文化

ジャニー喜多川さん 死去 87歳

ジャニー喜多川さん 死去 87歳

2019.07.10

SMAPや嵐など数々の国民的アイドルを生み出した芸能事務所「ジャニーズ事務所」を設立し、音楽プロデューサーや舞台演出家としても活躍したジャニー喜多川さんが、9日午後、くも膜下出血のため東京都内の病院で亡くなりました。87歳でした。

ジャニー喜多川さんはアメリカ・ロサンゼルス生まれで、幼いころ家族と日本に帰国したあと、終戦後に再びアメリカに渡り少年時代を過ごしました。

朝鮮戦争で徴兵されたあと日本に戻り、昭和37年、男性アイドルグループ「ジャニーズ」を結成して「ジャニーズ事務所」を設立しました。

「フォーリーブス」や「たのきんトリオ」「シブがき隊」、それに「光GENJI」といったアイドルグループを次々と誕生させたほか、郷ひろみさんや、田原俊彦さん、近藤真彦さんをソロデビューさせるなど、正統派男性アイドルの基礎を築きました。

その後も「SMAP」や「TOKIO」「KinKi Kids」「V6」「嵐」といったアイドルグループを次々とデビューさせ、「ジャニーズ」は男性アイドルを象徴することばとしても定着しました。

音楽プロデューサーや舞台演出家としても活躍し、「最も多くのナンバー1シングル」や「最も多くのコンサート」をプロデュースした人物としてギネス世界記録に認定され、80歳をすぎても所属タレントのミュージカルの演出などを精力的に手がけてきました。

一方で、「自分は裏方に徹するべきだ」という信念を貫いて、メディアを通して素顔や肉声を公表せず、去年1月に放送されたNHKの番組では撮影しないことを条件にインタビューに答え、「なるべくお客様に幸せを感じてもらうショーを作るのが僕の役割だと思います」などと話していました。

ジャニーズ事務所によりますと、ジャニー喜多川さんは先月18日に自宅で体調の異変を訴えて病院に向かおうとしていたところ、意識を失って東京都内の病院に緊急搬送され、9日午後5時前にくも膜下出血のため、亡くなったということです。87歳でした。

NHKインタビューに「幸せ感じるショー作るのが僕の役割」

ジャニー喜多川さんは平成30年1月、カメラで撮影しないことを条件にNHKのインタビューに応じました。

語られたのは、子どもの頃に体験した戦争の記憶や、「ハッピーエンド」へのこだわりでした。

ジャニー喜多川さんは太平洋戦争中、和歌山で空襲に遭い、このときの体験について「防空ごうへ入ろうと思ったら、だめだと言われて、1人で飛び出した。空襲が終わって、朝、防空ごうのほうに戻ってくると死体でいっぱいだった」などと語りました。

昭和37年に「ジャニーズ事務所」を立ち上げたあと目指してきたことについて、「なるべくお客様に幸せを感じてもらうショーを作るのが僕の役割だと思います」としたうえで、「世界には悲しみもあるけれど、僕たちのショーはハッピーエンドで終わります。世界もハッピーエンドであってほしい。ショービジネスに携わる者としての1つの願いです」と思いを語っていました。

また、アイドルにとっていちばん大切なことは何かという問いかけに対しては、「才能があるかどうかは、神様でもわかりません。やりたい気持ちがいちばんです。稽古を見ていても分かります。本当に本気でやるという子はやりますよ」と、やるべきことに真剣に向き合うことの大切さを強調していました。

NHKラジオ出演でアイドル育成の信念 語る

ジャニー喜多川さんは、平成27年の元日にNHKのラジオ第1で放送された演出家の蜷川幸雄さんとの対談番組に出演していました。ジャニーさんはメディアを通して素顔や肉声を公表しておらず、極めて貴重な肉声です。

番組の中でジャニーさんは、戦争体験を経てジャニーズ事務所を立ち上げるまでのいきさつや、アイドル育成にかける信念を語っていました。

アイドルの育成についてジャニーさんは「アイドル作りって人間作りですよね。それだけにやりがいがある。どの子だってみな人間の美しさがある。それぞれそれ相応に」としたうえで「理屈っぽくじじいみたいなことは言わない。格好よく生きたいから。俺の若い頃はね、なんて言わない、絶対。自分の苦労話を伝えてもしかたないですよ」と話しています。

一方で仕事には厳しい姿勢で向き合っていました。

当時上演していた舞台についてジャニーさんは「3時間の中で1分でも気にくわなかったらお金を返すって言ってるんです。1分たりともむだなことをしては申し訳ないと思う。だから絶対に100%は当たり前。お客に満足していただくように作るのがわれわれの商売ですから、それは成立させなくてはいけない。お客はお金払って来ているわけですから」と話していました。

