2023年11月6日
パレスチナ イスラエル 中東

「ただただ命が失われている」最新 ガザ地区で日本人が見たものとは?

「戦争は本当に何も生み出しません。ただただ命が失われています」

国際的なNGO「国境なき医師団」のスタッフとして、衝突が続くガザ地区に3週間あまりとどまっていた白根麻衣子さん。

イスラエル軍による空爆で死者が増え続けるガザ地区の現状を、こう訴えました。5日深夜、日本に帰国した白根さんの思いとは。

(国際部記者 吉元明訓)

ガザに3週間いた日本人

国境なき医師団のスタッフとして、ことし5月からガザ地区北部のガザ市を拠点に現地スタッフの雇用などを担当してきた白根麻衣子さん。

11月1日にエジプト側に退避した白根さんは5日深夜、疲れた様子も見せず日本に帰国しました。

到着ロビーで同僚の姿を見つけ、安堵の表情を見せる白根さん(羽田空港)

イスラエル軍の通告を受けて10月13日に南部に避難した後、連日、空爆が続く中で、メディアの取材を積極的に受け、現地の過酷な状況を発信し続けてきた白根さん。

帰国前の4日、エジプトから開いてくれたオンライン会見で、最新のガザ地区の状況、そして現地を離れたいまの思いを聞きました。

(以下、白根さんの話)

ガザからの退避 どのように実現した?

国境なき医師団のリーダーが1日の朝「きょう検問所が開く予定だから移動します」という知らせを伝えてくれました。

車で移動してラファの検問所に着くと、多くの人たちがガザから退避するために待っていて、私たちもそこで数時間、門が開くのを待っていました。

パレスチナ ガザ地区 ラファ検問所(2023年11月1日)

多くの人たちが3週間以上その検問所が開くのを待っていたので、とても混乱していました。みんないち早くエジプト側に行きたいという思いで、入口に押し寄せている状況でした。

検問所を越えたときの心境は?

エジプト側に入った時は正直ほっとしましたが、100%の喜び、という感情ではなかったです。

ガザ地区から退避しエジプトに入った「国境なき医師団」の日本人3人

3週間以上、毎日空爆やミサイルが発射される音を聞いて、水や食料も日々不足していく中で、命の危険というのを感じていました。

この戦争はまだまだ終わっておらず、多くのパレスチナの人たちが日々、その空爆に苦しみ、物資の不足、けがをしても適切な医療を受けられないという状況は全く変わっていないことを考えると、これからガザ地区はどうなっていくんだろうという不安な気持ちになりました。

空爆を受けた建物から生存者を捜す人々(ガザ地区)

空爆が全く止まっていない中で、現地スタッフはできる限りの活動を続けてくれている、そうした現地スタッフは境界を渡ることができない。彼らを置いていくということに対して、正直、複雑な気持ちになりました。

避難した南部での生活は?

現地の生活を振り返ると本当に極限だったと思います。

空爆が続くので、夜中の2時であったり、3時、4時でも、みんな目を覚ますという生活でした。

寝てなかったり、寝られたりという、日によってバラつきがあるんですが、朝ごはんをみんなで用意して、生きていくために必要なもの、食料がどれくらいあるかというのを毎日、数えていました。

あとは掃除をして、綺麗にしないと、衛生面が保たれずに生活環境が悪くなってしまい、体調を崩すことにつながるので、今まで以上に気をつけて、体調を崩さないようにということをみんなで声を掛け合いました。

現地のスタッフは、私たちを守るために日々、食料や水、必要な生活用品を、命を懸けて探し回って私たちに届けてくれました。

食事はだいたい1日に1食か2食で、基本的には缶詰や現地スタッフが買ってきてくれるパン、野菜を食べていました。みんなで廃材を拾ってきて、それを薪にして、火を起こして何か簡単なものを温かく料理する努力をするというような生活でした。

最後の方は食料も尽きてきて、空爆やミサイル攻撃が続く中、日々物資が不足して、次の日に食べるものがもうなくなるかもという恐怖、あと2日しか飲む水がなく、もうほかに使う水は何もなくなったという状況に陥った時は、極限だったという風に思います。

最も厳しかった局面は?

