科学と文化のいまがわかる
文化
2023.04.25
ある日、記者のもとに届いた“少年時代の思い出の風景を調べてほしい”という依頼。
かつて名古屋に大きな煙突があったといいます。
手がかりは、煙突に書かれた「ミソタ」の文字。
街の記憶を探っていくと、人々に愛された煙突と、ある夫婦の物語にたどりつきました。
(NHK名古屋 記者 河合哲朗)
まずは、依頼を寄せてくれた男性を訪ねました。
天神林さんが取り出したのは、昭和の名古屋の写真集。
きっかけは、少年時代を過ごした中村区・鳥居西通の1枚の写真を見つけたことだったといいます。
ここに小さく煙突が写っているんですけど、よく見るとカタカナで「ミソタ」と書いてあるんです。
「ミソタ」っていうのは?
少年時代にこのあたりに「ミソタマリ」って、黒地に白で書かれた煙突があって、よく見上げていたことをこの写真を見て思い出したんです。懐かしくなって。
かつてここに、「みそ」と「たまりじょうゆ」の醸造所があったのだといいます。
周りに高い建物もなくて目立ったんです。「ミソタマリ」っていうことばの意味は分かってましたけど、ふだん使わないことばですから、何か特別な呪文のように思えて。いつからあって、いつごろなくなっちゃったのか。インターネットでも手がかりがなくて、調べてもらえないかなと…。
わかりました、調べてみます!
煙突の記憶に迫ろうと、まず訪ねたのは町の社交場・喫茶店。
鳥居西通で40年以上続くこの店で、モーニングの時間帯に張り込みます。
75歳 女性「記憶ありますね。煙突はどうだったかな…」
75歳 男性「工場みたいなのあったね。なんでそんなこと調べてるの?」
71歳 女性「参道の魚屋さんのじいちゃんなら知ってるんじゃない?」
お店の人にも聞くと、小学校の通学でよく見かけていたそう。
「こんな感じですかね…」
「けっこう長―い、焼き物工場にあるような煙突。登校の時によく匂いがしてたんです、みその」
みそ屋は戦前からあったという情報も。
88歳の常連客
「7歳か8歳くらいだから戦前だよね。お袋と買いに行ったことあるもん。昔だで一貫目(3.75kg)とか二貫目とかで買ってね」
喫茶店での助言をもとに、“参道の魚屋のじいちゃん”にも直撃しました。
煙突のみそ屋さん、ご記憶にありますか?
うん、コンクリートで作った煙突のね。今はガソリンスタンドとマンションとかがあるところ。たまに配達行ってかわいがってもらっとった。もうやめられて40年くらいにならへんか?
どんな方が営んでいましたか?
旦那は知らんなぁ。いつも奥さんが店先に見えたで。ただ自分も当時まだ若いもんでな、そんなお調子いいことも言わなんだ『毎度ありがとう』ってあいさつするくらいで。力になれんで、ごめんな。
ひとまず目印だと聞いたガソリンスタンドに向かうことに。
その途中、古そうな商店でひたすら話を聞いていると。
そのみそ屋こそが“家庭の味”だったという人に出会えました。
同じ通りの不動産店の店主(73)です。
親父が気に入ってて、刺身はあそこのたまりじょうゆ。みそは赤みそ系でコクがあっておいしかったですよ。秋口になると大豆を蒸す匂いが西風でここまで香ってね。ああ、仕込みが始まるなって。自分が結婚してからも、娘が三輪車乗ってるときくらいまでは、あそこでみそ買ってましたよ。
じゃあ親子3世代で。店先の雰囲気は覚えていますか?
店の戸を開けると…みそのたるが2つか3つ。量り売りでね。たまりじょうゆは一升瓶持っていくと奥で詰めてくれる。奥さんは、和服だったな。 上品な方でしたよ。
さらに、新たな手がかりも見つかりました。
書棚にしまわれていた古い電話帳を調べてもらうと…。
店主「ありましたよ。これですね『かなますや』さん」
記者「かなますや?金属の『金』に?」
店主「木へんの『桝』ですね」
みそ屋の屋号は「金桝屋」だったことがわかりました。
「金桝屋」は、どのような歴史をたどったのか。
愛知県のみそたまり業の組合に協力を求めました。
かつての組合名簿を詳しく調べてもらうと…。
愛知県味噌溜醤油工業協同組合 富田茂夫 専務理事
「これですね、鳥居西の金桝屋、『村井喜一』さん。昭和42年(1967年)の名簿によると組合の理事も務められていたようです。愛知の組合員さんたちをリードしていく立場だったんでしょうね」
さらに戦前の名簿にまでさかのぼると、先代の名前だろうか、「村井治兵衛」という名前も見つかりました。
これらの名前を、図書館の郷土資料の中で探ってみると。
明治期の名古屋商業会議所の刊行物に『金桝屋』『村井治兵衛』の名前がたしかにありました。
煙突のみそ屋は、少なくとも明治時代から続いていたことがわかりました。
では、みそ屋はいつ姿を消したのか。
かつてみそ屋があったという場所には、ガソリンスタンドとマンション、戸建て住宅が建ち並んでいました。
住民や道行く人に声をかけ続けると…。
ついに「金桝屋」の“最後”を知る人に出会えました。
かつてのみそ屋の敷地に住んでいる、金山春治さん(82)。
まだここにみそ屋があった40年ほど前、買い物のたびに、みそ屋の奥さんとのおしゃべりを楽しんでいたそう。
「20歳か30歳は年上に見えた」という奥さんは、若い金山さんのことをいつも気にかけてくれたといいます。
金山さん
「ぼくも当時はあまり裕福じゃなくてね、苦労話を話したり、聞かせてもらったりね。『お兄さんしっかりやらなあかんよ』とか『まじめにやりなさい』とか、けっこう教えられたこともたくさんあるけどね。誠実な人だね、裏表のない。正直でまっすぐな人」
そんな交流が続いていましたが、突然、店を閉じることを聞かされたといいます。
そのうちに引退かなんかね、神戸の方へ引っ越しするとかなんか、そう言ってたね。
神戸の方?
