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ラグビーワールドカップの歴史 名場面振り返り 1987~2019

ラグビーワールドカップは、オリンピックやサッカーワールドカップに次ぐ規模の世界大会とされています。1987年から4年に1回開かれ、前回、2019年はアジアで初めて日本で開催されました。多くの名選手、名場面を生んできた大会の歴史、名場面を【NHK秘蔵映像とともに】振り返ります。

目次

    第1回大会(1987年)

    開催国のニュージーランドが初代チャンピオンに

    ウェブ・エリス・カップ掲げるニュージーランド デビッド・カーク主将
    日程 出場チーム数 優勝
    5月22日〜6月20日 16 ニュージーランド

    ラグビーワールドカップの第1回大会は、1987年にニュージーランドとオーストラリアの共同開催で5月22日から6月20日の日程で行われました。この大会には16チームが出場しました。

    このうちラグビーの統括団体「ワールドラグビー」の前身「IRFB=国際ラグビー評議会」に加盟していたチームからオーストラリアとニュージーランド、イングランド、アイルランド、スコットランド、ウェールズ、それにフランスの7チームが参加しました。

    残りの9チームは招待チームで、アルゼンチンとフィジー、イタリア、カナダ、ルーマニア、トンガ、日本、ジンバブエ、それにアメリカでした。

    南アフリカはIRFBのメンバーでしたが、アパルトヘイト=人種隔離政策で、国際的な非難が高まっていたことから参加を認められませんでした。

    大会はニュージーランドとオーストラリアの会場で行われ、あわせて60万4500人が観戦に訪れました。

    地元・ニュージーランドがフランスとの決勝制す

    決勝はニュージーランドとフランスの対戦で、開催国のニュージーランドが29対9で勝って初代王者に輝きました。

    ニュージーランドは、その後、日本代表のヘッドコーチを務めるジョン・カーワン選手が身長1メートル90センチ、体重100キロの体格で快足のウイングとしてトライを量産しました。

    後に日本代表率いる ニュージーランド ジョン・カーワン選手

    カーワン選手は、1次リーグで90メートルの独走トライで会場を沸かせたほか、決勝でもトライをあげ、この大会で最も多くのトライをあげたトライ王にも選ばれました。

    日本は林敏之選手がキャプテンを務め、1次リーグでアメリカ、イングランド、それにオーストラリアと対戦しました。

    林敏之主将を中心に戦うも日本3連敗

    海外のチームとは、親善試合でしか戦ったことのなかった日本にとって、ワールドカップは世界の強豪との初めての真剣勝負の場となりました。

    初戦のアメリカ戦ではトライ数は互いに3つで接戦となりましたが、トライのあとのゴールキックの差で、18対21と競り負けました。

    続くイングランドには7対60、オーストラリアに23対42といずれも大敗し、日本は0勝3敗で初めてのワールドカップを終えました。

    第2回大会(1991年)

    オーストラリアが頂点に 平尾誠二主将の日本がW杯初勝利!

    初優勝のオーストラリア デービッド・キャンピージ選手
    日程 出場チーム数 優勝
    10月3日〜11月2日 16 オーストラリア

    ラグビーワールドカップの第2回大会は、1991年にイングランドを中心にフランスとウェールズ、スコットランド、アイルランドにまたがって開催されました。この大会から予選が開かれるようになりました。

    英エリザベス女王が激励 イングランド ウィル・カーリング主将と

    出場チームは前回大会のベスト8以上のニュージーランドとフランス、ウェールズ、オーストラリア、スコットランド、アイルランド、フィジーに、開催国のイングランドを加えた8チーム。

    さらにラグビーの統括団体、ワールドラグビーの前身「IRFB」=国際ラグビー評議会が主催した大陸予選を勝ち上がったイタリアとルーマニア、西サモア、日本、カナダ、アルゼンチン、アメリカ、それにジンバブエの8チームのあわせて16チームが出場しました。

