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科学
2023.12.28
水素を燃料とした飛行機に大型トラック。脱炭素化の世界的な潮流の中で、二酸化炭素を出さずに使える水素をめぐって、市場の主導権を握ろうと、各国が競争を繰り広げている。エネルギー資源に乏しい日本は、世界でもいち早く水素に注目。水素を燃料として使う燃料電池車の実用化など、技術開発を推進し、その関連技術の特許数は世界でトップクラスだ。ところが、なかなか普及していないのが実情だ。その一方、アメリカなどは普及への取り組みを急拡大させ追い上げている。こうしたなか、北海道で水素ビジネスを展開する会社はアメリカに進出し、商機を見出そうとしている。水素ウォーズ、その最前線を追った。
(札幌放送局 記者・黒瀬総一郎 ディレクター・班学人 カメラマン・住田達)
札幌市の中心部からおよそ15キロの石狩湾。
高さ196メートルの風車が14基。総事業費およそ800億円の洋上風力発電所が2024年1月から本格運転を始める。完成まで16年がかかったという。
ここまで持ってくるのは大変だったし、こうして完成した姿を見られるのも感無量、感慨深いものがある(幸村展人副社長)
北海道は洋上風力など再生可能エネルギーのポテンシャルが全国で最も高く、日本の「エネルギー供給基地」として期待されている。
石狩湾でもさらに100基程度の風車を建設する計画が出されている。
この先、幸村さんたちが製造を目指すのが「水素」だ。
再生可能エネルギーは変動が大きく、発電した電気が余る時があり、こうした電気の使い道として水素の製造を考えているのだ。
洋上風力や太陽光などで発電された電気で作られた水素をタンクに貯蔵し、札幌圏内の工場などで使うほか、電気やバス、トラックなどの燃料、そしてビルや家庭の暖房や給湯に活用するという構想だ。
世界で社会の脱炭素化とエネルギー安全保障が喫緊の課題となる中、道内の企業や自治体などと連携し水素の供給網を築こうとしているのだ。
純国産エネルギーで脱炭素にも寄与するような時代が早く来るといい。他のエネルギーの価格が高騰してくる時代にエネルギーがないこの国は備えるべきだ(幸村展人副社長)
「水素」は、水を電気分解して取り出すことが出来る。
風力や太陽光など再生可能エネルギー由来の電気を使えば、製造時に二酸化炭素が発生せず、こうした水素は「グリーン水素」と呼ばれている。
現在、日本をはじめ、世界各国で使われている水素のほとんどは、天然ガスや石炭といった化石燃料を燃やして水素を取り出す方法で作られている。水素は使うときに二酸化炭素が発生しないと言われるが、製造段階では二酸化炭素が発生しているのだ。
脱炭素化に向けて、各国は「グリーン水素」を低コストで生産しようと、研究開発を急いでいる。化石燃料由来の水素についても、二酸化炭素を回収して地中に埋めたり、ほかの用途に使ったりすることで、低炭素の水素として使おうという動きもある。
再エネ由来の電気はわざわざ水素にせず、電気のまま使えば良いのではないか?答えは、イエスだ。今回、取材した日米の研究者は脱炭素化に向けては、まずは電化だと口を揃えた。
しかし、どうしても電化が難しい分野がある。鉄鋼などの重工業やトラックや船、飛行機といった輸送分野だ。こうした分野の二酸化炭素排出量は全体の3割に上るという試算もある。
こうした分野で、水素は、既存の燃料に置き換えて使える可能性があり、温室効果ガス削減目標の達成に向けてぞうきんを絞るような削減努力が求められる中、水素への期待が高まっているのだ。
水素は長期間、大量に貯蔵できるのも特徴だ。電気では蓄電に限界があり、時間と共に減ってしまう課題があるが、水素は石油のように備蓄することもでき、エネルギー安全保障上もメリットがあるという。
私たちは北海道でいち早く水素ビジネスを展開している企業を取材した。石狩のプロジェクトに参加する大手産業ガス会社、エア・ウォーターだ。
水素の将来性に着目し、車に水素を充填する水素ステーションの事業に7年前に参入。道内3か所で自動車用の水素ステーションを運営している。
