていたという。
「私のことを三島さんはね、『君はね、95%は素晴らしい。だけど、あと5%の最悪な欠点があって、95%の長所をひと消しにするんだ』と言うんです。私は『え?そんな力のあるすばらしい欠点って何です?』って聞いたら、『それは俺にほれないことだ』っておっしゃったんですよ。それで私が、尊敬するような人は恋愛の対象にならないんですって言うと三島さんは、じゃあどういうのが恋愛の対象なんだって言うんで、『かわいそうな人が好きなんです。だから三島さんは恋愛の対象になりません。お気の毒さま』と、そう言ったんですよ。そしたら三島さんは、『君は誤解している。俺はかわいそうだぞ』っていうので、『なぜ?』と聞いたら、『ある雨の日、君と別れて、傘を差してしょんぼりと帰っていく俺の後ろ姿を想像してみろ。ほれたくなるほどかわいそうだぞ』って言うの。大笑いしちゃいましたよ」
1957年、美輪さんはシャンソン曲「メケ・メケ」のヒットで一世をふうびした
美輪さんのひと言が、三島に意外な影響を与えることもあったという。
「一度、私の着ているものに対してね、『突飛すぎる。なんだ、その趣味の悪い服は。九州の田舎者は困ったもんだ』って言われたんです。私も、『長崎の歴史をご存じ?東京にぺんぺん草が生えているときに長崎は国際都市だったんですよ。なんですか、関東の田舎者が』とやりあってね。それでも私の着ているものにいろいろおっしゃるんで、『あなただってお召しになりたいものがおありでしょ?いつも同じ格好をしていて、見ているだけでも退屈なんですから、お召しになるほうも退屈でしょうに。何がお召しになりたいの?』って聞いたら『革ジャンが着たい。ジーンズをはきたい』って。じゃあご案内しますって上野の御徒町へ行って、革ジャンとジーンズを買ったんですよ。とっても喜んでいらしたんだけど、お母さまには叱られましたよ、『あんな下品な格好をするようになったのはあなたのせいでしょ?恨みますよ』って言われちゃって。でも三島さんはそれが気に入ったみたいで、しばらくはその格好を続けていらっしゃいました」
美輪さんがステージに立ったシャンソン喫茶「銀巴里」

三島由紀夫のシャンソン・デビュー!?

長年の親交の中で、三島のさまざまな表情を見てきた美輪さん。意外にもおちゃめな一面がうかがえる秘話も披露してくれた。1966年、東京で開かれた美輪さんのチャリティー・リサイタルで、三島を“歌手”として友情出演させたというエピソードだ。
「三島さんが常々ね、『スターの気持ちを味わってみたいな』と言うんです。『君はいいな、どこへ行ってもスターで、周りがいろいろやって、自分はふんぞり返って。うらやましいな、味わいたい』って。それで私が日経ホールでコンサートをやることになっていたので、電話したんですよ。『三島さん、ひとつ歌でお出にならない?』って」
1966年7月 三島が友情出演したリサイタルのパンフレット
美輪さんのこの誘いに飛びついた三島は、コンサートで自作のシャンソンを披露することを提案。三島は「造花に殺された船乗りの歌」という題で作詞し、美輪さんがそれに曲をつけることに。三島は当時41歳。すでに時代を代表する大作家であったが、生歌の大舞台は初挑戦だった。
「ずいぶん長い詞のシャンソンを書いてくださってね。私が曲を作ってから、三島さんのおうちにピアニストを連れて行ったんですけど、ひどい音痴だったんでびっくりしたんです。官公吏の堅いおうちだから、音楽なんてうちの中にも一切なかったんでしょうね。歌う習慣がなかったんですからしょうがない、じゃあ毎日来て練習しましょうって言って、それがなんと1週間で音痴が直っちゃったんです。すごい集中力で、音程を外さなくなったんですよ」
迎えた本番。美輪さんが会場に到着すると、すでに三島は楽屋入りしていたという。
「楽屋に行きましたら、奥様がハンドバッグを提げて立っていらして。三島さんはパイプ椅子をいくつか並べちゃって。そこへ寝そべって、足を椅子の背に乗せてね、『ああ、スターというのはなんていい気分なんだろう。傲慢でいいよ。君はいいね、傲慢な気持ちをずっと保っていられるんだから』って。横で奥様も『さっきからずっとこれなのよ』ってあきれていらして、『この人ったらね、子どもみたいに枕元に帽子と靴と着るものをきれいに畳んでね、明日着るんだって言って並べて寝ちゃうのよ』っておっしゃっていて。笑っちゃいましたよ」
本番直前には緊張で震える足を「武者震いだ」とごまかしていたという三島は、歌い始めると次第に調子をつかみ、10分ほどもあるこの曲を熱唱で乗り切った。終演後の三島の満足した様子が、なんともほほえましかったという。
「終わったときに、ジャーナリストがからかい半分に写真を撮ったりポーズを取らせたりするのに、本人はもう子どものようでね、『はい、こうですか』とか言って、ちゃんと言われたとおりにポーズをなさっててね。本当に子どもみたいな方だなと思いましたよ」
パンフレットに三島は「私は私の味で歌おうと」と意気込みを記している

