その女性は、大学生になったばかりの一人息子を亡くしていました。
出会ったとき、私は、彼が通うはずだった大学の3年生。
高校でつまずいたことをきっかけに、生きる意味を問い続けていました。
今も、立ち止まるたびに私の背中を押してくれるのは、女性からかけられた「生きてこそよ」という言葉。
そして女性が始めた「生命(いのち)のメッセージ展」です。
(山口放送局記者 木原恵)
2021年7月30日事件 事故
その女性は、大学生になったばかりの一人息子を亡くしていました。
出会ったとき、私は、彼が通うはずだった大学の3年生。
高校でつまずいたことをきっかけに、生きる意味を問い続けていました。
今も、立ち止まるたびに私の背中を押してくれるのは、女性からかけられた「生きてこそよ」という言葉。
そして女性が始めた「生命(いのち)のメッセージ展」です。
(山口放送局記者 木原恵)
女性は、神奈川県座間市に住む鈴木共子さん、72歳です。
21年前の4月、一人息子の零さんを交通事故で亡くしました。
一緒に歩いていた友人も亡くなりました。
ドライバーは飲酒運転、以前起こした事故で免許も取り消されていました。
零さんは当時19歳。
一浪の末、早稲田大学に入学して8日後でした。
その5年前、共子さんは夫もがんで亡くしています。
造形作家として個展を開いたり子どもたちに絵画を教えたりして女手ひとつで零さんを育てていました。
事故の直後につづった詩です。
事故の2か月後、共子さんは署名活動を始めます。
当時、交通事故で人を死亡させた場合、刑罰は最も重くても懲役5年。
飲酒やスピードの出し過ぎなど悪質な交通違反があっても、適用される刑罰は業務上過失致死罪しかありませんでした。
共子さんはほかの遺族たちとともに37万人を超す署名を集め国に提出。
悪質な事故の厳罰化を求めました。
翌年、極めて悪質な交通違反による事故の最高刑を懲役20年に引き上げた危険運転致死傷罪ができました。
それでも、気持ちが晴れることはなかったといいます。
鈴木共子さん
「あの頃は、あまりにも刑罰が軽すぎるってものすごく怒ってましたから、怒りの矛先を全部向けていました。
怒らなければ生きていけないというギリギリのところでもありました。
でも、疲れていくんですよね。なんか違うな、私は表現することで訴えたいなって思ったんです」
共子さんが始めたのは、仕事でもある「アート」を通して訴えることでした。
白いパネルを零さんと同じ背丈に切り出し、写真を貼り、足元には生前履いていた靴を添えました。
署名活動などを通して知り合った遺族にも声をかけ、公の場で展示することを提案しました。
共子さん
「息子を生き返らせるって思ったんです。署名活動をすることでいろんな遺族の人に出会ったから、その人たちも全部生き返らせるって。
でも最初は『さらしものにするのはつらい』という方がほとんどでしたね」
2001年3月、初めて開いた展示会に参加したのは16人の被害者の遺族。
当時のNHKのニュースでは「こうした遺品の展示が公共の場で行われるのは初めてだ」と伝えていました。
この展示会を共子さんは「生命のメッセージ展」と名付けました。
白いパネルは命の大切さを伝える「メッセンジャー」と呼びます。
参加したいという遺族が次第に増えて、共子さんの生活は「生命のメッセージ展」を中心にまわっていくようになりました。
遺族が主催してそれぞれの地元で開いていたため、共子さんは何十ものメッセンジャーを自家用車に積んで各地に出かけました。
会場費も交通費もすべて遺族の自費。
少しでも費用を浮かせるため、遠方には夜行バスで行き来していました。
共子さん
「住んでいる団地の部屋がメッセンジャーでいっぱいになって、限界かなと思う時期もありました。経済的にも厳しかった」
それでも共子さんが立ち止まることはありませんでした。
並行して取り組んでいたのが大学受験です。
キャンパスにほとんど通うことができないまま命を奪われた息子に代わって学生生活を送りたいと、共子さんは50歳を過ぎて受験勉強。
3度目の挑戦で合格して早稲田に入学したのです。
大学で、共子さんにはどうしてもやりたいことがありました。
それが「メッセンジャー」となった息子・零さんをもう一度早稲田に連れて来ること。
学内で「生命のメッセージ展」を開くことでした。
共子さん
「早稲田に行ったときはもう、つらくてつらくて。
自分の子どもは亡くなってしまったのに、同世代の若い子たちが元気にしてるわけじゃないですか。
