「世の中はひどい。それに同化するな」
今年7月に日本で公開された映画「星くずの片隅で」の中の台詞です。
制作したのは香港の映画監督ラム・サムさん(38歳)。
表現の自由が急速に狭まる香港でも公開され数々の賞を受賞し注目を集めるラム・サム監督に、作品に込めた思いを聞きました。
(おはよう日本 井上二郎キャスター / 首都圏局 蓮見那木子ディレクター)
香港の映画界で最も注目される若手監督
「こんにちは!」
柔らかな笑みを浮かべ、何度もお辞儀をしながら部屋に入ってきたラム監督。
「逆境と闘う迫力を身にまとって登場」…と勝手に予想していたのとは正反対の、拍子抜けするほどの物腰の柔らかさでした。
ラム監督は38歳。世界で活躍する俳優や監督を輩出してきた香港演芸学院で映画制作を学んだあと、短編映画制作などで経験を積みました。
注目されたきっかけは、2021年に共同制作した前作、「少年たちの時代革命」です。
2019年に香港で続いた大規模な抗議活動を舞台にしたこの作品では、実際にデモに参加していた若者たちも多く出演し、彼らの苦悩や絶望をリアルに表現しました。
日本やイギリスなど海外でも上映され、高い評価を得ています。
ラム監督
「『少年たちの時代革命』を制作していた時は、まだ抗議活動が続いている最中で、映画で当時の社会状況に答えたいと思っていました。
毎日新たな衝撃がありましたから、前向きなメッセージを伝えて頑張り続けてもらいたいと思っていました。
みんなで頑張り続け、助け合うことが大切だという気持ちを伝えたかったのです」
香港では上映できない
しかし、映画「少年たちの時代革命」は、今も香港では上映できません。
制作中だった2020年6月、香港では反政府的な動きを取り締まる「香港国家安全維持法」が施行されました。
何が「国家の安全に危害を加える」とされ、どんな行為が「法律に違反している」とされるのかは当局の判断しだいです。
法律施行にともなって映画界では検閲が厳しくなり、「国家の安全に危害を加える」とされた内容や表現は厳しい取り締まりを受けるようになりました。
法律違反に問われるリスクを避けるためには、香港での上映を断念するしかありませんでした。
この状況について「表現者としてどう思いますか?」と率直に聞いてみました。
するとそれまでの笑顔が消え、言葉を選びながら語り始めました。
ラム監督
「法律の施行で、香港で映画などの創作活動をする人にとって、今は試練の時です。
どんなテーマなら許されて、どんなテーマはダメなのか、その線引きは分かりません。
もしかすると最終的に逮捕されてしまうのではないか、といった恐怖がつきまといます」
実際、香港では政府に反対する立場の民主派の活動家や政治家が『法律違反』とされて相次いで逮捕されました。
さらに抗議活動を明確に支持していた「リンゴ日報」などの新聞の編集者も逮捕され、新聞の発行停止に追い込まれました。
反対の声は抑え込まれ、表現の自由が急速に狭まっていきました。
「それでも…」
ラム監督は力を込めてこう続けました。
ラム監督
「わたしを含む多くの香港の映画人はまだ信念を持っています。
こんな困難な時代において、真の映画を撮ることがより必要になると思っています。
今の香港はまだ最悪の状態ではないと思っていますよ。試みができるような空間がまだあるのです。
限られた環境の中でも自分の一番やりたいことを考える。あるいは別の方法を使ってメッセージを伝える。これは自分が今、試していることです」
コロナ禍の香港を描いた新作映画
「香港映画に残された空間」
その言葉を体現するかのような作品が、新作映画「星くずの片隅で」です。
物語の舞台は、低所得者が多く暮らす香港の下町。
清掃会社を営む主人公の男性が、職を失い万引きなどに手を染めていたシングルマザーを雇い入れるところから始まります。
コロナ禍で多くの人が失業し、子どもたちは学校に行くことができずに閉じこもって、閉そく感が長く続いた香港社会。
映画の登場人物たちも困窮した生活の中で、支え合いながら前向きに生きていこうともがき続けます。
ラム監督
「私自身も香港社会の底辺で育ち、そこで生きる人たちとの接触が多くありました。
彼らのような生活の中で困難に直面した人々の生命力に強く心を引きつけられます。
この数年、香港では政治環境や社会が大きく変化し、重苦しい雰囲気が漂っていました。だからこそ、映画を通じて香港の人々を励まそうと思ったのです」