一方、タレントのことを「ユー」と呼ぶことについて聞かれると、ジャニーさんは、「アメリカでは『You must do』って主語になって言うからつい言っちゃうんです。名前は覚えられないです。それは僕の悪いところ」と打ち明けていました。

そして番組の最後これからやりたいことについてジャニーさんは「若い子はこれからどんどん伸びていくけど大事にしなきゃいけない。タレントとして育っているけど人間として育っていないわけですよ。僕はやりますよ絶対に。死ぬ前にちゃんとやります。若い子を築き上げなきゃ。金もうけ主義でやってるわけじゃないってはっきりわかると思います。僕が築き上げた人に聞こえるかもしれないけど違うんです。これから築き上げることによって子どもたちも育っていくってことなんですよ」と話していました。

入院中 病室には所属タレントが次々面会に

ジャニー喜多川さんは先月18日に東京都内の病院に緊急搬送され、解離性脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血と診断されていました。

ジャニーズ事務所によりますと、その後の救命措置によって集中治療室から一般病棟に移り、日々、事務所に所属する年長のタレントから若いジャニーズJr.のメンバーまでが、面会に訪れていたということです。

病室では、新旧さまざまな楽曲を流し、見舞いに訪れたタレントたちがジャニーさんとの思い出を語ったり、ジャニーさんの好物を食べたりしながら、にぎやかに過ごしていたということです。

また、病状が危険な状態に陥ると、タレントたちがジャニーさんに呼びかけ、容体が一時的に回復するということも繰り返しあったということです。

「嵐」の松本潤さんは、ジャニーさんの病状が発表された今月1日、事務所が設けた囲み取材の場で、面会時の様子を語り、「僕たちは入院翌日、19日に5人でジャニーさんのもとにお見舞いに行きました。その後もそれぞれ時間があるときに、なるべくジャニーさんの病室に通っているような現状です。今はジャニーさんが一日も早く元気に回復してくれることを祈っています」と語っていました。

事務所によりますと、通夜と告別式は事務所のタレントと親族だけで行うということで、その後、関係者のためのお別れの会を開く予定だということです。

ジャニーさん死去 事務所の発表文「意思受け継ぐ」

ジャニー喜多川さんが亡くなったことは、9日夜遅く、ジャニーズ事務所がファックスで発表しました。この中では、病院でのタレントとのやり取りや、ジャニーさんの生前の思いが記されています。

(以下、発表文より)
2019年6月18日午前11時30分頃、自宅におきまして体調の異変を訴え、病院に向かおうとしたところ意識を失い、救急搬送されました。搬送後、集中治療室におきまして懸命な救命措置を行っていただいたことにより、一般病棟に移ることができましたため、病院のご協力もあり、ジャニーは、自身にとって子供のような存在でございますタレントやJr.との面会を果たすことができました。ジャニーがタレント達と過ごした病院での日々は、かけがいのない時間となりました。新旧、様々な楽曲の流れる病室におきまして、年長のタレントからJr.までが同じ空間でジャニーとの思い出を語り合う、微笑ましく、和やかな時間が流れていきました。片時もジャニーが寂しい思いをしないよう、仕事の合間を縫ってタレント達は入れ替わり立ち替わり病室を訪れました。ジャニーの好物を皆で賑やかに食べることが日課となり、その光景と匂いからまるで稽古場にいるかのような感覚を覚え、皆、懐かしい記憶がよみがえりました。ときに危険な状態に陥ることもございましたが、タレント達が呼びかけ、体を摩るたびに危機を脱することができました。タレント達と過ごすことでジャニーの容体が一時的に回復するという奇跡的な出来事を繰り返し目の当たりにし、改めまして、ジャニーのタレントに対する育ての親としての深い愛情と子供達との絆の強さを感じました。そして、最愛の子供達の愛に包まれながら、2019年7月9日午後4時47分、ジャニー喜多川は、人生の幕を下ろしました。

ジャニーは病に倒れる直前まで、劇場やスタジオに赴く日々を過ごしておりました。特に公演を目前に控えたJr.達に、連日、熱心に指導する姿はジャニーのプロデューサー人生そのものであり、まさに生涯プロデューサーとしての人生を全ういたしました。

1962年ジャニーズ事務所の創業以来、ジャニーは一途にエンターテイメントの創出に励んでまいりました。ジャニーのエンターテイメントに欠かすことができないのはタレントです。これまで多くのタレント達を生み育ててまいりましたが、一貫しておりましたことは、タレントとしてだけでなく、一人の人間として成長することを強く願っておりました。現在では、多くの皆様に支えていただくことで創業当時では考えられない程多くのタレントが、様々な分野で活躍させていただいていることにいつも感謝いたしておりました。

