信号機のない横断歩道。
小学3年生の男の子がダンプカーにはねられて亡くなった、痛ましい事故の現場です。
「たとえ遠回りになったとしても、絶対に横断歩道を使おうね」。
母親は、亡くなった息子にそう教えてきたそうです。
息子も、いつも手をあげて横断歩道を渡り、止まってくれた車には頭を下げていました。
なのに・・・。
『安全』だと教えていたはずの横断歩道で奪われた、大切な子どもの命。
自分を責め続けたという母親には、どうしても伝えたいことがあります。
(大津放送局記者 松本弦)
2021年4月6日事故
信号機のない横断歩道。
小学3年生の男の子がダンプカーにはねられて亡くなった、痛ましい事故の現場です。
「たとえ遠回りになったとしても、絶対に横断歩道を使おうね」。
母親は、亡くなった息子にそう教えてきたそうです。
息子も、いつも手をあげて横断歩道を渡り、止まってくれた車には頭を下げていました。
なのに・・・。
『安全』だと教えていたはずの横断歩道で奪われた、大切な子どもの命。
自分を責め続けたという母親には、どうしても伝えたいことがあります。
(大津放送局記者 松本弦)
去年5月20日の昼過ぎ。
滋賀県栗東市の県道で小学3年生の男の子がダンプカーにはねられ、亡くなる事故が起きました。
現場に駆けつけると、停止したダンプカーが目に入ってきました。
周りには不安げな表情をした大勢の人もいます。
現場は交通量が多く、昼夜問わずスピードを出す車が多い場所でした。
警察への取材から、ダンプカーの運転手がこう供述していることが分かりました。
「以前にも通ったことがある道で、横断歩道があることは知っていた」。
私は驚きました。そうであればなぜ、安全なはずの横断歩道で事故が起きたのか。
私はその後も1人現場を訪れて聞き込みを続けました。
そして事故から2か月がたとうとする時、亡くなった山下諄(しゅん)くんの自宅を訪ねることにしました。
平日の夜でした。
私は自分の思いをまとめた手紙を持ち、もし不在だったら郵便受けに投函しようと考えながら自宅を訪ねました。
インターホンを鳴らすと諄くんの母親の康子さんが玄関口に出ました。
ゆっくりと扉を開ける康子さんの表情は暗く、私は一瞬、何と声をかけたらいいか分からなくなりました。
「なんでしょう」
康子さんはまっすぐ目を見ながら、淡々とした声で話します。
私は投函する必要が無くなった手紙を片手に、緊張しながら自分が記者であることを話しました。
そして事故のあと現場で取材を続けていること、諄くんが地域の人から愛される存在だったと聞いたことを伝えました。
その間、康子さんは目を見つめながら何度もうなずき、私が話し終えると「どうぞ」と言い自宅の中に招き入れてくれました。
事故以来、記者が訪ねてきたのは初めてだったそうです。
部屋のなかに入ると、明るく笑う諄くんの遺影と花がありました。
私はこのとき、初めて諄くんの顔を見ました。
名前は知っていて、地域の人からもたくさん話を聞いていました。
けれど、顔をみた瞬間に事故の痛ましさを一気に実感したのを覚えています。
笑顔がかわいい子だったんだ。私は遺影をみながらそう思っていました。
康子さんは私にこう言いました。
「今でも息子の死を受け入れられず、手を合わせることはできません」。
康子さんはぽつぽつと語り始めます。
居酒屋を経営している康子さんは、事故のあった日、始めたばかりのランチタイムの営業の準備をするために午前中から店に向かいました。
平日でしたが、当時は新型コロナウイルスの影響で学校は休校中。
諄くんは家にいました。
学校が休みで、ふだんよりゆっくり起きるようになっていたという諄くん。
昼ごろに家を出て、母親がいる居酒屋に向かうことが日課になっていました。
そこには諄くんの部屋があり、お昼寝をしたり、ゲームをしたりしていたといいます。
康子さんと一緒に近くのスーパーに買い出しに行くこともありました。
自宅から居酒屋までは徒歩で10分もかかりません。
2020年5月20日。
諄くんはその日も歩いて店に向かい、いつもの横断歩道を渡りました。
その瞬間、事故が起きたのです。
「ふだんから道を渡るときは必ず横断歩道を使うように言っていました。
片側の車が止まってくれても、反対側の車が止まってくれなかったら渡れないよって。