    日本はアジア・オセアニア予選に参加し、当時の西サモア、トンガ、それに韓国の3チームと対戦。西サモアに次ぐ2位の成績で2大会連続のワールドカップ出場を決めました。

    大会は10月3日から11月2日の日程で開催され、100万7760人が観戦しました。

    前回大会の王者、ニュージーランドは初戦のイングランド戦から苦戦が続きました。

    前回王者 ニュージーランドは準決勝で敗退

    大会を通して精彩を欠き、準決勝で対戦したオーストラリアから1つもトライを奪えず、6対16で敗れました。

    一方、この試合で力を見せたのがオーストラリアのウイング、デービッド・キャンピージ選手。スピードある走りに、切れ味鋭いステップで縦横無尽に攻め続けました。

    “変幻自在”オーストラリア デービッド・キャンピージ選手

    圧巻は相手選手2人をステップで引きつけ、後ろからフォローしてきた味方選手に“ノールックパス”。トライにつなげ、初の決勝進出を引き寄せました。

    決勝はオーストラリアとイングランドが対戦。

    この試合もオーストラリアのキャンピージ選手が持ち味の変幻自在のステップで観客を魅了し、オーストラリアがイングランドに12対6で勝って初優勝しました。

    決勝 オーストラリアが地元イングランドに競り勝つ

    日本はワールドカップ初勝利を目指し宿澤広朗監督の指揮のもと、平尾誠二選手がキャプテンを務めました。

    1次リーグの初戦は強豪・スコットランドに9対47で敗れたものの、続くアイルランド戦ではウイングの吉田義人選手が70メートルを駆け抜けて味方につないでトライを決めるなど、16対32と粘りを見せました。

    日本 吉田義人選手などの活躍でW杯初勝利(ジンバブエ戦)

    1次リーグ最終戦ではジンバブエと対戦し、堀越正巳選手の初トライのあと、吉田選手や朽木英次選手らが次々とトライを決め、この大会で最多となる9トライをあげて52対8で快勝し、ワールドカップで初勝利を挙げました。

    この大会は、堅いディフェンスを誇るチームが多く、ロースコアの試合が多く見られました。

    第3回大会(1995年)

    開催国の南アフリカ 初出場で初優勝 日本は145失点の歴史的大敗

    地元・南アフリカが初優勝 フランソワ・ピナール主将
    日程 出場チーム数 優勝
    5月25日〜6月24日 16 南アフリカ

    ラグビーワールドカップの第3回大会は1995年に南アフリカで開催されました。大会は16チームが出場し5月25日から6月24日の日程で行われ、110万人が観戦しました。

    南アフリカ 黒人初の大統領 ネルソン・マンデラ氏

    開催国の南アフリカはアパルトヘイト=人種隔離政策への制裁としてラグビーの統括団体、ワールドラグビーの前身、IRFB=国際ラグビー評議会から第1回、2回大会の出場を認められませんでしたが、黒人初の大統領、ネルソン・マンデラ氏のもと、アパルトヘイト=人種隔離政策が撤廃され開催地として選ばれ、初出場を果たしました。

    南アフリカ 開幕戦で前回王者 オーストラリアに勝利

    開幕戦で南アフリカは前回大会優勝のオーストラリアを27対18で破り、1次リーグ3連勝で決勝トーナメントに進出しました。

    大雨の中で行われた準決勝ではフランスと対戦し、19対15と接戦を制して決勝に進みました。

    “暴走機関車”ニュージーランド ジョナ・ロムー選手

    同じく決勝に駒を進めたのは若きウイング、ジョナ・ロムー選手を擁するニュージーランドでした。

    ロムー選手は1メートル96センチという体格を生かし「暴走機関車」と称された圧倒的なパワーを見せつける走りで、準決勝で4つのトライを奪うなど世界に衝撃を与えました。

