2023年7月24日
世界の子ども 韓国

“塾通い地獄”生む超難問が禁止に?広がる波紋とは?

“塾通い地獄”とも呼ばれる韓国の受験競争。

韓国政府は大学入試で出題される超難問“キラー問題”を排除する方針を打ち出しました。

厳しい競争社会で知られる韓国で巻き起こる議論を取材しました。

(ソウル支局記者 長砂貴英)

超難問はダメ

学習塾の自習室

2023年6月、韓国の教育業界に衝撃が走りました。理由はユン・ソンニョル(尹錫悦)大統領が教育相に出した指示です。

ユン・ソンニョル(尹錫悦)大統領

「学校教育の課程で扱わない分野の問題は、大学修学能力試験から排除すべきだ」

大学修学能力試験とは日本の大学入学共通テストに相当し、毎年11月に行われます。出題内容について韓国教育省は、原則として学校教育の範囲内だとしています。

しかし、難易度の高い問題が教科ごとに2、3問ほど出題され、教育業界やメディアから「キラー問題」と呼ばれています。

どんな問題?

韓国メディアが取り上げた、2018年の「国語」の問題の一部を見てみます。

「密度が均質であるか球対称である球を構成する体積要素がPを引っぱる万有引力の総和は、その球と同じ質量をもつ質点がその球の中心OからPを引っぱる万有引力と同じだ」

こうした万有引力に関する文章を読んだ上で、選択肢から「正しくないものを選べ」という問題です。受験生や保護者などからは、「国語なのか、物理なのか」、「国語の出題として適切なのか」といった指摘が相次いだと報じられています。

問い合わせが殺到

「キラー問題」排除の方針を受けて、大手学習塾には受験生や保護者からの問合せが相次いでいるといいます。

韓国大手学習塾チョンノ学院 イム・ソンホ(林成浩)代表理事

大手学習塾 チョンノ学院イム・ソンホ(林成浩)代表理事

「超高難度の問題を排除する根本的な趣旨には共感します。しかし、受験生たちは今まで準備してきたことが無駄になったり無意味になったりすることを心配し、混乱しています」

「受験生からは、残りの期間で勉強方法を変えなければならないのか、現役大学生からは、難しい問題がなくなるなら再び医大に挑戦したいなどさまざまな問い合わせが寄せられています」

厳しい受験戦争の背景は?

遅刻しないよう白バイに送ってもらう受験生、試験当日は国をあげて支援 2021年11月

韓国では「名門大学に入って大企業に入ることが成功」と言われるほどの学歴社会です。

とくに、ソウルにある「SKY(スカイ)」と呼ばれる、ソウル大学・コリョ(高麗)大学・ヨンセ(延世)大学に象徴される有名大学の出身であることが重視されます。

このため、子どもたちは幼いころから「塾通い地獄」とも呼ばれる厳しい受験競争に臨むのです。

そして、「キラー問題」によって、学力が上位の学生たちは、さらにふるいにかけられます。事前に対策をした受験生が有利となるため、塾通いを過熱させる一因とも指摘されています。

ソウル市内の学習塾街テチドン(大峙洞) 塾の看板が並ぶ

ソウル南部のカンナム(江南)区にあるテチドン(大峙洞)という韓国屈指の学習塾街を取材しました。

細かい路地に至るまで学習塾の看板が並びます。塾の種類は「国語」「数学」「科学」など教科ごとにそろっています。

夕方になると、高校生たちが大型の送迎バスから次々と降りて吸い込まれるように学習塾に入っていきます。保護者の車で送り迎えされる子どもたちも数多く見かけました。

まちを歩いて目を引いたのは、塾講師のポスターや広告です。

教科ごとに講師陣の写真を並べていて、まるで芸能人やアイドルのようです。路線バスの車体や停留所にも広告が掲示されています。

講師たちの写真

人気の講師は「一流スター講師」を意味する韓国語の略で「イルタ」と呼ばれます。

年収が日本円にして数十億円に上る講師もいると現地メディアは報じています。「イルタ」を題材にしたドラマもつくられるほどです。

お金はどれくらい必要?

