2022年10月21日
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“ほら穴”から頂点へ 中国・習近平氏の人間像

「習近平時代は30年続くかもしれない」。

14億人のトップの総書記として、異例の3期目に突入するとされる中国の習近平氏。専門家は、長期にわたって隣国中国を導いていく可能性を指摘しています。

そもそも習近平氏は、どのような性格なのか。
どうやって国のトップに上り詰めることができたのか。
そして、なぜ台湾統一に意欲を燃やしているのか。

人間、習近平に迫ります。

(以下、中国共産党の組織や習近平氏を研究する愛知県立大学鈴木隆准教授の話です)

習近平氏はどのような子どもだったのか?

幼いころの習近平は、不自由のない暮らしを送っていたと思われます。

習近平は共産党の高級幹部、いわば「名門」の家庭に生まれます。1949年の建国後、父親の習仲勲は、毛沢東に呼ばれて首都の北京に住居を移し、中国政府の要職につきました。
そして数年後、長男として生まれたのが習近平でした。

習近平氏(左)と父親の習仲勲氏(右)(1958年)

習近平の名前は、首都の北京と関係があります。北京は、1949年までは「北平」と呼ばれていたので「北京の近く」という意味で「近平」と名付けられたという説があります。ちなみに、習近平の弟は「遠平」です。

ノミやシラミに悩んだ“ほら穴”ぐらし

苦労知らずの少年だった?

いいえ。習近平の人生は、その後、暗転します。父親の失脚が原因です。

文化大革命(1966~1976年。以下、文革)が始まる前、父親の習仲勲は、政治的に問題があると批判された出版物へのかかわりを理由に、毛沢東から怒りを買い、失脚させられました。

その後、長期間にわたって軟禁されたり、拘束されたりしました。文革の時期には、中学生であった習近平も、周囲の人々につるし上げられたり、肉体的に虐待されたりもしました。

文革中、都会の青年たちを農村に送って労働させようという「下放」運動が始まると、習近平も北西部、陝西省の貧しい農村に行き、20代前半まで、農業をしながら過ごしました。

習近平が暮らしていた地区のヤオトンと呼ばれる住居

当時、習近平が住んでいたのは、ヤオトンと呼ばれる崖の岩肌に穴を掘ったほら穴のような場所です。

後年、習近平は農村ではノミやシラミに悩まされ、食事にも困るほど貧しく、不便な暮らしだったと振り返っています。過酷な体験が人間性や社会を見る目を養ったとも話しています。

「ほら穴」のような場所から、どうやって共産党の出世コースにのったの?

農村で暮らしていた頃の習近平氏

習近平の父親は、文革が終わり、70年代後半に名誉を回復し、80年代には要職に復帰します。これ以後、習近平は陰に陽に父親の支援を受けながら、出世の階段をのぼっていきました。

ただし、習近平自身も地元の人たちからの人望もそれなりにあり、政治家としての魅力、能力がなかったわけではないと思います。

当時の中国では、政治家の父親が失脚したら、その子どもは共産党員や行政幹部になれないのが普通でした。しかし、習近平は、農村にいた頃に、数回の入党拒絶を受けながらも、最終的には認められ、共産党員になります。習近平のがんばりを、周囲の人々も認めていたということでしょう。

その後、習近平は、北京にある名門の清華大学を卒業し、国防相の秘書になります。つまり、いったんは軍人になったのです。

ただその後、地方の末端の党・政府組織で働きたいと願い出ました。河北省正定県という農村地域に異動し、県党委員会書記(県のトップ)として、党官僚としての第一歩を踏み出します。

政界で生き残った“自由民主主義への慎重な態度”

そこから、最高指導部までの道のりは?

ひとつのポイントが、鄧小平が進めた「改革開放の最前線」で仕事をしたことでしょう。

鄧小平氏(1981年)

正定県の勤務の後、習近平は福建省アモイ市の経済担当の副市長職に就きました。1980年代のアモイは、数少ない経済特区の1つとして、改革開放を積極的に進めていました。

習近平は、国内外の地方政府や企業との経済協力の推進役を担いました。海外使節団の接遇などで、日中国交正常化の日本側の立役者の1人である岡崎嘉平太にも会っています。

当時、おそらくアモイの比較的進取で自由な雰囲気のなか、自由化や民主化に関わる改革論議に触れ、そうしたものに内心はシンパシーを感じていたかもしれません。しかし、そこでも慎重な姿勢を崩さず、自由民主主義に共感を示すような公の発言は、現在まで資料として確認できません。この慎重な態度こそ、習近平が中国政界で生き残ることができた理由の1つだと思います。