    南アフリカとニュージーランドの決勝は両チームノートライのまま9対9で延長戦に入り、延長後半に南アフリカがドロップゴールを決めて15対12で初優勝を果たしました。

    延長戦にもつれ込む大接戦 南アフリカが制す

    キャプテンを務めたフランソワ・ピナール選手とマンデラ大統領の物語は映画化もされ、世界的に知られています。

    3大会連続で出場した日本は、1次リーグ初戦で強豪・ウェールズに10対57で敗れ、続くアイルランド戦は前半こそ14対19で折り返したものの、地力にまさる相手に28対50で敗れました。

    2連敗で迎えた最終戦は初代王者のニュージーランドとの対戦でした。

    相手は若手を中心とした選手構成だったにも関わらず、17対145で歴史的な大敗を喫しました。

    “ブルームフォンテーンの悪夢”日本 記録的大敗

    日本は、キャプテンの薫田真広選手を中心に平尾誠二選手や吉田義人選手、元木由記雄選手らスター選手を擁しましたが、世界のトップクラスのチームとの力の差をまざまざと見せつけられる結果となりました。

    この試合は、会場の地名から「ブルームフォンテーンの悪夢」と呼ばれています。

    またこの大会前の1993年には、トライによる得点が4点から現在と同じ5点に引き上げられるルール改正が行われました。

    第4回大会(1999年)

    オーストラリアが2回目の優勝 日本は平尾誠二監督のもと3連敗

    オーストラリア 2回目の世界一
    日程 出場チーム数 優勝
    10月1日〜11月6日 20 オーストラリア

    ラグビーワールドカップの第4回大会は1999年に開催されました。ウェールズを中心にイングランドとスコットランド、フランス、それにアイルランドの5つの国と地域で行われました。

    大会は10月1日から11月6日の日程で行われ、175万人が観戦に訪れました。

    この大会から出場チームが4チーム増え、今と同じ20チームになったほか、大会では唯一、1次リーグのあとにプレーオフが行われました。

    ニュージーランド ジョナ・ロムー選手が活躍も準決勝敗退

    優勝候補の筆頭とされていたのはニュージーランドで、ジョナ・ロムー選手とジェフ・ウィルソン選手の両サイドのウイングに加えて、フルバックのクリスチャン・カレン選手の3人は世界最強と言われ、1次リーグでは得点を量産しました。

    しかし、準決勝でフランスに31対43で逆転負けを喫し、2回目の優勝には届きませんでした。

    決勝はフランスと準決勝で前回王者の南アフリカを延長の末に破ったオーストラリアの対戦でした。

    オーストラリア ジョージ・グレーガン選手

    オーストラリアは、第2回大会の優勝メンバーに加えて、スクラムハーフのジョージ・グレーガン選手とスタンドオフのスティーブン・ラーカム選手の若いハーフ団がうまくかみ合い、フランスに35対12で勝って2回目の優勝を果たしました。

    日本は前回大会に選手として出場し、史上最年少の34歳で平尾誠二氏が監督に就任しました。

    (左)現在の日本代表ヘッドコーチ ジェイミー・ジョセフ選手

    前回大会はニュージーランド代表で出場し、現在の日本代表でヘッドコーチを務めている当時のジェイミー・ジョセフ選手や、スクラムハーフのグレアム・バショップ選手を代表に加えたほか、キャプテンには初めて海外出身のアンドリュー・マコーミック選手を起用するなど外国出身選手による強化を進めました。

    キックするアンドリュー・マコーミック主将

    しかし、大会の5か月前の戦いで勝利したサモアとの初戦で1トライも取れず、9対43で敗れました。

    続くウェールズ戦ではウイングの大畑大介選手がターンオーバーから鮮やかなトライを決めるなど見せ場も作りましたが、結果は15対64の大敗でした。

    最後のアルゼンチン戦は再び1トライも奪えず12対33で敗れ、3試合でわずか2トライにとどまりました。

    平尾監督はワールドカップ後も指揮を執りましたが、よくとしの2000年に辞任しました。

    第5回大会(2003年)

