文化

ドナルド・キーンさんの秘めたメッセージ

ドナルド・キーンさんの秘めたメッセージ

2019.10.04

「地震や津波、原発事故があっても日本人が落ち着いていたことに感心しました。日本人が好きです。日本人として死にたい」
そう言って、日本人になった日本文学の研究者、ドナルド・キーンさんには伝えたいことがありました。生涯にわたって日本を愛したキーンさんの秘めたメッセージです。
(科学文化部記者 籔内潤也)

3月 ニューヨーク コロンビア大学で

コロンビア大学の図書館

2019年3月29日、記者の私はアメリカ ニューヨークにあるコロンビア大学の図書館にいました。そのとき、ドナルド・キーンさんが亡くなってから1か月余り、キーンさんが16歳で入学して以降、4分の3世紀にわたって関わり続けた場所で、キーンさんゆかりの日本文学の翻訳賞の受賞式が開かれていたのです。

ドナルド・キーンさん(右)

格式のある図書館の一角に設けられた会場にはキーンさんの笑顔の写真が飾られ、受賞者を含めた出席者は次々にキーンさんとの思い出を語りました。

キーンさん 数多くの作品を英訳し世界に紹介

ドナルド・キーンさんはことし2月、96歳で東京で亡くなりました。長年、日本とアメリカを行き来し、日本文学を研究、数多くの作家の作品を英語に翻訳し、世界に紹介しました。

谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫などとも交友するとともに、日本の古典文学から世に知られていない人の日記まで分析しています。その中で、日本人の繊細さや心の機微に魅力を感じていたと言います。

多くの教え子も育て、村上春樹さんや吉本ばななさんなど多くの小説家が世界で受け入れられるベースを作ったとも言われています。2008年には日本の文化勲章も受章しています。

晩年のキーンさんのメール

コロンビア大学の会場でキーンさんの思い出を多くの人が語る中で、1人、少し違った角度から語る人がいました。

チャールズ・イノウエ教授(左) キーンさん(右)

キーンさんと晩年の数年間、親密なメールの交換をしていた日本文学研究者、アメリカ タフツ大学のチャールズ・イノウエ教授。会場でメールの一部を紹介しました。

「石川啄木について連載しているが、難しい。彼の作品のすばらしさと、彼の人を不快にさせるような人生との間で揺れ動く」(2014年4月13日)

「首相の靖国神社への参拝が気にかかっている。以前、私は日本が左翼に乗っ取られるのではないかと心配していたが、今は右翼が乗っ取らないか心配だ」(2013年12月27日)

キーンさんの1、2世代下の日本文学研究者にあたるイノウエ教授は別の翻訳賞をきっかけにキーンさんと知り合い、メールを交わすようになりました。身の回りに起きた出来事から、専門的な文学論まで、50通近くに上るということでした。

チャールズ・イノウエ教授

「高名な教授なので、最初は近寄りがたいと思ったが、メールの交換をするうち、キーンさんは私にほかでは見せない面を見せるようになったんです」

日本への強い警鐘

私はキーンさんの率直なメールに驚き、イノウエ教授とキーンさんの養子、誠己さんの許可を得て、メールのやり取りを見せてもらいました。

メールのやり取りからは日本への強い警鐘が…

親密なメールのやり取りは、2012年から2014年末まで断続的に続いていました。日本を愛してやまなかったキーンさんですが、今回見せてもらったメールには日本への強い警鐘が記されていました。

「政府がオリンピック開催にこだわるなら、東京ではなくて東北で開くべきだろう」(2014年1月14日)

「月刊誌には、『日本人はなぜ韓国人を嫌うのか』、『韓国人はなぜ日本人を嫌うのか』という記事ばかりだ」(2014年2月13日)

キーンさんがこだわった平和

メールの中でキーンさんが特に強調していたのが日本の平和でした。キーンさんの目には、最近の日本の様子が、戦後築き上げてきた平和を損なうように見えていました。

さらに憲法の改正が議論になり始めても、歴史や平和について無関心な日本の状況に失望していました。

「(憲法とオリンピックに対する私の考えが新聞に掲載されたが)今のところ2人しか反応がない。知り合いの元新聞記者と教え子だけだ。奇跡は起きなかった」(2014年1月16日)

「もう二度と日本が戦争の苦しみを経験してほしくない。もし、もう一度、戦争が起きると、一巻の終わりだ」(2014年1月14日)

イノウエ教授:「キーンさんは、戦争のことをすごく気にかけていました。戦後に繁栄した日本が戦争の教訓を徐々に忘れてゆく姿を見るのがつらかったのです」

キーンさんと戦争

キーンさんが平和に思いを寄せる背景には70年余り前の戦争体験があります。

キーンさんは日本兵の尋問を担当していた

当時、海軍の通訳として、日本語を学び、日本兵の尋問を担当。沖縄戦で、降伏を呼びかける役割も担いました。このとき、兵士の日記から日本人の心情を知ったキーンさんは日本人と平和について考えを深めてきました。

特別な覚悟で日本国籍取得

2012年3月

ドナルド・キーンさんは東日本大震災の翌年の2012年、日本に移住し、日本国籍を取得。「鬼怒鳴門」(キーン・ドナルド)という漢字の名前も披露、日本人になりました。震災と原発事故で苦しんでいた日本人を勇気づけました。

キーンさん:「地震や津波、原発事故があっても日本人が落ち着いていたことに感心しました。日本人が好きです。日本人として死にたい」

“日本への愛を語ったときしか聞いてくれない”

ところが日本国籍取得には別の側面もあったことが、今回、イノウエ教授の証言で分かりました。

キーンさんはイノウエ教授に、外国人としてではなく、日本人として内側から意見することで覚悟を持ってメッセージを伝えたかったと打ち明けていたといいます。

イノウエ教授:「キーンさんはずっと日本のよいところを語ってきたわけなんですけれども、いまになって、もう少し、悪いところも言わなければならないけれど、アメリカ人として言うのはつらくて、できないと。愛する日本を外国人として批判するのではなく、日本人として苦言を呈したかったんです」

しかし…。

「あなたが言うように、もっと伝わるようにやれればよいのだけど、私が懸念しているのは、日本人は私がいかに日本を愛しているかを語ったときしか、耳を傾けてくれないことだ」(2014年1月14日)

キーンさんのメッセージどう受け止める?

イノウエ教授はキーンさんの今の日本に対する思いについて、次のように話しています。

「キーンさんは日本が平和であるために、日本人は日本文学をもっと真剣にとらえないといけないと何度も話していました。日本人が何者であるのか、どこから来たのか、心情を理解するのに文学作品を読まないといけないが、若い人があまり本を読まないのを悲しんでいました。キーンさんは自分のキャリアを作ってくれた日本の人たちに心から感謝していたし、日本への批判も深い愛から来るものでした」

日本人として責任を持って意見をする、その覚悟を持って、日本国籍を取ったというドナルド・キーンさん。その覚悟、そこまでして伝えたかったことに私たちは応えられているだろうか、取材中、何度も考えさせられました。

最後にキーンさんがつづっていたメールから2つ、言葉を紹介します。

「自虐的な日本人に“なぜ日本のような国に人生をささげるのか”と聞かれるが、心から、“日本の人々がいるからだ”と答える」(2014年2月26日)

「立場や考え方が違っても、話せば何か解決策に到達することができるはずだ」(2014年1月25日)

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