科学と文化のいまがわかる
医療
2022.09.21
アフガニスタンの丘に登った中村哲さんは、にっこりと笑った。
眼下に広がるのは一面の緑。
聞こえたのは、鳥や家畜、そして子どもたちの声だった。
現地の人々の診療に当たり、井戸を掘り、そして用水路をひらいた中村さんが、凶弾に倒れて2年余り。
21年にわたる映像の記録が1本の映画になり、今、公開されている。
日本電波ニュース社のカメラマン、谷津賢二さんが中村哲さんと出会ったのは1998年の初め。
同僚から渡された中村さんの著書がきっかけだった。
本を読んでいると、1人の堂々とした医師が山岳地帯に分け入り、患者たちの治療に当たっていく勇壮な姿が目に浮かんだ。
しかし、実際に会った中村さんは小柄で無口、声も小さな男性だった。
撮影はあっけなく許可されたものの、谷津さんは少し失望したという。
この人と、いったい、どんなふうにして関係を深めていけばいいのだろう。
数か月後、谷津さんは、中村さんの同行取材を初めて行うことになった。
パキスタンとアフガニスタンにまたがるヒンズークッシュ山脈で、巡回診療に赴くという。
医療器具や薬、食料、そしてテントを馬に載せて、山道をぽっくりぽっくりと歩いていった。
ゆらゆらと揺れる小柄な中村さんの後ろ姿を、谷津さんは長時間、眺めることになった。
表情を撮影しようとしても、目は半分閉じ、まるで寝ているようだ。
「とても絵にならない…」
美しい山岳地帯の風景だけが際立っていた。
それから、どれくらいたったのだろう。
「ここが最初の診療地ですよ」と告げられた谷津さんは、辺りを見まわした。
そこには村もないし、誰もいない。
標高3500メートル余りの場所に草原が広がっている。
中村さんは「谷津さん、ここで待ちましょう」と言って大の字になり、やがてゴーゴーといびきをかき始めた。
こんなことで、本当にドキュメンタリー番組を作れるのだろうか。
その日の谷津さんには、不安しかなかった。
翌朝、目を覚ますと人のざわめきが聞こえる。
テントから顔を出して目をこらすと、遠い山の端から老若男女がどんどん近づいてくる。
テントを出ると、中村さんも外に出て立っていた。
前日とは表情が一変し、口は一文字に結ばれていた。
目には強い意志の力が宿り、気迫のようなものがみなぎっていた。
中村さんと谷津さんたちの一行は、道中、遊牧民と遭遇していた。
おそらく、彼らが伝令として周囲の村々に医師の来訪を告げたのだろう。
夜を徹して、診療を受けるために集まってきた山の民。
谷津さんは「自分は浅はかだった」と反省することになる。
訪れたのは100人ほど。
中村さんは、優しく、にこやかに接していた。
彼らは、医師はおろか、薬さえ見たことがないかもしれない。
“なるべく怖くないように”という気遣いだったのだろう。
中には下腹部に水がたまっていたり、目の下に大きな腫瘍があったりする人もいた。
中村さんは、登山用のヘッドランプを頭につけて、テントの中で手術を行った。
谷津さんは、「まるで野戦病院のようだ」と思った。
診療が一段落すると、山の民たちは火をおこして1杯のお茶をいれた。
そして、おずおずと中村さんに手渡した。
中村さんは、それを飲んで「あぁ、おいしい」と息をついた。
にっこりと笑って。
(谷津賢二さん)
中村先生には山の民を慈しむ気持ちがあり、山の民には中村医師に対する非常に強い信頼と敬意が感じられました。
両者のとても温かな、結びつきなようなものを感じ取ることができたんです。
カメラマンとしてはあるまじきことなんですが、私はカメラを下に置いて、自分の目で、その光景を見ていたいと思いました。
そのときに、カメラマンとしてのその後の生き方のようなものを教えてもらったんです。
世の中には厳然として カメラには写らないものがある。
何でも撮れると思うのは間違いで、やはり謙虚であるべきだと。
谷津さんは、このあと、21年間にわたって中村さんの取材を続けることになる。
25回にわたってアフガニスタンに入り、奮闘する中村さんや地元の人たちの姿を撮り続けた。
合わせて1000時間に及ぶ映像が、谷津さんのもとには残された。
中村さんは、なぜ民族も宗教も文化も違う人たちを、こんなにも深く愛せたのか。
そして、アフガニスタンの人たちは、なぜこれほどまでに深い敬愛の念を、中村さんに対して持ったのか。