水素の充填時間は3分ほど。これで車は600キロ走行出来る。水素の価格は、会社の負担と国の補助金でガソリン並みに抑えているという。
それでも、札幌市内にある水素ステーションを利用する車は1日平均2台だけだ。
普及させるために価格を抑えているのが実態で、実際は設備コストだとかランニングコストとかも含めて、それでは収益にはならない(近田佳介さん)
日本は、6年前には世界で初めて水素の国家戦略を打ち出し、2020年までに水素で走る燃料電池自動車を4万台、25年までに20万台の導入目標を掲げた。しかし現実は全国でおよそ7500台、道内では62台にとどまる。
会社は対応に頭を悩ませている。11月、社長も参加した社内の会議では、厳しい意見が出された。
車を使う人にもインセンティブがないと車は絶対増えない。自治体任せにしていても増えないから、頭を切り替えていかないと
どう打開するか。この企業は、水素ビジネスが先行するアメリカに社員を送り、事業を展開することに注力している。
日本で需要が立ち上がるのをじっと待つ方法もあるが、事業として一定程度成立すると判断し、先行してアメリカで事業を展開している。技術や事業のノウハウを蓄積し、日本に持ち帰って新しい事業につなげる良い循環を作れたらと思う(松林良祐社長)
これまで豊富な化石燃料を経済成長の原動力としてきたアメリカ。
しかしバイデン政権となり、脱炭素化を強力に推進するため再生可能エネルギーを拡大。
そうした電気などから作った水素を2030年までに年間1000万トン生産する目標を掲げ、95億ドル、日本円で1.3兆円の予算のほか、巨額の税額控除を打ち出した。
低コスト化で普及を押し進め、この分野の主導権を握る戦略だ。投資を受けて、水素ビジネスが活発化。いま世界から多くの企業が進出し、投資が集まっている。
10月、ワシントンで開かれた水素の国際イベントでは、各国の企業が売り込みをかけていた。
いまはアメリカ市場が一番動いている(ドイツ企業担当者)
アメリカでは多くのプロジェクトにお金がついて実行されるだろう(ノルウェー企業担当者)
イベントではアメリカ・エネルギー省のトップが登壇し、水素市場を一刻も早く制して、その果実を逃さないようにすべきだと、げきを飛ばした。
私たちはとにかく加速しなければならない。成功すればその利益は莫大だ(グランホルム長官)
アメリカ国内では、実際に水素を使う動きが出ている。
水素で動くフォークリフトは、全米各地の大手流通業者の倉庫などで既に7万台が稼働している。
また、ことし3月には、水素で飛ぶ飛行機がテスト飛行に成功した。プロペラ機のエンジンを燃料電池で動くモーターに置き換えた。部品は複数のスタートアップ企業の製品を組み合わせ、創業からわずか3年でテスト飛行にこぎつけた。
水素は再生可能エネルギーから作ることができるので、非常に魅力的な航空燃料だ。長期的にはジェット燃料よりも安くなると確信している(マーク・カズン 最高技術責任者)
アメリカの中で特に水素ビジネスが盛んなのがカリフォルニア州だ。
多くの日本企業が出資する水素ステーション最大手の会社に、北海道で水素ビジネスを展開するエア・ウォーターから社員が派遣されている。田中裕也さん、32歳。
北海道・十勝地方の鹿追町で、牛ふんから発生するガスを使って水素を製造、利用するプロジェクトに携わったのがきっかけで、水素ビジネスに関わるようになった。
この会社が運営する水素ステーションの数はおよそ40で、多くが既存のガソリンスタンドに併設している。私たち取材班がロサンゼルス郊外のステーションを訪れた際には、お昼時、4台の充填機がすべて埋まっていた。1日100台ほどが充填に訪れるという。
普及が進んだ背景には、州独自のしくみがある。
水素の価格は1キログラムあたり36ドルだが、自動車メーカーが年間1万5000ドル、200万円以上燃料費を負担してくれるのだ。
様々な補助があったので、全体として魅力的だった(利用客)
さらに、水素ステーション事業者にとってもメリットがあるという。
田中さんは、社内のモニターを指さした。
このAverage Uptime per Providerというのは各水素ステーション事業者がどれぐらいの開業時間を維持しているかを示している(田中裕也さん)