うん、「さみしいね」ってそう言っとったんだけど。ここもう処分する言うて。
神戸方面へ引っ越し、名古屋を離れたというみそ屋さん。
ここまで来ると、「調べつくしたい」という気持ちが芽生えてきました。
鳥居西通の人たちやみそたまり業界などおよそ40人から話を聞き、手がかりを集めました。
そしてたどりついたのは、兵庫県芦屋市。
みそ屋の夫婦の長男、村井重夫さん(80)に会うことができました。
すぐに、きっかけの写真を見てもらいました。
見ていただきたい写真がありまして。この写真なんですけど…
ああこれは。笑 うちの「金桝屋」の煙突ですね。両親がやっていたみそたまり店の煙突。間違いないです。当時のことを知っている方がまだおられるんですね。
「おやじが『古文書』だとか言って、一箱残していったもんで…」
そう言って重夫さんが抱えてきたのは、煙突のみそ屋に関する資料の数々。
記憶を思い出しながら、その歩みを教えてくれました。
こんなような畑の中に新しい工場を作ってたんですね。
その時に、こういうふうに煙突を立てまして。
初めて姿がわかりました!
「煙突はね、こんな格好をしてたんですよ」
なんと、当時の設計図まで残っていました。
「高さは80尺(=24メートル)。この上のところに『ミソタマリ』と書いてあったと思います」
「金桝屋」の歴史は江戸時代にまでさかのぼるという。
当初は岐阜県で「染め物屋」として商売を始め、明治元年にみそたまり業に転換。
濃尾地震で被災したことで名古屋に移り、最盛期は名古屋で4つの店を構えるほどに栄えたといいます。
そのうちの1つが、鳥居西通の煙突のみそ屋でした。
「玄関のところは大きな戸があってね。奥の方にいくとおけを干していたり、乾燥させてたりして、そこでみそたまりを作っていた。そこにいたのが親父ですね」
「お袋の方はいつも店番をしてまして、いろいろなお客さんと話をしておりました」
戦時中は大きな被害も受けたといいます。
「4つあった店のうち、江中町にあった本店は名古屋城と同じ爆撃機にやられて全焼しました。2つ目の白塀町も全焼、3つ目の尾頭橋も全焼。
で、この鳥居西だけが残った。この煙突のみそ屋だけが残ったんです」
煙突のみそ屋は、夫婦が戦後に再起をかけて営んだみそ屋でした。
当時、営業再開を地元の人たちに知らせたチラシが残っていました。
「この時は家族総出でね、通行する人に配って宣伝したんですよ。懐かしのチラシですね。きっとおやじも、『もう一度、みそたまりでもうけようじゃないか』と、頑張ったんだと思うんですよね」
地元で愛されるみそ屋となりますが、次第に、大手の大量生産に押されるように。
1983年に店を閉じ、重夫さんが暮らす芦屋市で余生を過ごしたといいます。
重夫さんに、町の人たちから集めた煙突の思い出を報告しました。
「ああ!描いておられるんですね。なるほどなるほど」
「母が『和服で立たれていた』か。ははは、そうです、そのとおりですね」
「これは、いやあ、けっこういろいろ調べておられるわ」
重夫さん
「父と母が一生懸命、みその味、しょうゆの味を守っていたんで、その味と一緒にそういう風景を覚えて頂いてありがたいなと思いますね。なんとかね、この場所に思い出を少し残せたのかなと思います」
かつて「金桝屋」があった場所で暮らす金山さん。
みそ屋が店を閉じる際、土地の一部を夫婦から譲り受けていました。
「敷地の中で好きな場所を選んでいいから」
そう言われて選んだのは、あの煙突があった場所でした。
金山さんは、ちょうどその場所に桜の木を植えていました。
「40年もするとこんなに太くなるんですよね。いい人と巡り会えてよかったなって思うね」