
フランスのパリを拠点に活動した歌手で俳優のジェーン・バーキンさん(享年76)。モデルとしても活躍し、ファッション界に影響を与えました。
高級ブランド・エルメスのバッグ「バーキン」の名前の由来になった人物として、ご存じの方も多いかもしれません。
そんなジェーン・バーキンさん、実は大の親日家。特に、東日本大震災のあとは何度も日本を訪れ、支援を続けてきました。
彼女が日本に寄せた思いとは。生前の本人の言葉や、関わりのあった人たちへのインタビューから探ります。
(World News部記者 古山彰子)
※記事内のジェーン・バーキンさんのインタビュー内容は、2021年3月に行った時のものです。
飾らない気さくな女性
「私のことは、ジェーンと呼んで」
2021年3月、初めてジェーン・バーキンさん(以下、ジェーンさん)とパリで会った時、彼女はすぐに、自分のことをファーストネームで呼ぶよう言ってくれました。

インタビューの間も屈託のない笑顔を浮かべ、柔らかな物腰で質問に答えてくれたジェーンさん。
フランスでは知らない人がいないほどの大スターであることをうっかり忘れてしまいそうなくらい、良い意味で「普通の人」に感じられました。
当時の私は、パリの特派員。ジェーンさんはインタビューの後、雑談をする中で、私の暮らす場所が自分の家の近くだと知ると「日本食レストランならここ」、「緑茶を買うならここがいい」、「あの通りにある日本のお菓子、とてもおいしいのよ」と、自分のスマートフォンを私に見せながら次々に教えてくれました。

この時は東日本大震災から10年の節目にあわせ、ジェーンさんに被災地の支援を続ける理由などを聞きましたが、雑談も含めた彼女の言葉や姿勢からは、日本への並々ならぬ思いを感じました。
歌手、俳優、そしてファッション・アイコン
ジェーンさんは、1946年、イギリスのロンドンに生まれました。
10代のころから数々の映画に出演し、1967年には出演した作品「欲望」(ミケランジェロ・アントニオーニ監督)が、世界3大映画祭のカンヌ映画祭で、当時の最高賞を受賞しました。
20代でフランスに渡り、出演した映画「スローガン」(ピエール・グランブラ監督、1969年)で、のちにパートナーとなる、シンガーソングライターや俳優などでマルチに活躍したセルジュ・ゲンズブールさんと共演します。

ゲンズブールさんとのデュエット曲「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」は官能的な歌詞で物議を醸し、放送を禁止する国もあったといいます。
また、飾らない自然なスタイルが注目を集め、ファッション界にも影響を与えるようになりました。
フランスでの人気はかなりのもので、ジェーンさんの訃報が伝えられた直後、フランスのマクロン大統領はSNSで「ジェーン・バーキンは自由を体現し、私たちの言語(フランス語)で最も美しい言葉を歌った」としたうえで、イギリス出身のジェーンさんのことを「フレンチアイコンだった」と称えたほどです。
また、訃報が伝えられたその日、フランスのラジオはジェーンさんの死を悼むように、ヒット曲を繰り返し流していました。
そんなジェーンさんは24歳の時、出演した映画「ガラスの墓標」(ピエール・コラルニック監督、1970年)の宣伝のため、共演したゲンズブールさんと来日。

当時、ジェーンさんはゲンズブールさんとの子どもを身ごもっていて妊娠7か月。大きなお腹で飛行機のタラップを降りる姿は、当時の日本で話題になりました。
「日本に到着して飛行機を降りてくる時、私が妊娠しているなんて、日本人は想像していませんでした。そのころ、日本で聴かれていた私の歌といえば、非常に官能的な『ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ』ばかりでしたから、大きなお腹の私が登場して面白がられたんです」(ジェーンさん)
ジェーンさんと日本
女優、歌手、そしてファッション・アイコンとして、日本でも大きな注目を浴びたジェーンさん。
来日直後に発売された映画雑誌では表紙を飾り、パートナーのゲンズブールさんと仲睦まじく東京で過ごす様子は、特集記事になりました。

そして、ジェーンさんはその時の滞在をきっかけに日本に興味を抱くようになったといいます。
「お寺を訪れた時、子どもたちが私の金髪に触ろうと駆け寄ってきたんです。とてもかわいらしかった。お茶屋さんというものも、その時初めて知りました。とてもエキゾチックで、興奮しました。でも、一番印象に残ったのは『日本人』そのものです。私たちとは異なるメンタリティーを持っていて、強く惹かれました」(ジェーンさん)
その後も、数十年の間にコンサートなどで度々日本を訪れたジェーンさん。
その彼女が64歳の時、パリでテレビを通して目にしたのが、2011年3月11日に起きた東日本大震災でした。
居ても立っても居られなくなったというジェーンさんは、すぐに航空券を予約し、震災翌月の4月には日本を訪れていました。

当時、原発事故による影響を恐れ、多くの外国人が次々と日本を離れる中での来日でした。
「たくさんの食べ物を荷物に詰め込んで、日本に向かいました。もしかしたら、食べるものすらない人と出会うかもしれないと思ったから。東京に向かう飛行機の中はほとんど空っぽでした」(ジェーンさん)
日本のために、路上でアカペラ
単身、東京を訪れたジェーンさんは、自身の呼びかけに賛同した日本のアーティストとともに、チャリティーコンサートを開催。滞在中には、街頭ライブで義援金を募ったり、都内の避難所にも慰安に訪れたりしました。

