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2023年7月4日
台湾

「日本の支援がなければ今の自分はない」台湾と日本をつないだもの

「人生をかけて、日本に恩返しをしたいのです」

こう語るのは、台湾で弁護士を務める男性です。

人生をかけてまで、なぜ日本に恩返しをしようとするのか。

そこには、台湾と日本をつなぐ、ある歴史がありました。

(国際部記者 関谷智)

日本が、自分の可能性を広げてくれた

「台湾で日本語を勉強してきたのに、指導教官の日本語が分からなかったのでショックでした。ただ、指導教官が関西弁だったからなんですけど」

30年近く前、日本に留学したときのことを笑顔で振り返るのは、台湾生まれの、鍾文岳しょうぶんがくさん(56)です。

1994年から3年間、京都大学の大学院に留学しました。

その後、台湾に戻り、台湾最大級の法律事務所に就職。弁護士として忙しい毎日を過ごしてきました。

そんな鍾さんは、今の暮らしがあることについて、日本への感謝の気持ちを口にしました。

「もし、日本に留学していなければ、この法律事務所で働くこともなかったでしょう。日本での経験は、自分の可能性を広げ、人生を豊かにしてくれました」

事務所前の鍾文岳さん

すべてが刺激的だった日本

鍾さんは、台湾中部の農業が盛んな雲林県で3人兄弟の長男として生まれました。

小さい頃から成績が優秀だったという鍾さんは、2年間の兵役を経て、大学を卒業後、24歳で司法試験に合格しました。24歳での合格は、異例の若さだったといいます。

鍾さんが日本とつながりを持つことになるのは、その直後でした。大阪に留学していた友人から日本に遊びに来ないかと誘われたのです。

当時の台湾では14歳から兵役を終えるまで外国に行くことが認められていなかったということで、鍾さんにとっては、生まれて初めて見る台湾以外の世界でした。

日本は当時、バブル崩壊直後でしたが、大阪の街は大勢の人で賑わい、中心部には台湾では見られなかった高層ビルが建ち並び、見るものすべてが刺激的だったといいます。

この経験が、「日本に留学して勉強してみたい」という強い思いのきっかけとなりました。

1990年代 大阪・道頓堀の繁華街

高給取りの仕事を手放してまで

台湾に戻ってから、一度は弁護士としての仕事を始めた鍾さん。

仕事をしながら、日本留学に向けて日本語の勉強もしましたが、弁護士の業務は予想以上に忙しく、思うように勉強は進みません。

一方で、「日本に留学したい」という思いは募るばかり。鍾さんは意を決して、弁護士事務所を辞めることにしました。

当時の台湾では、弁護士の初任給は非常に高く、農協で20年以上勤めた父親の給料を超えるほどでした。

そんな恵まれた仕事を手放してまでも、日本への留学を選択することにしたのです。

そこにあったのは、一度訪れた日本で覚えた「台湾にとどまらず広い世界を見たい」という感覚が忘れられなかったからでした。

鍾さんが留学にあたって目指したのは、日本側が奨学金を給付する選抜型の留学制度。奨学金は月に18万円と、非常に魅力的な制度でした。

半年間、1日12時間以上日本語の勉強を続けた結果、選抜試験に合格し、1994年に京都大学の大学院に入学しました。

留学当時の写真

大阪弁と仲間たち

留学の期間は3年間。学んだのは法律、特に知的財産でした。

鍾さんは台湾で日本語を勉強し、それなりに授業も理解できるだろうと思っていましたが、指導教官の授業は“関西弁”。当初は、ほとんど理解できず、自信を失いかけたといいます。

それでも、授業の前には何度も教科書を読み込み、研究室で毎日12時間以上勉強し、必死にくらいついたといいます。

こうした勉強以上に、鍾さんの留学生活を充実したものにしてくれたのは、研究室の仲間たちでした。

研究室には、中央官庁のキャリア官僚や大手商社などの社会人経験のある人たちも多く、そうした仲間たちから、台湾に暮らすだけでは得られなかった、さまざまな世界を知ることができました。