その問いへの答えを追い求めるうちに、長い時間が過ぎていった。
2000年、アフガニスタンを大干ばつが襲った。
中村さんは、それまで育成してきた地元の医師たちに診療を任せ、各地に井戸を掘り始めた。
診療所を訪れる子どもたちが、渇き、餓死していたからだ。
子どもを抱いた母親が長い距離を歩き、ようやく診療所にたどり着いても、食べるものも飲むものもないことがあった。
そうしたなかで、2001年にはアメリカ同時多発テロ事件が起きた。
中村さんは、日本の国会の場にも立った。
そして、自衛隊の派遣よりも、アフガニスタンの飢餓への救援を訴えた。
「平和は戦争以上に積極的な力でなければならぬ」と思ったからだ。
アフガニスタンを流れるクナール川。
ヒンズークッシュ山脈の雪どけ水が流れ出てできた大河だ。
水量の多い“荒い川”だが、枯れることがない。
用水路を掘って、砂漠に水を引こうと中村さんは考えた。
アメリカ軍と多国籍軍が駐留し、治安状態が悪いなかで、中村さんと地元の人たちは、少しずつ用水路を掘り進めていった。
作業の間に、アメリカ軍の戦闘機から機銃掃射を受けたこともあった。
幸いけが人は出なかった。
アメリカの大使館に抗議をすると、掘削のための発破作業を、攻撃だと見誤ったという。
そうした危険な状態でも決して諦めるわけにはいかない。
2009年の暮れには27キロほど離れたガンベリ砂漠に用水路が到達した。
砂漠の砂を取り除くと、その下には肥沃な大地が広がっていることが分かっていた。
(谷津賢二さん)
長い時間をかけて、砂漠を1本の用水路が突き抜けました。
その瞬間の映像もあるんですが、水が通ると、まず小さな魚がやってきました。
その魚を求めて鳥が来ます。
鳥がふんをすると、中には種が含まれているんです。
種が芽吹いて周りに草が生え始めて、虫が戻ってくる。
あっという間に、緑が元に戻っていく。
そんな驚くような変化が起きました。
干ばつの中でも、洪水がアフガニスタンを襲うことがある。
2010年、用水路沿いの人々に恵みをもたらしてきたクナール川が増水した。
用水路に水があふれて堰にたまり、限度を超えると鉄砲水として村を襲うおそれがある。
恵みの水が、一転して人々の命を脅かす存在となってしまう。
以下は、谷津さんが、現地のアフガニスタン人から聞いたという話だ。
現場を見に行った中村さんは、用水路の一部を壊して水を逃がさないと村が危険だと感じた。
みずから、パワーショベルに乗って、作業に当たろうとした。
「下手をすれば、パワーショベルごと流されて死んでしまう」
村人たちは中村さんを止めた。
このとき中村先生さんは、静かに、しかし決然と人々に告げた。
「私は、用水路とアフガニスタンのためなら死んでもいい。あなたたちもアフガニスタン人でしょう。自分たちの村を守るために、今、やるべきことがあるのではないですか」
それを聞いたアフガニスタンの人たちは、雷に打たれたようだったという。
覚悟を決めて用水路にパワーショベルを持ち込んだ。
古いタイヤも持ってきて、チューブを引き出し、応急の浮き輪を作った。
誰かが流されたら、自分たちも飛び込んで助けるつもりだったという。
力を合わせた作業の結果、村は、そして用水路も守られた。
のちに谷津さんは、「こんなことをおっしゃったんですか」と中村さんに聞いた。
「いや、私、そんなこと言いましたかな」と、中村さんはとぼけていたそうだ。
(谷津賢二さん)
ただ、そうした話は燎原の火のように、スタッフの口から口へ、アフガニスタン人の口から口へ、どんどん伝わっていくものです。
「われわれのリーダーの中村哲は正しく勇敢な男だ」と。
アフガニスタンの男にとって、最も尊ぶべき気質は「正しく勇敢である」ということなんです。
またたくまに話は広がり、みんなが中村先生に強い敬愛の念を持つようになっていきました。
そんな中村さんだが、決して聖人君子のような人ではなく、とても親しみやすいところがあったそうだ。
2019年、中村さんと谷津さんは同じところに泊まっていた。
ある日、中村さんが「たまにはコーヒーでも飲まんね」と言って自分の部屋に招いてくれたという。
部屋に入った谷津さんは、机の上をちらっとのぞいてみた。
中村さんが、ふだん何を読んでいるのか、気になったからだ。
開いたまま伏せてあったのは、司馬遷の「史記」。