10月末にガザ地区の通信がすべて切られたときは一番、命の危険を感じました。通信の遮断というのは、精神的にも大きな不安につながりました。

通信が遮断されたガザ市民の携帯電話

物資を調達するため、現地スタッフは事前に店に電話をして、在庫がどれくらいあるか確認して、移動を最小限にとどめていました。そういった買い物に行く前の準備はすべて電話に頼っていました。

国境なき医師団から指示や情報を受け取ったり、大きな心の支えになっていた家族と連絡をとったりするのが一切できなくなるというのは、本当に不安になりましたし、これからどうすればいいのだろうという状況になりました。

また、通信が途絶えるということは、救急車を呼べないということになります。

空爆が続いていて、本当に多くの負傷者であったり、死者が毎日出ている中で、救急車の通報ができなくなるので、患者を病院に運べないといった、大きな弊害が出て、助けられた命も助けられなくなるといった状況にもなりました。

「10月7日に起きたこと」

10月7日は土曜日だったので勤務はなく、普通の週末が始まると思っていたのですが、朝6時半ぐらいにミサイルの音、爆破の音で目を覚ましました。

イスラエルに向けて発射されるロケット弾(ガザ地区 2023年10月7日)

窓を開けて外を見ると、私たちの目の前のビルの後ろから、無数のミサイルが打ち上げられているのが分かりました。

私は2018年から2019年にかけてもガザ地区で活動していて、そういった衝突をこれまでも見てきていたんですが、その朝見たミサイルの数は、これまで私がガザ地区で見てきたり、経験してきたりしたものとはもう全く違う、規模が全く違うものだったので、これは本当に今までとは全く違うことが起きているとその時に感じました。

そこからすぐに私たちが住んでいた国境なき医師団の宿舎の中にある退避部屋に一斉にみんなで避難を始めました。そこからもう1、2時間ぐらい、無数のミサイルを発射する音や空爆の音というのが鳴り止みませんでした。

私たちは退避部屋にいたので外を確認できませんでしたが、爆破音、そして爆風でビルが揺れるのを感じていました。

それが10月7日にこの紛争が始まった日の朝のことです。

ガザ市はどんな状況だった?

そこから全く絶えることなく、昼夜を問わず、空爆やミサイルの発射というのが続いて、数日間は宿舎にある退避部屋で不安な日々を過ごしていました。

道路を挟んで50mほどのところにある建物が空爆で破壊されていたこともありました。

空爆で倒壊する建物(ガザ地区 2023年10月7日)

10月13日にイスラエル側から北部の住民に南部に避難するよう指示が出て、国境なき医師団の同僚と車で南部に避難しました。

移動中、多くの建物が破壊されていて、それが一般市民の住居であったり、病院の近くだったりというのが1つや2つではありませんでした。数えられないほどたくさんのものが破壊されていたのを目にした時は本当に憤りを感じました。

弱者である市民が、こういった戦争に巻き込まれることはあってはならないというのが、私が本当に心の底から思っていることで、イスラエルとハマス、どっちが悪くてどっちがいい、というような感覚は私の中にはありません。

地上戦を行うイスラエル軍

国境なき医師団として、常に中立の立場として訴えていきたいのは、一般市民がこういった戦争、紛争に巻き込まれるべきではないということ。そして、医療施設、学校といった場所はどんな理由であれ、攻撃されるべきではないと思っています。

南部に避難中で印象に残っていることは?

外国人スタッフが避難すると「そこが空爆のターゲットになってしまうのではないか」という懸念があるので、私たちの車を追いかけて「乗せてくれ」とか「なんで行ってしまうんだ」などと言っていたのを見て、本当に心が張り裂ける思いでした。

私たちは国境なき医師団の車で移動したのですが、その途中、避難しろと言われても車がない、移動手段がなくて行くところもなく道をさまよう市民をたくさん見ました。

南部に到着してからも、多くのパレスチナの人たちが国内避難民となって、本当に毎分毎分、多くの人が避難場所に流れ着いて、1日経つと今まで私たちがいた施設にはもう入れなくなって、外に人々があふれていました。

1日中雨の日もありましたが、雨をしのぐこともできず、ただただ人々が外で座って、雨や空爆の音に耐えながら、子どもたちが本当に心細そうにしていたり、泣いていたりしたのはとても忘れられない光景でした。

ガザ地区の南部に設置された避難民のテント

こういった紛争に本当に苦しむのは一般市民だというのを目の当たりして、憤りを感じました。

ガザから出て感じることは?