遠回りになっても横断歩道をわたろうと約束をしてたんです」
「その約束をきちんと守ってくれて、諄は手をあげて横断歩道を渡り、止まってくれた車には頭をさげていました。
一緒に渡っているときに私が手をあげていないと、『ママ、手をあげて』と言ってくるほど慎重な子だったんです」
諄くんの将来の夢は、父親と同じ料理人だったといいます。
康子さんは目を赤くし、涙を浮かべながら続けます。
「最後に諄と何を話したのかも分からないんです。前の日の夜に、『家の鍵を閉めて店にきてね』と言ったと思いますが、それが最後の会話になるなんて思っていないので、はっきり思い出すこともできません」
「今でも『遅くなってごめん』って家に帰ってきそうな気がするんです。あの日、事故が起きる10秒前に戻して欲しい」
なぜ、こんな事故が起きてしまったのか。
警察への取材から再現した当時の状況です。
当時、横断歩道付近には右折待ちの大型車が止まっていました。
諄くんが渡り始めて反対車線に出たところで、走ってきたダンプカーが直進。
諄くんをはねたのです。
徐行や一時停止をせず、時速およそ40キロで走行していました。
道路交通法第38条では車に対し、信号機のない横断歩道で渡る人がいれば一時停止をし、渡る人がいるかどうか分からなければ、すぐに止まれるよう速度を落とすことを義務づけています。
警察の調べに対して「横断歩道があることを知っていた」と供述していた運転手は、去年8月、過失運転致死の罪で起訴されました。
なぜ、横断歩道で?
そもそも、横断歩道に歩行者がいるとき、どれくらいの車が止まるのか。
疑問に思って調べてみると、驚くべき調査結果がありました。
JAF=日本自動車連盟が去年行った調査。
それによると全国で、信号機がない横断歩道で歩行者が渡ろうとした際に一時停止をした車は9434台のうち、2014台。21.3%にとどまっていました。
滋賀県では、さらに低く18.7%でした。
つまり10人中8人のドライバーは、歩行者が横断歩道にいても止まらないというのです。
去年11月に始まった運転手の裁判。
「なぜ横断歩道の前で止まらなかったのか」。
被告人質問で尋ねられると、運転手はこう答えました。
運転手
「交差点を直進していると、左の車線から原付バイクが走ってきた。その動きに気をとられていた。歩行者には気をつけていたつもりだったが、自分の見える範囲しか見えておらず注意が不足していた。人が出てこないだろうと思い込んでしまい、速度を落とさなかった」
そして、最後にこう話しました。
「もう二度と、1人でも事故のないようにしたいので車を運転するのをやめます」。
検察は、「何度も現場の道を通り横断歩道の存在も知っていたにもかかわらず、安全確認を怠り、徐行もしなかった」と指摘。
禁錮2年6か月を求刑しました。
被害者参加制度を使って裁判に立ち会っていた康子さん。
法廷でみずから意見陳述を行いました。
「私たち家族の気持ちや思い出を書くにあたり、文字にするのは非常に困難だったこと、書き始めるたびに涙があふれて、何か月もかかったこと。それを踏まえて聞いて欲しいです」
そう言うと一呼吸置き、準備していた紙を読み上げ始めました。
「私の朝は、『ママおはよう』という諄の一言から始まる毎日でした。
5月20日の朝は、寝ていた諄を置いて先に出勤したため、彼の『ママおはよう』は聞くことができませんでした。
あの日が最後だとわかっていたら、何が何でも寝ている彼を起こしたのにと、毎日思っています」
「諄が好きだった歌を耳にする時、好きだった食べ物を食べる時、同じくらいの小学生を見るとき、生きていたなら学校から帰宅するであろう時間。
毎日、毎時間のように思い出に触れ、そのたびに胸が詰まり、張り裂けそうになり、涙があふれてくるのです」
「私は、事故の次の日に一度だけその道路に行きました。
まだそこには、彼のぬくもりがある気がしたんです。
でもそこにあったのは、綺麗に掃除されたアスファルトにうっすら残った彼の血液だけでした。
私は手をついて、膝をついて、謝りました。
その横断歩道を渡るように言い聞かせていた私が悪かったんだと思えて仕方がなかったからです」
「『時がたてば少しは安らかな気持ちを取り戻せるようになるよ』と言ってくれる方もいます。
けれど、あと何年かかるのでしょう?