街頭ライブでは、ジェーンさんがアカペラで歌を披露し、道行く人たちが足を止めて耳を傾け、中には涙を流す人もいたといいます。
ジェーンさんに同行し、長年親交のあったエッセイストの村上香住子さんは、当時のことを次のように振り返ります。

「ジェーン・バーキンが誰だか知らないような若い子たちが何人も泣いていました。フランスからあの時期にやってきて、誰かはわからないけれどすごく有名な人が路上でアカペラで歌っていることに相当感激したようで、本当に号泣していました」
震災直後の日本の姿は、ジェーンさんの目にはどう映ったのか。
ジェーンさんは都内の避難所を訪れた時の様子について、こんな風に話してくれました。
「被災者が助け合い、寛容な心を持って互いに接しているのが印象に残りました。パリの人たちが被災者に心を寄せていることを伝えたかった。直接伝えることができて、光栄でした」

この時のコンサートがきっかけで、ジェーンさんは復興支援を目的にしたワールドツアーをスタート。世界27か国で74公演を行い、売り上げの一部や集まった寄付金を復興支援に充てました。
1人1人に寄り添う
ジェーンさんは震災発生から2年後の2013年、再び来日し、東北の被災地を訪れました。
この時、不安な日々が続く中、一歩を踏み出そうとジェーンさんから背中を押してもらったと感じている人がいます。
宮城県松島町で菓子店を営む千葉伸一さんです。
千葉さんは、当時、ジェーンさんが地元の人たちのために行ったコンサートの会場を提供しました。

震災が起きる前、千葉さんは松島町の沿岸で菓子店を、少し離れた高台ではカフェを営んでいました。
しかし、菓子店は津波で浸水被害にあい、カフェも地震で壁が壊れるなどの被害を受けました。
店を再開することができるのか。千葉さんは、日々そんな不安を抱えていたといいます。
そして、不安に打ち克つために自分を奮い立たせようと、気づかないうちに無理に頑張ろうとしたり、肩に力が入っていたりしていたともいいます。
そうした中で出会ったジェーンさん。千葉さんは、彼女から次のような声をかけられたそうです。
「笑いましょう。笑って前に進みましょう」

千葉さんはその後、高台の同じ場所に新たなカフェをオープンさせました。
あの時、背中を押してくれたジェーンさんに感謝の気持ちを伝えたいと話しました。
「今僕たちは、ここで笑って、笑顔で暮らしていけます。だから『ありがとう』ということと、『元気です』と伝えたいかな」(千葉さん)
一度差し伸べた手は引っ込めない
コンサートのほかにも、ジェーンさんが取り組んできた支援活動の1つに「アマ・プロジェクト」があります。
長年、ジェーンさんと親交のあった村上香住子さんが発起人で、仮設住宅で暮らす女性たちが作ったブレスレットなどをインターネットで販売し、生活再建を後押ししようというものです。
しかし、震災から時がたつにつれて被災地への関心が薄れ、商品はほとんど売れなくなり、いっとき村上さんはプロジェクトをやめることも考えたのだそうです。
活動を続けるかどうか。思い悩んだ村上さんがジェーンさんにアドバイスを求めると、しばらく沈黙したあと、次のような言葉が返ってきたといいます。
「あなたはそんなに簡単にやめられるの?一度差し出した手はすぐに引っ込めてしまっては絶対にいけない」
その言葉に、プロジェクトを再び軌道に乗せようと思い直した村上さん。
パリを訪問した時、商品として販売するTシャツ用に、ジェーンさんにイラストを描いてもらえないか頼んでみようと考えました。
村上さんが連絡した時、ジェーンさんは美容院にいました。直接、美容院を訪ねるとジェーンさんはシャンプーをしてもらっている最中。
村上さんが本題を切り出すと、ジェーンさんは美容院の人に紙と描くものを持ってきてもらい、髪がびしょびしょに濡れたまま、その場で絵を描いてくれたといいます。

「その時ジェーンがいなかったら、もうすぐにプロジェクトをやめていたと思うんです。普通だったら、絵を描いてもらうにもマネージャーなどいろいろ通すのが大変な話なのに。本当に、関係者の1人みたいになってくれました」(村上さん)
活動を続ける理由「やめることができないから」
2023年7月16 日、ジェーンさんは76歳でその生涯を閉じました。
ジェーンさんは長年心臓病を患い、2021年には脳卒中を起こすなど、16年にわたって闘病生活を続けていたといいます。
病気と闘う中でも、日本を訪れて復興支援を続け、多くの人たちに寄り添い、背中を押してきたジェーンさん。
2021年にインタビューした際に、なぜそこまでして、遠く離れた日本に思いを寄せ続けるのか質問すると、彼女は次のように答えました。
「今も、想像を絶するつらい暮らしを強いられている人たちに思いを寄せています。なぜ活動を続けるのか? それは、やめることができないからです。私が手を差し伸べることで、被災した方たちの運命を少しでも、わずかでも変えることができるのなら、活動を続けます」
被災した日本の人たちのため、活動を続けたいと語っていたジェーンさん。その願いは、もう叶うことはありませんが、彼女の日本や被災地への思いや優しさは、今も日本の人たちの心の中で生き続けています。