300本のバラのお別れ

三島が脚本を手がけた舞台『黒蜥蜴』が美輪さんの長年の代表作となるなど、公私ともに深い親交を結んだ2人。その交流は、三島が45歳で亡くなるその時まで続いた。

最後に三島と会ったのは1970年11月。三島が市ヶ谷駐屯地で自決する直前だった。東京・有楽町にあった「日劇」でのショーに出演していた美輪さんの楽屋に、突然三島が訪ねてきたという。
「休憩中の楽屋でメーキャップを直そうとしたら、鏡に映ったのれんの下から、きれいなズボンとぴかぴかに磨いたエナメルの靴が見えて。私が『どなた?』って言いましたら、『三島です』と言って入っていらしたんですよ。そしてびっくりしました。腕に抱えられるだけのバラの花束を持って入っていらして、300本はあろうかと思いましたよ。そのお花をバケツの中に入れてよまやま話をしていたら、ショーが始まるからって私が呼ばれたんで、三島さんは『じゃあね』って言ったあと振り返って、『もう君の楽屋には来ないからね』っておっしゃったんです。私がどうして?って言ったらね。『また今日もきれいだったよ、なんてうそをつき続けるのがつらいからね』って、例によって日常の憎たれ口になって」
三島はその後、前方の観客席に座り、美輪さんの歌声にただじっくりと聞き入っていたという。
「三島さんは私の『愛の讃歌』が大好きでいらしたんですよ。それで私が『愛の讃歌』を歌ったときに、なぜだかもう涙が流れてしょうがなかったんですね。三島さんは近眼でいらしたんで、眼鏡をおかけになって、こちらをじっと見ていらして。そのとき、これまでの18年間のつきあいが本当に走馬灯のようによみがえったんです。あれは不思議でした」
そして11月25日。美輪さんは、知り合いからの電話を受けて急いで事務所のテレビをつけ、自衛隊駐屯地のバルコニーに立つ三島の姿を見る。
三島は隊員に憲法改正のクーデターを呼びかけたのち、割腹自殺した
「ショックというより、何か別のものでしたね。あとで考えるとあの300本のバラは、これからの分もすべてを渡すよという暗示だったんですね。だから分かってくれよということでもあったんだと思います。もう君の楽屋には来ないからね。来られないからねという意味だったんでしょうね」
11月21日放送のNHKスペシャルでは、美輪さんのインタビューのほか、幼少期の同級生や担当編集者など…三島を間近に見てきた人たちの証言から、その実像に迫る。
【放送予定】(NHK総合)
2020年11月21日(土)21:00 
(再放送)11月26日(木)00:50
ご意見・情報をお寄せください

科学文化部記者

河合哲朗

平成22年入局。前橋局・千葉局を経て、平成27年から科学文化部で文化取材を担当。文芸・文学史をはじめ、音楽や映画などのポップカルチャー、囲碁・将棋まで幅広く取材。

河合哲朗記者の記事一覧へ

記事の内容は作成当時のものです

STORY一覧に戻る