1日の間に何度も何度も諄に会いたくなるのに、思い出さない日が来るはずがありません」
「私たちはお金も謝罪も、安らかな1日もいりません。
かわいいかわいい諄ちゃんを返してほしいのです。今すぐにでも抱きしめたいのです。
『ママおはよう』と言ってもらえたら何もいらないのです」
傍聴席には、諄くんと同じくらいの年の子を持つ母親たちの姿もありました。
声を震わせ、何度も言葉を詰まらせながら話す康子さんの姿に、法廷では、すすり泣く声が続いていました。
それから3週間後。判決が言い渡されました。
禁錮2年6か月、執行猶予4年の判決でした。
康子さん
「判決には納得できず、この結果を息子に報告することはできません。私はいまも、この事故は防げたと信じています」
いま、事故現場の近くには諄くんを供養する地蔵が設置されています。
多くの人から寄せられた寄付金で制作され、中にはお小遣いから寄付をする小学生の子もいたそうです。
1つだけだと諄くんが寂しくなるのではないかと、ほほえみを浮かべる2つの地蔵が寄り添いあって立っています。
康子さんはある日、温かい表情でこう話しました。
「この道路の交通安全を守ってほしいなと願いを込めています。交通量が多いので、お地蔵さんの見守りも大変かもしれないですけど」。
地域を見守る地蔵に感謝を込め、康子さんは居酒屋に出勤するたびに頭をなでているといいます。
そして、現場の横断歩道。事故が起きた当時は白い舗装がかすれていましたが、事故をきっかけに補修されました。
判決から1か月経った3月11日、私はふたたび康子さんのもとを訪ねました。
康子さんは笑顔で私を迎えいれてくれました。
でも、事故の話になると様子は一変します。
「事故から10か月になりますが、私の気持ちは変わっていません。諄がいなくなったことを受け入れられず、毎日部屋にこもって過ごしています。
いまも1人で現場の近くに行けず、居酒屋に出勤するときはいつも夫と一緒です。
生きるための目標がずっと見つからないような気持ちです」
康子さんは大粒の涙を流しています。
裁判に区切りがついても、康子さんの気持ちは何も変わっていませんでした。
終わらない日常のなかで、苦しみ続けています。
「話すのもつらいなか、康子さんはどうして取材を受けてくれたんですか?」
私がそう尋ねると、康子さんは「もう二度と悲しい事故が起きて欲しくない。1つでも事故を減らすために私にできることをしようと思ったんです」と答えました。
この日、康子さんは居酒屋にある諄くんの部屋を見せてくれました。
厨房の奥にある縦長の空間に、座いすや机、テレビが置かれています。
テレビ台の上には、諄くんが家族と一緒に大阪の水族館に行ったとき、どうしても欲しくて買ってもらったジンベエザメのぬいぐるみがあります。
諄くんはそれを枕代わりにして、よく昼寝をしていたといいます。
5月20日も無事に横断歩道を渡りきっていたら、諄くんはいつものようにこの部屋で過ごしていたのかもしれない。そう思うと私は胸が痛くなりました。
康子さん
「諄にはやりたいこともいっぱいあったし、行きたいところもたくさんあったんです。コロナが落ち着いたら、自粛生活で我慢した分あちこちに遊びに行こうと約束してたんです。
『1回は行ってみたい』って言っていたディズニーランドへも行くことができなくなりました。楽しみにしていたことすべてを一瞬で奪われたのです」
康子さんは最後に、車を運転するすべてのドライバーに向けてこう訴えました。
「横断歩道の前でどうしても止まれないくらい、急がないといけないですか。信号が赤になりそうなとき、どうしてもスピードを早めないといけませんか。一時停止する間、信号を待つ間、時間にすれば1,2分です。
そのわずかな時間に交通ルールを守れば、人の命は守れるはずなんです。人を守るため、そして自分を守るためにも、少しの余裕をもって運転してほしいです」
大津放送局記者
松本弦 2018 年入局 警察担当を経て市政や学術・文化を担当。
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