「どんなにつらい夜でも 朝は来るよ! たくさん泣いていいんだよ。」
17歳の女子高生が書いた手紙は、こう始まっています。
先の見えない日々が続き、不安に押しつぶされそうになっていた幼い頃。 彼女を救ってくれた言葉がありました。
その言葉から伝わってきた温かい気持ちを思い出しながら、彼女はその手紙を書きました。
(国際部記者 高須絵梨)
私を変えてくれた手紙
「この手紙は、私を変えてくれた、作ってくれた。自分を前向きにしてくれた。だから、私にとっては宝物で、大切な言葉を教えてくれたんです」
福島県いわき市に暮らす高校2年生の四條海璃亜さん(17)は、10歳の頃にもらった手紙を手に、こう話しました。
その頃の海璃亜さんは、毎日のように暗い気持ちになっていたといいます。
それが今では、高校で生徒会長を務め、自分自身に自信を持てるようにもなったという彼女。
ふさぎ込みそうになっていた海璃亜さんを救ってくれたのが、1枚の手紙でした。
あした、どうなってるんだろう?
海璃亜さんのふるさとは、福島県いわき市。12年前の3月11日、彼女が5歳のとき、東日本大震災が発生します。
海岸から800メートルほどの場所にあった自宅。津波は一軒先まで押し寄せました。
その後も続く余震、そして発生した原発事故。
自宅に帰ることのできない状態になり、海璃亜さんたち家族は、約5年間避難生活を強いられます。
避難した先は、東京や栃木など7か所に上りました。
明日、どうなっているんだろう?
なんで、家に帰れないんだろう?
お父さんとお母さんは、なんで暗い顔をしてるんだろう?
海璃亜さんは、幼心にそんなことを感じ、暗い気持ちになることも多くなったそうです。
受け取った1枚の手紙
東日本大震災の発生から5年。
海璃亜さんたち家族は、ようやくいわき市に戻ってくることができ、海璃亜さんも、市内の小学校に通うことになりました。
そんなある日、小学校の先生は、クラスの子どもたちに何かを配りました。
それは、台湾の子どもたちから届いた手紙。 被災した福島の子どもたちを励まそうと、送られてきたものでした。
海璃亜さんが受け取った手紙には、大きなハートマークが印刷され、その中に日本語でメッセージが書かれていました。
大切なのは、今日泣かないでいることではなく、明日、必ず笑顔になること、ほら笑って
そして、裏にも中国語でこう書かれていました。
このカードを受け取ったあなたが無事に幸せに成長しますように太陽に顔を向ければ温かい愛と思いやりを感じることができるよ
その言葉からは、温かい気持ちが伝わってきました。
うれしかった、その言葉。今度は私が
それから、その手紙は海璃亜さんの“宝物”になりました。
そして、高校生になった今も、大切に持ち歩いています。
「『大切なのは、今日泣かないでいることではなく、明日、必ず笑顔になること、ほら笑って』っていう言葉がすごく嬉しくて。今つらいのに笑顔を作って笑うんじゃなくて、つらいときはつらい時でたくさん泣いて、その代わりまた次の日笑えるようなことができるようにすればいいんだなと思って」
手紙の言葉で、いまの自分が置かれているのがどんな状況であっても、無理せず、前を向いていこうと思えるようになった海璃亜さん。
そんな中起きたのが、ロシアによるウクライナの軍事侵攻でした。
海璃亜さんの頭に真っ先によぎったのは、ウクライナの人たち、特に子どもたちのことでした。
生徒会長を務めていた海璃亜さんは、今度は自分たちが手紙を書いて、ウクライナの人たちを笑顔にしたいと、軍事侵攻から1年になるのを前に、手紙を送る取り組みを始めます。
学校には、海璃亜さんのように震災後、避難生活を強いられた生徒や、今も原発事故で避難生活を余儀なくされている生徒たちもいます。
自分たちだからこそ、届けられるメッセージがあるかもしれない。
そんな思いを込めて生徒たちが書いた手紙は約500通。
2023年3月、これらの手紙は福島市のNPO法人によって福島からウクライナに運ばれました。
福島から届いた手紙
約500通の手紙は、3月10日、ウクライナの学校に届けられました。
学校があるのは、首都キーウ近郊のイルピンという町。ここはロシアが軍事侵攻を開始した直後に、激しい攻撃を受けました。
町の中にはロシア軍のミサイル攻撃で破壊され、修復されていない住宅や教会が残されたまま。今も、多くの市民が仮設住宅に身を寄せているのです。
こうした中届いた、日本からの手紙。受け取ったウクライナの生徒たちは、一様に感謝の気持ちを口にしていました。
「手紙がとてもかわいいです。心が温まりました」
「必要とされていて、1人ではないのだと感じることができました」
言葉がつないだ心のリレー
海璃亜さんからの手紙を受け取った女子生徒がいました。
ネオニリア・キリロフスカさん(15)です。
キリロフスカさんは、イルピンにある自宅がロシア軍の攻撃を受け、窓ガラスが割れるなどの被害を受けたことから、ウクライナ中部に避難を余儀なくされ、2022年9月に戻ることができました。
実は、キリロフスカさんのふるさとは、ウクライナ南部のクリミア。
温暖な気候と美しい自然に囲まれたふるさとが大好きでしたが、キリロフスカさんが6歳のとき、2014年にロシアが一方的に併合したことから、イルピンに移り住みました。
さらに今度は、ロシアによる軍事侵攻が、キリロフスカさんの暮らす町を襲います。
2度もロシアによって友人や暮らしを奪われたくないと、イルピンに残りたいと願いましたが、半年以上の避難生活を強いられました。
キリロフスカさんは気持ちが落ち込み、1週間以上、外に出歩けなくなることもあったといいます。
そんな中受け取った、海璃亜さんからの手紙。
そこには、ウクライナ語と日本語で、こう書かれていました。
どんなにつらい夜でも あさはくるよ! たくさんないていいんだよ。太陽(たいよう)のしたで いつかえがおで 会える日(ひ)まで!
災害と戦争、大きく状況は違いますが、東日本大震災のときに多くの人からもらったエールを、今度は自分たちが誰かに届けたいという海璃亜さんをはじめとする福島の生徒たちの思いは、ちゃんと届いていました。
「誰かが私を愛してくれている、誰かが私を支えてくれていると感じることができました。海璃亜さんと私では状況は異なりますが、避難先を転々とするつらさは、私にも分かる部分があります。海璃亜さんが私を支えてくれているように、私も彼女をサポートしたいと思います。彼女に感謝の気持ちと大きな愛を送りたいです。ありがとう」(キリロフスカさん)