水素ステーションの事業者は稼働率を上げれば上げるほど、州から「クレジット」、いわばポイントを得られる。そのポイントを二酸化炭素を多く排出する事業者が排出権として買い、そのお金が水素ステーション事業者の収益となるのだ。
水素ステーション事業者が大赤字で事業をしないといけない状況だと、なかなか水素社会は到来しない。ユーザーと事業者の双方に補助金や支援が入る仕組みになっていて、うまく機能している(田中裕也さん)
今年6月、アメリカは水素に関する国家戦略を打ち出した。
水素の普及が最も期待できる分野に焦点を絞る戦略で、最初に重視したのが大型トラックだ。
大量の燃料を使うことから大きな需要が見込めるほか、素早く充填できる水素のメリットも生かすことができる。大型トラックをけん引役に需要を拡大させ、水素を製造・供給するインフラ整備につなげる狙いだ。
田中さんは、トラックの分野でアメリカ市場の一角に食い込もうとしている。
大型トラックがくることで圧倒的に水素の消費量が増えると思っている。2025年ぐらいから水素の需要が商用車に引っ張られて伸びるだろう(田中裕也さん)
10月、田中さんは、アリゾナ州にある水素トラックのメーカーを訪れた。
このメーカーでは、ことし9月、他社に先駆けて水素で動くトラックの量産体制を構築。注文はすでに270台を超えているという。
そこに売り込んでいるのが、田中さんたちのグループ会社が開発した水素を供給する移動式の装置だ。
アメリカにはトラック向けの水素ステーションがなかったことに注目。
どこでも設置できるこの装置でトラックの走行エリアを広げ、水素のさらなる需要の掘り起こしにつながるとにらんでいる。販売価格は1台、数億円するというが、反応は上々だ。
運用責任者が電話で「今すぐにもう10台購入してくれ」と言ってきた(ニコラ社担当者)
アメリカでは水素の需要と供給がともに急速に拡大し、市場が熱を帯び始めていた。
アメリカの企業は、本当に使われるタイミングを早くするというところにすごくこだわっていると思う(田中裕也さん)
アメリカで急成長をとげている水素ビジネスの戦略について、アメリカ政府の水素政策の責任者は、NHKの取材にこう語った。
水素の時代はすでに到来している。口笛で交響曲を奏でることはできず、オーケストラが必要なように、水素の普及には技術だけでなく、政策や金融というすべてのプレーヤーが不可欠だ(スニータ・サティアパルさん)
日本は今年6月に水素戦略を改定し、大型トラックに力を入れることにしている。
エア・ウォーターでは来年度、札幌市内で大型車向けの水素ステーションを新たに開業し、アメリカで培ったノウハウも生かすことにしている。
市はこの周辺を「水素モデル街区」とする計画だ。日本に、そして北海道に水素が普及していくのか、試金石の1つとなる。
モノもスケジュールもコストもすごく注目されていて、非常にプレッシャーを感じる。頑張ってコストダウンしながら普及を支えていくような象徴的な場所になればいいなと思っている(近田佳介さん)
水素を次世代エネルギーの切り札=「戦略物資」と位置づけ、選択と集中によって市場をリードしようとするアメリカ。
政府の投資で市場が活性化され、それが海外からの投資を呼び込み技術開発がさらに加速する“好循環”が生まれていると感じた。
「水素」は、エネルギー資源が乏しい日本にとっては、とりわけ重要だ。
水素研究の第一人者で、国の水素政策の委員会で委員長も務める、九州大学の佐々木一成教授はこう指摘する。
日本ではこれまで風力や太陽光発電、蓄電池といった分野で、技術でリードしたものの、投資競争に負け、二番手、三番手に落ちる経験を繰り返してきた。水素においては、技術でもビジネスでも勝つという意識で、ビジネス化に踏み出す段階で国が重点投資するなど、積極的な後押しが必要だ(佐々木一成教授)
日本政府は改定した「水素基本戦略」を実行に移すため、いま、具体的な支援強化策を検討している。
水素ビジネスで各国がしのぎを削る中、日本が生き残れるかどうかは今が正念場だ。
技術をいかに社会に実装させていけるのかが、スピードとともに問われていると感じた。