さらに、仲間たちとは勉強以外にも食事をしたり、登山をしたりするなかで友情も育まれ、その後の人脈作りにもつながっていきました。

研究室のゼミメンバー 鍾さんは中央の列の右端

日本への恩返し

3年間の留学を終え1997年に台湾に戻った鍾さん。弁護士の仕事を再開します。

当時の台湾には日本の企業が数多く進出していたことから、日本語の分かる台湾出身の弁護士は非常に貴重で、日本企業から数多くの仕事の依頼があったといいます。

日本の有名なキャラクターに関する中国や台湾での模倣品対策、製薬会社の商標侵害など、多くの日本企業の相談に乗り、問題を解決してきました。

15年前からは日本企業を対象にした無料の法律相談も続けています。

ときには手弁当で、ほとんど利益にならない仕事もあったといいます。

それでも、ためらうことなく引き受けてきたのは「日本の奨学金で留学させてもらった恩返しがしたい」という思いからでした。

「今でも日本に恩返しできたか分かりませんが、著作権関連の相談を受けた日本企業の社長さんから『日本の奨学金が、あなたのような人物を育てたのであれば、生きた使い方だ』と言ってもらったことがあります。そのときは、日本に少し恩返しができたように感じ、とてもうれしかったです」

約70年前に始まった奨学金制度

鍾さんが受給した奨学金は、台湾にある日本の窓口機関「日本台湾交流協会」(※)が、台湾と日本の懸け橋になってもらいたいと、台湾の優秀な若者を選抜して支給してきたものです。

元々は、1955年に国費留学生の奨学金として始まりましたが、1972年の日本と台湾との外交関係の断絶以降も日本が支給を続け、これまでに3000人以上が日本に留学しています。

この中には、台湾の司法院長を務めた頼浩敏氏、首相にあたる行政院長を務めた謝長廷氏など、台湾の司法界や行政界などで活躍してきた人たちも数多くいます。

ただ、制度が始まってから長い年月がたち、協会では、留学生たちのその後の状況を把握することが難しくなっていました。

そこで、2022年、日本台湾交流協会が設立50年を迎えることに合わせて、改めて名簿の整理を行うことになりました。

名簿の整理には鍾さんも関わり、1年近くかかった作業の中で、3000人以上の留学生のうち、半数以上の人たちと連絡を取ることができました。

鍾さんと一緒に整理を行った日本台湾交流協会 川田竜平主任と村嶋郁代広報部長(肩書きは当時)

その中には、台湾の大学で教べんをとる教授や、世界をリードする台湾の半導体産業のエンジニアといった人たちがいることが分かり、関係者の間で、日本と台湾の新たな国際交流につながることへの期待が高まることになりました。

※日本台湾交流協会1972年の日中国交正常化に伴い、日本と台湾の国交が断絶したあとも、日本と台湾の間の実務レベルでの交流関係を維持するために設立。大使館に類似した業務を行っている。

日台の懸け橋に

2023年3月。名簿の整理がきっかけで、新たな動きがありました。

奨学金を受給して日本へ留学した台湾の人たちが集まって、大規模な同窓会が開かれたのです。

台北市内のホテルの会場に集まったのは約200人。乾杯のあいさつをしたのは鍾さんでした。

実は10年ほど前から、弁護士の仕事に加えて、元留学生たちで作る団体の代表を務めてきた鍾さんにとって、日本への留学を経験した人たちの新たなネットワークができたことは、日本に恩返しするために、心強い味方を得た気持ちだといいます。

鍾さんは、これからも日本への理解がある人材を、台湾で育てていきたいと考えているといいます。

「日本の支援のおかげで、私の人生が変わったように、私も人の役に立つこと、人の笑顔のために人生を使いたいのです。日本人や台湾人留学生たちのネットワークがもっと広がっていけば、情報交換ができますし、困っているときには助け合えます。日本と台湾の結びつきを強めるために、私は今後も人生をかけて、活動していきます」

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