生きてるって当たり前じゃないってことを伝えたかったですね。
だから今このときを大事にして欲しい、真摯に生きろよって」
私が共子さんと出会ったのは、その開催に向けた準備が始まるときでした。
零さんと私は同い年。
育ったのも同じ神奈川県ということもあり、親近感を抱きました。
大学での「生命のメッセージ展」は初めて学生たちが中心になって開くことになり、私も実行委員になりました。
友人に誘われたからで、強い思いがあって入ったわけではありません。
ただ、私は高校生のとき教員から心ない言葉をかけられたことがきっかけで学校に通えなくなり、生きることの意味がわからなくなった経験があります。
生きること、死ぬことは、ずっと頭から離れない問題でした。
開催に向けた準備の過程で学生どうしや遺族を交えて「命」について何度も話し合いました。
自分の中でずっと考えていたことですが、人と真剣に話すのは初めてでした。
進路を決める時期だった私は、取材に来ていた記者との出会いもあってこの仕事を選びました。
最初の担当は警察取材。
夜討ち朝駆けの毎日で、やっていることの意味が見いだせず、やめたいとばかり思っていました。
職場での人間関係のこじれなどが原因でうつ状態になり、休職した時期もあります。
私自身の視野の狭さやこだわりの強さも要因だと医師から指摘され、毎日、リハビリに通い服薬と考え方の幅を広げる練習をして、復職しました。
そんなときに会いたくなったのは共子さんたち遺族でした。
なぜなのかを説明するのは難しいのですが、生きること死ぬことについて一緒に考え抜いた共子さんたちといると、私のことを受け入れてくれているという安心感がありました。
あるとき、近況を聞かれて「つらいことがある」と漏らすと、共子さんはじっと私の目を見て言いました。
「生きてこそよ」
その声が、今も耳に残っています。
その後、「メッセンジャー」は149人になりました。
これほど多くの人が加わったのはなぜなのか。
2回目の会から参加している山口県防府市の京井和子さんに話を伺うことにしました。
娘の佳奈さんが4歳のときに飲酒運転の車にはねられて亡くなりました。
メッセンジャーの高さは佳奈さんの当時の身長と同じ、1メートル3センチ。
大好きでよく履いていた「キティちゃん」のピンク色の靴が添えられています。
京井和子さん
「お気に入りの靴を履いて、娘は旅をしていると思っているんです。
4歳というあまりにも短い時間で閉ざされてしまったので、メッセージ展に参加することでいろんな方に会っていろんな場所に行ければなって」
共子さんとの出会いが、支えになっているといいます。
京井さん
「私の娘のことがあった当時は近くに相談できるところもなく、図書館で見つけた本に全国交通事故遺族の会のことが書いてあって、電話をして初めて自分の気持ちを話すことができ、裁判の仕方などを教えてもらいました。
そこで鈴木共子さんにも出会ったんです」
京井さんはもともと建築士でした。
自分の家を設計し建設しているとき、工事に来ていた大工の車に佳奈さんはひかれたのです。
以来、設計の仕事をやめました。
京井さん
「家を建てる時ってみんな家族のために建てようとするじゃないですか。そんな新しい門出に携わるのはご迷惑かと思ったんです」
京井さんは山口県内で被害者の支援活動を行うようになりました。
今ではグリーフサポート(喪失体験に伴うさまざまな感情を受け止め支え合う)を行う団体の代表や防府市の市民活動支援センターのセンター長を務めています。
京井さん
「私のように旅をさせているという人もいれば、メッセージ展に就職させているという人もいます。
参加者全員が家族という感覚です。
共子さんとの出会いは私にとって本当に救いだったし、事故直後、メッセージ展に行くのは生きていくためでした」
「生命のメッセージ展」との関わりで、人生が一変した人もいます。
当時24歳だった弟・佐藤隆陸さんを亡くした赤田ちづるさん(46)。
母親の活動に付き添って「生命のメッセージ展」の会場に足を運んでいました。
赤田ちづるさん
「母親がメッセージ展に参加するために小学生や中学生のきょうだいが、学校を休んでついてきていたりするんですけど、全く当事者として扱われていないというか、きょうだいの存在が忘れられてるんですよね。