韓国統計庁の調査によると2022年、高校生で学習塾などを利用している生徒にかかった学校外での教育費は1人当たり月平均で69.7万ウォン(約7万7千円)でした。

この10年で60%近く増加しています。

専門家は、学習塾などの負担が家庭や社会に与える影響を指摘しています。

ニッセイ基礎研究所キム・ミョンジュン(金明中)主任研究員

韓国の社会政策に詳しいニッセイ基礎研究所キム・ミョンジュン(金明中)主任研究員

「調査はあくまでも全国平均の数字なので、ソウルに限ればさらに高い可能性があります。
7月から試験のある11月ごろまでは個人授業を受ける場合もかなり出てくるので、その場合は日本円にして受験生1人当たり日本円で月10万円を超えるケースもかなり多いです。
それを考えると、テチドンのあるカンナム区の高校生の場合は月に20万円から40万円くらいはかかっている場合もあるでしょう」

「いろんな塾に通わせることで家計に占める教育費の支出が大きくなり、教育以外にお金を使えなくなる家庭が増えています。
自分たちの老後の資金も考えずに子どもにつぎ込む親もいるので、将来の貧困につながる恐れもあります。いまの状況が続けば“エデュ・プア(教育支出による貧困)”の家庭が増えていく可能性は高いと考えられます」

 さらに次のような指摘まで。

「子どもには十分な教育をさせないといけないということが、韓国で出生率を低下させる1つの要因にもなっています」

韓国の大手メディアは7月に入り、国税当局が複数の有名学習塾と一部の「イルタ」を対象に税務調査に着手したと一斉に報じました。

さらに、塾講師と入試の元出題者の間で癒着の疑いがないか、教育省が警察に捜査を依頼したとも伝えています。ユン政権は「教育利権カルテル」という言葉で塾業界への圧力を強めています。

戸惑いも

「キラー問題」を排除するという韓国政府の新しい方針は、受験生たちにとって一見いいことのように見えますが、高校生たちの胸の内は複雑なようです。

「公正な試験という大枠でみると、反対する人はいないと思います。ただ、“キラー問題”が何か明確に定義されていません。どのような問題が出されるのか明確にしてほしいです(高2)」

「戸惑いました。これまで“キラー問題”がある修学能力試験が行われていたのが、試験の5か月前に急に方針が変わったからです。わたしは2024年の受験ですが、変化がどう影響を与えるのか心配しています(高2)」

「キラー問題」をテーマに開かれた討論会 2023年6月

6月末、教育関係の団体が「キラー問題」の排除をテーマにソウルで討論会を開くと知り、取材しました。参加していたのは、高校教師や高校3年生の保護者、それに韓国教育省の担当者です。

韓国教育省の担当者

このなかで教育省の担当者は次のように発言しました。

教育省担当者

「生徒たちを塾に追い込み、公教育の枠内でまじめに勉強している生徒たちに挫折感を与える問題を排除すべきという点については、共感いただいていると思います。教育課程の範囲内で出題するという原則は以前からあります。そこは変わらないので、動揺する必要はありません」

一方で、高校3年生の父親は、趣旨は理解するものの決定が性急だとして、担当者に厳しい言葉をぶつけました。

受験生の父親

受験生の父親

「もう6月です。生徒たちは模試を受けてどこに全力投球するのかを先生と相談し、塾でコンサルティングを受けて、やるべきこと、諦めることを決めて勉強しています。そんな状況で、これほどまでに揺さぶって『動揺する必要はない』という言葉は、とても無責任ではないでしょうか」

「政府が十分に検討し、悩み、関係者と議論してから、この問題を扱ったら良かったのに、という残念な気持ちです」

これに対して教育省の担当者は、出題方針の転換に繰り返し理解を求め、この日の討論会は終わりました。

本当に必要なのは?

取材する中で、「大学に行かなくても食べていける社会になってほしい」と話していた保護者と、「仕方なく塾に通うしかない。大統領には抜本的な改革を試みて欲しい」と訴える高校生が印象に残っています。

厳しい競争に身を置かなければ、幸せになれないのか-。

韓国の人たちが社会に向けた切実な声だと思いました。

韓国の厳しい受験競争は、大企業と中小企業の大きな賃金格差、職業や生き方に対する考え方など、多岐にわたる要因が複雑に絡み合っています。

ユン政権も当然、入試の出題方針を変えるだけでは根本的な解決につながらないと考えているはずです。

2023年7月初めに韓国メディアが行った世論調査では、「キラー問題」排除について「賛成」が45.4%、「反対」が43.7%と、賛否は分かれています。

「キラー問題」をめぐる対応が本格的な教育改革につながるのか。

受験生たちの戸惑いや混乱の行方も含めて、韓国の人たちはユン政権の対応を注視しています。

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