映画「星くずの片隅で」は香港での検閲を通過し、去年、映画館で上映されました。
コロナ禍による影響が続く中で大きな話題を呼び、数々の賞を受賞しました。
画面ににじませた思い
コロナ禍を背景に描かれた作品ですが、実は香港の人たちへの別のメッセージが透けて見えます。
そのひとつが、清掃会社で働く主人公たちがコロナウイルスの感染対策で消毒作業にあたるシーンです。
身につけているのは、黒い服にガスマスク。
スプレーから消毒液が噴射されると、あたり一面に真っ白い煙が立ちこめます。
ラム監督
「民主化運動の時に見た景色や人々の姿を映画に取り入れました。
防護服、防護マスク、消毒液など参加者の格好や持っていた物を参考にしたのです。
スプレーが噴射される様子などを見ると、香港の人たちは民主化運動を連想するはずです。
ストレートにものを言うことができなくなったからこそ、より創意工夫すること、自分の伝えたい考えをちゃんと伝えることを意識するようになりました」
強い思いが込められた台詞
物語の中盤、マスク1枚すら調達できず苦労するシングルマザーが、掃除の仕事で訪問した豪邸で子ども用マスクの箱が山積みになっているのを目の当たりにし、盗んでしまいます。
「世の中はひどい。それに同化するな」
そのことを知った主人公が、シングルマザーにかけた言葉です。
ラム監督
「これは香港の人たちに向けたメッセージです。
香港では政治の状況が変わり、生活環境も大きく変わりました。いつまでも良い人のままで生きる、もしくはいつまでも悪い人のままで生きるという人間はいないでしょう。
何らかの大きな変化に直面したときに、自分が何を選択するかが問われます。
どんなに不条理な時代であっても、これまで信じてきた価値観を持ち続けることが大切なのです。
私たちは社会全体を変えることはできません。映画の主人公だって、生活しなければならない、生き残らなければならない、と懸命です。
そんな中でも、あなたは一人ではない、みんな同じ考えだと伝えたかったのです」
届いたメッセージ
上映が始まった東京の映画館には、連日多くの香港の人たちも訪れていました。
映画を見た香港出身の男性
「民主化運動を直接描いてないけど、民主化運動が頭の中によみがえります。
私たち一人一人はちっぽけかもしれないけど、頑張るしかないというメッセージが伝わってきました」
映画を見た香港出身の留学生
「監督はさまざまなところにメッセージを込めていると感じました。
どんなに状況が悪くなっても道はある、香港の人たちは不屈の精神をもっていると励まされました」
香港では、創作活動に対する制限は増す一方で、この数年、ラムさんのように香港社会をテーマにした映画が次々に作られています。
映画には社会を変える力があるのか。
最後にこうたずねると、穏やかな表情のまま、まっすぐ前を見つめて答えました。
ラム監督
「『少年たちの時代革命』と『星くずの片隅で』を作ったあと、いろいろな観客と接する機会が増えました。
多くの国へ行って海外の観客と交流して、その反応を聞くと、とても感動します。
心のこもったストーリーであれば、言葉も出身地も違う観客にもメッセージが伝わる。それは映画のとても大きな力だと思います。
映画は人間のストーリーを描くことができます。その物語は人を感動させ、人々が変わっていくかもしれません。
それが広がっていけば、もしかして社会を変えることができるかもしれません」
インタビューを終えて
「実は私は悲観論者。決して未来を楽観していない」というラム監督。
だからこそ、あきらめずにどんな手段でも表現し続けることが大切なのだと教えてくれました。
「一見自由な日本も、物言えぬ息苦しさがある気がするが、どう生きるべきか」と尋ねると、ラム監督は「いきなり社会のことを考えるよりも自分がどう生きたいのか、心に忠実になろうとすること。自分を尊重してあげることだと思います」と語りました。
自分と向き合い、自分の声に忠実に生きる人が増えれば、少しずつ社会は変わってくる。
そんなラム監督からのメッセージでもある「世の中はひどい。それに同化するな」という台詞。
悲観的な現実の中にも、小さな希望は見つかるのだという、願いにも似た思いが託されていると感じました。
「今の香港を伝え続ける」
笑顔の裏にある強い決意と覚悟を感じたインタビューでした。