この活動自体はすばらしいことだけど、メッセンジャーにお母さんをとられている、ずっと亡くなった子のために母親は生きていて、自分を見てくれないというさみしさを、きょうだいたちは抱えていて。犠牲じゃないですけど、周りに影響を与えながら成り立っている活動でもあるって思ったんです」
赤田さんはすでに結婚して2人の子どもがいましたが、自分の気持ちを押し殺していたのは同じだったと言います。
赤田さん
「私も弟の事故の日から、会う人会う人に『あなたがしっかりして支えないと、お母さん死んじゃうよ』って言われて。
自分も悲しいということは誰にも言えなかったし、親に生きてもらうことを自分の責任のように感じていました」
赤田さんは出産を機に、それまで勤めていた航空会社をやめ専業主婦になっていましたが、38歳で大学に入り直します。
遺族、とくにきょうだいへの支援の必要性について研究するためでした。
「あなたがお母さんを支えなさい」ではなく、「あなたも悲しいよね」と言って欲しい。
大学院も修了し、ことしの春からは関西学院大学の研究員になるとともに、学内に開設された「悲嘆と死別の研究センター」の立ち上げにも関わり、遺族支援やグリーフケアを行う人材養成に取り組んでいます。
そして、毎年、大学の中で学生たちと一緒に「生命のメッセージ展」を開いています。
きょうだいとして複雑な思いを抱えてきた「生命のメッセージ展」に関わり続けるのはなぜなのか。
赤田さん
「やっぱりあの状態の母がここまで命をつなぐことができたのは、メッセージ展の力だったなって思ってるんです。その感謝ですね。
大学のなかにひとつの拠点をつくることでずっと続いていくようにしたいと思っています」
2009年、共子さんは仲間たちとともにNPO法人を立ち上げ、財団からの助成金を受けるようになりました。
常設展を開く場所、「いのちのミュージアム」を東京・日野市に開設。
行政や企業、そして「生命のメッセージ展」を見た第三者など遺族以外が主催する形でも広がっていきました。
コロナ禍の去年からは規模を縮小したうえで、学校など一般公開しない場所に限って開催を続けています。
ことしは46か所で開かれることが決まっていますが、そのうちの21か所は刑務所と少年院の中です。
犯罪被害者の視点を取り入れた教育の一環として、2013年から法務省と提携し全国の刑務所や少年院を巡回しているのです。
刑務所や少年院で開催することは共子さんの希望でもありましたが、参加遺族の間では抵抗感もあったといいます。
共子さん
「被害者にとって加害者の存在は受け入れがたいものです。そうした人たちがいるところに大切な人を連れて行く、抵抗があって当然かなと思います。
でもそのとき、みんなで話し合ったんですね。私たちの活動の目的は何なんだと。
命が守られる社会に少しでも近づけたい。だったら再発防止はとても大事なことなんじゃないかと」
「生命のメッセージ展」が始まって、ことしで20年。
私は今も機会があれば足を運んでいます。
「メッセンジャー」と対面すると最近は、「生きている、それだけでいいんだよ」という声が聞こえてくるような気がします。
うまく生きることができない自分への励ましの言葉だと思っています。
共子さんはこの20年をどう思っているのか。
共子さん
「息子を亡くして、この活動があったから私は生きてこられたのかなって。
無駄死にではなかった、意味があった。そう物語を作ることができたという意味で生きやすくなったのかもしれません。
そして、誰も被害者になって欲しくない。そうした社会に近づけるための種まき活動だと思ってるんです。
私たちはとにかく種をまきつづけ、その種の番人をしましょうという気持ちです」
「メッセンジャー」たちの“背中”にはこの春、家族からの手紙が貼られるようになりました。
コロナ禍で遺族が会場に出向いて設営に立ち会うことができなくなったため「家族の介在なしに見学者と出会うことになるメッセンジャーたちを応援したい」と共子さんが考えました。
共子さんから息子・零さんへー。
『今日までお母さんが生きてこられたのは 君が支えてくれたからです。ありがとう 零くん』
『もう少し お母さんがんばるから お母さんも メッセンジャーとなってがんばっている君を応援するからね』
山口放送局記者
木原恵 2006年入局
福島局、静岡局、松山局を経て
現在は山口・萩支局で地域の話題を幅広く取材
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2024年2月1日