台湾統一という悲願の原点

アモイ時代にもう1つ重要なのは、台湾との出会いです。

台湾当局が実効支配する金門島は、アモイからわずか数キロ。習近平はその後も長く福建省で勤務しますが、この福建時代に、漁民保護など台湾と関わる機会が多くあったはずです。否応なく台湾というものを強く意識するようになったと思います。

2000年前後の福建省長時代には、「台湾と中国は別の存在」という趣旨の発言をした李登輝や陳水扁(いずれも台湾の総統を務めた人物)を強く非難しています。

習近平は「台湾との最前線」に位置する福建省の地で、地方指導者時代から台湾の独立を強く警戒していたのです。こうしたいきさつを見ると、習近平が台湾独立の動きを非難し、将来的に中国に統一されるべきだと考えていることは間違いありません。

“反腐敗”の始まりは貧困地域

1980年代後半、習近平は同じ福建省の寧徳という貧困農村地域に異動します。
この当時、天安門事件が発生しましたが、農村にいたことで、政局のゴタゴタに巻き込まれずにすみました。
政治家は運が大事です。習近平も人生のなかでいくつかの幸運にめぐまれましたが、寧徳への転勤は結果的にみれば幸運でした。

天安門広場を埋め尽くした人々(1989年5月)

また、寧徳での勤務をきっかけに、保守的な政治姿勢を強め、庶民や知識人には「言論の自由はダメ」、党の役人には「腐敗はダメ」というように、厳格な言論・思想統制と反腐敗・綱紀粛正など、自身の基本的な統治や指導スタイルを確立していきました。

党の機関紙で功績伝えられ、中央政治へ

例えば、当時の寧徳では、公共財産である土地や建物を、役人たちが私的に利用するなどの不正行為がまん延していました。習近平はこれを厳しく取り締まり、不正を行っている幹部らを摘発しました。こうした活動は党の機関紙などで報道され、習近平の名前は、北京の中央政界でも徐々に知られるようになったのです。

その後、福建省、浙江省、上海市と着実に出世の階段を歩みました。2007年には、最高指導部メンバーである政治局常務委員となり、胡錦濤指導部の一員として中央政界入りを果たしました。

胡錦涛指導部で後列に立つ習近平氏(2008年3月)

習氏の政治師匠は毛沢東 鄧小平には冷淡?

習氏が目指す政治家像は?尊敬している人物は?

習近平は、毛沢東を政治の師として尊敬しています。習近平は現在も、政治のさまざまな面で毛沢東を持ち上げています。

一方、鄧小平への評価や鄧が残した政治的遺産に対しては、いくらか冷淡にみえる対応をしています。父親の習仲勲は、胡耀邦総書記の時期に党の要職に就きました。

しかし、1985年に胡耀邦が鄧小平によって失脚させられると、習仲勲も冷遇され、晩年は不遇な立場に置かれたという経緯があります。鄧小平に対して個人的な遺恨を抱えているのかもしれません。

妻は“中国の美空ひばり” 結婚当初から超多忙な夫婦

習氏の家族についての情報は?

習近平の母親も、やはり中国共産党の幹部でした。ただ、家族については、国家の最高機密に属するもので、公式情報は非常に少ないです。

習近平の妻の彭麗媛は、日本で言えば、美空ひばりさんのような国民的な歌手です。彭氏は人民解放軍に所属する歌手で、アモイ時代に、友人の紹介で知り合い、結婚したということです。ただ、当時は妻のほうが圧倒的に有名人でした。

彭麗媛は超売れっ子の歌手で、さらに、習近平も政治家として多忙な日々。習近平が政治局常務委員として北京で勤務するまで、2人が一緒に過ごせた時間は少なかっただろうと想像します。

2人の間には、一人娘がいることが知られていますが、詳しい情報はありません。

“共産党体制の優等生でありつづけたい”

そもそも、習氏はどのような性格?

ひと言で表現するなら「優等生を目指し続ける男」でしょうか。

習近平は、毛沢東や鄧小平などと違い、1949年の中華人民共和国の建国以降に生まれた初めての指導者です。今の体制の中で生まれ育った、いわば「共産党体制の申し子」です。

習近平は、先人たちが築いてきた共産党の支配体制を受け継ぎ、次の世代に引き継ぐ義務と責任を強く意識しています。習近平はみずからの演説のなかで「バトンリレーを立派にやり遂げる」といった言葉を繰り返し述べています。

中国は21世紀の半ばまでにアメリカを追い抜き、世界一流の国家になるという、毛沢東以来の歴代指導者から受け継いできた目標を是が非でも達成したい、ましてや共産党の支配体制が変質したり、なくなったりするなんてとんでもない、そう考えています。

背景にコンプレックスか 博士論文執筆は誰?