今ガザから退避をして思うことは、外に出たからこそ、悲惨で人の命が簡単に奪われてしまう紛争が続いていることに更なる怒りを感じています。

中にいる時はもう自分の目の前で起きていることで精一杯で、なかなかそういったことを考えることはなかったのですが、ガザから退避をして客観的にテレビで流れる映像を見ると、この無差別な暴力でたくさんの命が失われるのを目にするたびに大きな怒りを感じています。

今回、このような形で退避することになったのはとても心残りがあります。

この紛争があることによって、私たちが通常していた活動が全くできなくなってしまっているので、本当に心苦しいです。特にこの紛争が始まってからの3週間、私たちは現地スタッフに命をつないでもらったと思っています。

その現地スタッフたちと一緒に働けなくなってしまったこと。現地スタッフは命をかけて、今も患者の治療に当たっているので、その面では本当に心残りがあると思っています。

避難生活で心の支えになったのは?

精神面では、やはり家族の支えが大きかったと思います。

この3週間、本当に家族には感謝をしていて、不安な中、連絡できる時はなるべく連絡をしていました。

母は一度も弱音をはかず「あなたなら大丈夫だから信じて待ってる」と言い続けてくれました。友人も「信じて待ってるよ」ということを言い続けてくれて、大きな心の支えになりました。

また、現地のスタッフがこういった状況下でも、前を向いてできることをやっていて、そういった勇敢な姿を日々日々目にすると、私も弱くなっていてはいけないなと思いました。

「ただただ命が失われていく・・・」

この3週間、私が見てきたものは本当に悲惨であってはならないこと、誰も経験すべきでないと心から思っています。

私は今はもう退避しましたが、今この瞬間もガザの中にいる人たちは日々「命が途絶えてしまうのではないか」という恐怖の中、そして「いつ食べ物がなくなってしまうのだろう」という極限の中、生活しています。

戦争というのは、本当に何も生み出さない。ただただ命が失われていて、あってはならないことだということを常に忘れず持っていてほしいなと思います。

どんな国であっても、戦争が起きると当たり前だった日常が一瞬で消えてしまって、当たり前だった大切な人との生活が一瞬でできなくなってしまう。そういったことがどの国でも起こり得るということを、個人レベルで常に思ってほしいと思います。

こういった無差別な暴力というのは本当に間違っていて、即時停戦を国際社会が声を上げていくことが本当に大切だと思っています。

パレスチナ人の同僚が一番恐れているのは「国際社会がガザの中で起きていることを知らずに、自分たちのことを忘れてしまうのではないか」ということです。

退避はしましたが、私は私にできることは何でもやっていきたいと思います。

白根さんから感じた“思い”

11月5日、3連休最後の日曜日の深夜。

羽田空港の到着ロビーから出てきた白根さんは、出迎えに来ていた国境なき医師団の関係者を見つけると安どの表情を浮かべ、抱き合いながら無事を喜んでいました。

初めて白根さんに話を聞いたのは10月18日。白根さんたちがガザ地区南部に避難して5日後のことでした。

通信状況が悪く、自身も厳しい環境にいながら、電話越しの白根さんの言葉からは「日々、女性や子どもたち、一般の市民が犠牲になっているガザの現実を日本の人たちに知ってほしい」という思いがひしひしと伝わってきました。

白根さん
「飛行機の窓の外から見る東京はきらきらしていてきれいで、同じ空の下なのに、なぜガザとこんなに違うのだろうと考えていました。ガザの夜は電気もなく真っ暗で、見える光は、空爆やロケット弾だけでした」

到着ロビーで「日本に戻ってきて、飛行機から東京の景色を見てどう思いましたか」とたずねると、こう答えてくれた白根さん。

「正直後ろ髪を引かれる思いもある。ガザの人たちに1日も早く平穏な日が訪れるよう、私が日本でできることを1つ1つやっていきたい」と話す白根さんの思いが、1人でも多くの日本の人たちに届いてほしい。そう思いました。

(11月4日のニュース7などで放送)

国際ニュース

国際ニュースランキング

    世界がわかるQ&A一覧へ戻る
    トップページへ戻る