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文化
2019.09.12
「日本列島で文字が使われたのはいつからか?」。諸説あるが「5世紀ごろ」には確実に使われていただろうと考えられている。しかし、文字が使われた時期が、大きくさかのぼるかもしれない。鍵を握っているのは、5世紀よりも前の弥生時代や古墳時代の遺跡から出土した「石の破片」。調査の結果、この石の破片が、ある「文房具」と判断される事例が九州北部を中心に相次いでいるという。
福岡県朝倉市にある弥生時代の遺跡「下原遺跡」から出土した石の破片。40年ほど前の調査では、刃物を研ぐための「砥石(といし)」と報告されていた。
しかし、この石を「砥石」ではないと見る研究者がいる。弥生時代の研究を長年続けてきた國學院大学の柳田康雄客員教授もその1人だ。柳田さんが考えているのは「すずり」。そう、私たちが書道で使う、あの「すずり」である。
柳田さんは、なぜ「すずり」と考えているのか。理由は大きく3つある。
1つめは、その「形」。研究者たちが参考にしたのは、中国の漢の時代に使われていた古代の「すずり」。現代のすずりと違い、墨を入れるくぼみがなく板状になっている。下原遺跡で見つかった石の破片も平らで細長く、漢の時代のすずりと形がよく似ている。
2つめの理由は「墨」。石を詳しく観察すると、側面に黒い付着物が付いていた。柳田さんは、これは「すずり」を使った時に、表面から垂れた墨と見ている。
そして3つめの理由が「表面のくぼみ」。刃物を研いだ場合、石の表面の全体が緩やかなカーブを描いてすり減っていく。しかし石の表面は、中央あたりだけにくぼみがあることが分かった。
当時、粒状だった墨を、すずりの中央ですりつぶすうちに、真ん中だけが削れて、くぼんだと、柳田さんは考えている。
「形」「墨と見られる付着物」「中央のくぼみ」。これら3つの理由から、柳田さんは「砥石」ではなく「すずり」と判断したのだ。
柳田さんたちはこれまで「砥石」と見られていたほかの石も再調査したその結果、ことし8月末現在、「すずり」と判断したのは九州北部を中心に、弥生時代から古墳時代にかけての、およそ130点に上ることが分かった。
そもそも日本列島で確実に文字が使われ始めたのはいつごろからなのか。埼玉県の稲荷山古墳から出土した「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」には銘文が刻み込まれている。
稲荷山古墳は5世紀ごろの古墳。このため、少なくとも5世紀ごろには文字が使われていたと考えられてきた。それ以前の時代にも、文字のようなものが見て取れる遺物が見つかっている。
三重県の片部遺跡から出土した4世紀ごろの土器に残る「田」と読めるもの。長野県の根塚遺跡から出土した3世紀ごろの土器には、「大」と読めるものが刻まれている。
ただ、これらは本当に文字なのか。実はよく分かっていない。ところが柳田さんによると、下原遺跡のすずりが使われたのは、紀元前100年ごろ。同じ時期のものは他にも4点あり、柳田さんは、九州北部では紀元前にはすでに文字が使われていた可能性があると指摘している。
「紀元前に文字はないだろうと思っていたが、紀元前の弥生時代の遺跡からすずりらしいものが出てきた。弥生時代は私たちが想像するような原始時代ではなくて、文字を持った高度な文化・文明があった可能性がある」
紀元前にはすでに「すずり」が普及し、文字が書かれていた…。仮にそうだとすれば、文字は何のために使われていたのか。
調査を進める1人、福岡市埋蔵文化財課の久住猛雄さんは「交易」だと考えている。久住さんが注目しているのは、すずりが出土した場所。これまでの調査で、すずりと判断されたおよそ130点は、西日本の各地に広がっており、多くは海や川に面している。
久住さんはこうした場所には港の機能があり、交易のために文字が使われていたのではないかと考えている。
「長距離を結ぶ、交易のネットワークに関わる人たちが交易の記録とか交易品の目録、交換レートの記録など、そういうことに文字を使ったと考えている」
各地で出土した小さな石の破片。日本列島の文字の歴史を大きく塗り替えることになるかもしれない。
「すずり」が出土した=「文字が使われた」と判断するのは、まだ早く、調査を行う研究者たちも同じ考えだ。文字ではなく、入れ墨や絵画に使われた可能性もあるためだ。
また決定的な証拠、すなわち「文字そのもの」や「筆」が見つかっていないのも、そう考える理由の1つだ。
ただ「紀元前にはすでに文字があったかもしれないという認識で、丁寧な調査を進めれば、文字の使用を裏付ける証拠が出てくる可能性もある」と研究者たちは考えている。今後の調査に期待したい。