ジャニーが私達に最後まで言い続けていたことは、自身の意思を受け継いでくれるタレントを絶え間なく育成し、そのタレントと社員が、エンターテイメントを通じて世界中の皆様に幸せをお届けすることこそが、ジャニーズグループとして決して変わることのない思いであるということです。そして、世の中がいつまでもエンターテイメントを楽しむことができる平和で希望に満ちた未来であり続けることを心から願っておりました。これからタレントと社員がその意思を受け継ぎ、一人一人が役割を果たすことで世界中にジャニーの願いが届きますよう、タレントとスタッフ一丸となり、精進してまいりますので、何卒ご指導賜れますと幸甚に存じます。

国分太一さん「『YOUやっちゃいなよ』がずっと胸の中に」

ジャニー喜多川さんが亡くなったことについて、ジャニーズ事務所に所属するタレントたちが、10日朝の民放の番組で心境を語りました。

このうち「TOKIO」の国分太一さんは「ジャニーさんとの出会いは13歳で、31年がたちました。エンターテインメントのすばらしさや、仕事の魅力、難しさ、たくさんのことを教えてもらいました。ジャニーさんがずっと言っていた『YOUやっちゃいなよ』ということばがずっと胸の中にあります。感謝しかありません。本当にありがとうございました」と涙ながらに語りました。

東山紀之さん「精神を受け継いで明るく楽しくやっていく」

また別の番組で、東山紀之さんは「ジャニーさんはやはりぼくらにとっては父親ですよね。大変優しく接してくれました。エンターテインメントの世界ではいちばんの方だと思うので、ぼくらはその精神を受け継いで、これからも明るく楽しくやっていくことが基本だと思っています」と話しました。

元「シブがき隊」3人も感謝や哀悼の思い 記す

9日ジャニー喜多川さんが亡くなったことについて、1982年、昭和57年にジャニーズ事務所のアイドルグループ「シブがき隊」のメンバーとして歌手デビューした本木雅弘さんと、薬丸裕英さん、布川敏和さんは、それぞれ、コメントや自身のブログで哀悼の思いを記しています。

このうちコメントを発表した本木さんは、ジャニーズ事務所に入るためにジャニーさんと面会した時の思い出を振り返り、「14才の終わり、『じゃあ来週からね』と、親愛の込もった笑顔で駅の改札まで見送っていただきました。帰路の電車の中で止まらなかった、あの大望に満ちた胸の高鳴りが自分の原点です。心よりの感謝とご冥福をお祈り申し上げます」としています。

薬丸さんは10日更新した自身のブログで、「一晩、泣き明かしました。人生の恩人の逝去…つらく悲しいです。ジャニー喜多川社長に出会わなかったら今の自分はありません。14歳からきょうまでジャニーさんとのいろいろな思い出が頭の中を駆けめぐっています。ジャニーズ事務所を退所したあとも年に数回、ご自身がプロデュースする舞台に呼んで下さり、楽屋で近況などお話させていただきました。常にやさしく気遣いの方でした。ジャニーさんには感謝の気持ちしかありません。本当にありがとうございました。心よりご冥福をお祈りいたします」とつづっています。

また、布川さんもブログで、「右も左もわからなかったデビューしたての僕らに、ステージ上での立ち振る舞い方や、歌っている最中の表情、目線の位置、事細かく指導してくださいました。いつも優しいジャニーさんは合宿所でも、『Youたち、おなか空いてるんじゃない?』っと、よくスパゲティを作ってくれました。それがとてもおいしいのです。その他にも、ジャニーさんとの思い出はたくさんあります。シブがき隊が解散して30年もたちますが、どれも忘れる事ができません・・・」と思い出を振り返っていました。

オリコンの小池社長「日本の音楽史を変えた」

9日亡くなったジャニー喜多川さんの功績についてオリコンの小池恒社長は「ジャニーさんがいなかったら日本のエンターテインメント全体や音楽史が全く違うものになったと思う」と指摘しています。

ジャニー喜多川さんは、昭和37年に芸能事務所の「ジャニーズ事務所」を設立してSMAPや嵐などのアイドルグループを次々と誕生させたほか、音楽プロデューサーや舞台演出家としても活動を続けてきました。

半世紀に及ぶ活動を通じて芸能界に残した功績について、音楽ソフトの売り上げを調査しているオリコンの小池恒社長は、これまでに1位を獲得したシングル曲が439作品に上ることを挙げ「これはほかとは比べることができない突出した数字で、それだけ長い間多くのヒット曲に携わってきた人はほかにいない」とし、「ジャニーさんがいなかったら日本のエンターテインメント全体や音楽史が全く違うものになったのではないか」と指摘しました。

そのうえで「自分たちのタレントにどういう新しい才能があって、どういう表現ができるのか常に試していた。タレントの特性を見極めながら、常に新しいことを求める姿勢を貫いたことが、結果として結実したのだろう」と評価していました。

ご意見・情報 お寄せください