この「優等生志向」の裏には、強いコンプレックスがあるように思います。習近平の青年時代は、文革時期に当たり、多くの青年たちは十分な教育を受けられませんでした。このことが、改革開放以降、学歴重視の傾向が強まるなかで、習近平にコンプレックスを抱かせる原因になったと思います。

そのため、習近平のように、文革中に青春時代を過ごした「失われた世代」に属する中堅幹部の間では、実務のかたわら、大学の修士号や博士号を取得することが流行しました。習近平も北京の名門・清華大学で博士号を取得しています。

しかし、実務に忙しい官僚政治家たちが、実際にどの程度自力で学問を修めたのか、例えば、他人の手を借りずに自分自身で博士論文を執筆したのかについては、疑問を持つ人も多いようです。

権威を求める“明文化マニア”

習近平は、「肩書や明文化にこだわるマニア」でもあります。

まだ毛沢東や鄧小平のように、誰もが認める大きな政治実績がないため、自分の権限・権力・権威を明文化することに熱心なのです。習近平の名前の入った思想を党規約に入れたことも、その表れといえるでしょう。

また、習氏は、軍のトップである「中央軍事委員会主席」のポストについていますが、2017年の党大会では、党規約を改正して、「中央軍事委員会主席責任制」という文言を明記しました。それまでは、憲法には書かれていましたが、党規約には書かれていませんでした。

さらに、今回の20回党大会初日の政治報告のなかで「中央軍事委員会主席責任制の体制メカニズムを改善し、貫徹させる」という一文が記されています。こうした言葉は、毛沢東や鄧小平の時代には明記されていませんでした。彼らは圧倒的な存在感を持つ指導者であったため、わざわざ記す必要がなかったのでしょう。これに対して習近平は、自分の権力や権威を明文化しなければ気が済まない人なのです。

政敵を打倒 背景に強い人間不信か

習近平が党総書記に就任する以前、習近平と面識のあった人々は、みな異口同音に「おだやかな性格」「敵を作らない人」といった印象を述べています。当時は、「すぐれた実績や政治手腕というよりも、敵が少ないがゆえにトップになれたのだ」という評価も聞かれました。

しかし、いざフタを開けてみれば、トップとして、腐敗追及キャンペーンをテコに、激しい権力闘争を行い、政敵を次々に打倒していきました。民主化や自由化を求める社会の声も、力で抑え込んでいます。

地方指導者時代の穏やかな人物像と、国のトップとして君臨するこわもてのイメージは、十分に結びつきません。推測の範囲を出ませんが、おそらくこの背景には、習近平の強い人間不信があるように思います。

習近平は若い多感な時期に、文革を経験し、父親が失脚したり、自分も迫害を受けたり、きわめてつらい体験をしました。こうした経験から、ごく近しい間柄の人しか信用できない傾向が強まったのではないでしょうか。

実際に、習近平が要職に引き上げている多くの者は、青少年期からの友人や地方指導者時代からの子飼いの部下たちです。極めて狭い人間サークルを中心に政治が動いているように思います。

習近平時代は30年間か

今後、習近平の時代はいつまで続く?

2012年に習近平はトップになりましたが、「習近平時代」は、2010年代、20年代、30年代にかけておよそ30年間続くと思います。

中国の政治史は、だいたい、30年のサイクルで考えることができます。

1949年から毛沢東が死去した1976年は、毛沢東の個人独裁の時代。

その後、権力闘争の短い期間を経て、1978年から2009年は「広い意味での鄧小平時代」。この時代には、鄧小平が自分の後継に指名した江沢民と胡錦濤の2人も含みます。

その後、ふたたび権力闘争などの空白期間を挟み、習近平が総書記に就任した2012年以降が習近平時代です。

いま、「新時代」を標榜する習近平が政権の表看板の1つに掲げているのが、「共同富裕」というスローガンです。鄧小平時代に生み出された巨大な格差や機会の不平等を少しずつ是正し、みんなで豊かになりましょうということです。「新時代」という言葉も、習近平という自分の時代をスタートさせるという宣言なのだと思います。

「共同富裕」という言葉も、習近平が引退したあともその後継者によって継承されていくのではないでしょうか。習近平は、できるかぎり自分自身の統治の長期化を図りつつ、政策や方針を維持してくれる後継候補を育てていくと思います。自分のバトンを受け継ぐにふさわしい人物を中長期的に育成するのが今後の課題となるでしょう。

いいかえると、私たちは、習近平その人が指導者の地位から退いたあとも、習近平路線を受け継ぐであろう指導者もあわせて「広い意味での習近平時代」と向き合っていかなければなりません。

もちろん、習近平時代が、毛沢東時代や鄧小平時代と同じく30年間続くかはわかりません。しかし、歴史をみれば、そのように考えるほうが無難です。長期的に中国とつき合っていかざるをえないのであれば、そうした自覚と覚悟をしておいたほうが良いと思います。

愛知県立大学 鈴木隆准教授

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