その隣に「クレヨンしんちゃん」の漫画が10冊ほど積まれていた。
谷津さんが「先生、クレヨンしんちゃん好きなんですねぇ」と聞くと、中村さんはニコーと笑った。
「いや、谷津さん、あれはおもしろいですよ」。
中村さんは、全50巻、すべて集めるつもりだったらしい。
(谷津賢二さん)
中村先生は、くだらないギャグをよく言いました。
ところが、今どきの若者には全然ウケない。
すると「ガクー」って小さな声で言ってうなだれたりしていました。
ここぞというときの気迫はすごいんですが、仕事を終えると、本当にとぼけたおじさんのようになり、ギャップが大きいんです。
逆にそれが大きな魅力でした。
谷津さんは、中村さんが銃撃を受けて亡くなる8か月ほど前、一緒に丘に上がり、眼下に広がる大地の様子を撮影した。
砂漠だった場所は、すっかり緑で覆われていた。
そして、聞こえてきたのは、さまざまな「音」だ。
鳥が鳴く声、家畜の声、そして子どもたちの笑い声。
荒野に「命」の気配が戻っていた。
(谷津賢二さん)
響いていたのは里の音でした。“音がすごいですねぇ”って話しかけると、中村先生もうれしそうに“音がいいですねぇ”と言って、にっこりと笑いました。
中村先生は、よく文章にも書いています。
緑こそが平和の礎だと。
そういう意味では、ただ緑が戻るだけではだめなんです。
アフガニスタンの人々の生活を取り戻すことができて、里の音が響いていることが重要なんです。
これこそが、中村先生の求めていたものなんだと。
長く、中村さんのことばを記録してきた谷津さん。
忘れられないことばがある。
(中村哲さんのインタビューより)
人の真心は信頼に足るということですね。
いろんな人に裏切られたり盗まれたり、いろいろなことはありましたけれども、やはりその人の持ってる真心には共通したものがあって、それは信頼に足る。
それは誰の中にもあるんだ。
それをひっくるめてやっぱり人間というのは、愛するに足るものだ。
真心というのは、信ずるに足るものだというふうに思いますね。
(谷津賢二さん)
私の勝手な解釈なのですが、この“人は愛するに足り、真心は信ずるに足る”ということばは、中村先生の人間観のすべてなんだと思うんですね。
善人も悪人も、ひっくるめて真心が必ずあるんだと、その真心を信じることによってこそ人が動く。
真心をとにかく信じましょう、というのが中村先生の生き方だったと思うんです。
人間には、悪いやつも、いいやつもいる。
戦争もするけれども、人というものは愛すべき存在なんだから、諦めてはいけないんだって、中村先生は思っていたような気がするんです。
谷津さんたちは、1000時間に及ぶ撮影の記録を、1本の映画「荒野に希望の灯をともす」としてまとめた。
今、全国で公開され、SNSでも評判を呼んでいる。
映画からどんなことを感じてほしいと思っているのか、聞いてみた。
(谷津賢二さん)
ここ数年、コロナ禍があったり、ウクライナで戦争が起きたりして、世の中に不安が渦巻いています。
人間は、物理的にも精神的にも分断され、孤立してしまっている。
中村哲さんは、人のために、自分はどう生きられるのかということを、身をもって示しました。
人のために生きることなんて、そうはできないし、私自身もできないと思っています。
ただ、私たちと同じ時代、同じ時間を中村哲という人が生きた。
その生き方をよすがにして、私たちは1歩でも前に進めるかもしれません。
そんな希望が、中村さんの生き方にあるんだということを、映画から感じ取ってもらえれば、こんなにうれしいことはありません。
映画には、次のような場面がある。
アフガニスタンの緑が戻った大地に、マドラサという学校とモスクができたとき、中村さんは仲間たちに招かれて、一緒に完成を祝った。
抱擁のあと、小柄な中村さんは、1人の男性から高く担ぎ上げられた。
本当にうれしそうな笑顔を浮かべながら。
人を愛し、愛された人。
その笑顔は、こんなにも素朴で、美しい。
※中村哲さんについての谷津賢二監督のインタビューは「らじる☆らじる」の“聞き逃し”からお聞きいただけます〔2022年9月23日(金) 午後10:55配信終了〕
https://www.nhk.or.jp/radio/player/ondemand.html?p=0045_01_3808870