    イングランドが北半球のチームで初優勝 日本は4戦全敗

    (左)優勝決めた イングランド ジョニー・ウィルキンソン選手
    日程 出場チーム数 優勝
    10月10日〜11月22日 20 イングランド

    第5回大会はニュージーランドとオーストラリアによる共同開催の予定でしたが、ニュージーランド側の事情によりオーストラリアの単独開催となりました。この大会から1次リーグは5チームずつ4つのグループで争われることになりました。

    大会は10月10日から11月22日の日程で行われ、183万7547人の観客を集めました。

    開催国のオーストラリアは、優勝候補の筆頭、強豪ニュージーランドと準決勝で対戦しました。

    後に日本代表率いる オーストラリア エディー・ジョーンズ氏

    のちに日本代表のヘッドコーチになるエディー・ジョーンズ氏が指揮していたオーストラリアは、前半の早い時間にセンターのスターリング・モートロック選手の独走トライで流れをつかみ、22対10でニュージーランドに勝利しました。

    一方、強豪のイングランドは、スタンドオフのジョニー・ウィルキンソン選手の正確な左足のキックで得点を重ね順当に勝ち上がって決勝に進みました。

    オーストラリアとイングランドの対戦となった決勝は互角の戦いとなり、14対14で延長戦に入りました。

    左足の名手が“右足”で イングランド ウィルキンソン選手

    その後も互いに譲らず、17対17で残り時間が1分を切り、ラックから出てきたボールをウィルキンソン選手が利き足ではない右足で蹴ってドロップゴールを決め勝ち越し、20対17でイングランドが北半球のチームとして初めての優勝を果たしました。

    “ブレイブ・ブロッサムズ”日本 箕内拓郎主将

    日本は向井昭吾監督とキャプテンの箕内拓郎選手のもと3大会ぶりの勝利を目指しました。

    攻撃の中心は小野澤宏時選手と大畑大介選手の決定力の高い両ウイングでした。

    初戦は強豪・スコットランドと対戦しました。

    前半6対15で折り返した日本は後半、ウイングの小野澤選手がトライを決めて4点差に迫りました。

    このあと3つのトライを奪われ11対32で敗れたものの、低く激しいタックルと果敢な攻撃で強豪相手に渡り合ったことで、日本に対するほかのチームの評価が変わったと言われています。

    この試合では『勇敢な桜戦士』を意味する日本代表の愛称「ブレイブ・ブロッサムズ」が誕生しました。

    海外の地元紙の報道で名付けられたこの愛称はその後、国内でも愛称として使われているほか、日本が好ゲームを展開したときなどに海外でも広く使用されます。

    続く強豪・フランスとの試合でも日本は一時、19対20に迫って追い詰めましたが、最後は引き離されて29対51で敗れました。

    第3戦のフィジーとの試合は中4日の日程で行われ、13対41と力を発揮できませんでした。

    “トライゲッター”日本 大畑大介選手

    最終戦のアメリカ戦は前の試合から中3日の日程で行われ、ここでも先制されたものの大畑選手のトライで26対27の1点差まで迫りました。

    しかし、最後にターンオーバーされてトライを奪われ、26対39で敗れました。

    日本は15日間で4試合を戦うという過密日程の中、4戦全敗で戦いを終えました。

    ラグビーの統括団体、WR=ワールドラグビーの前身、IRB=国際ラグビー評議会の創設メンバーの8チームがベスト8に残ったのに加えて、それ以外のチームの試合日程が過密だったこともあり、課題を指摘された大会でもありました。

    第6回大会(2007年)

    南アフリカが2回目の優勝 日本はW杯の連敗「13」で止める

    3大会ぶり2回目 南アフリカが頂点に
    日程 出場チーム数 優勝
    9月7日〜10月20日 20 南アフリカ

    第6回大会は、フランスを中心にスコットランドとウェールズにまたがって開催されました。

    大会は9月7日から10月20日の日程で行われ、226万3223人が観戦に訪れました。

    アルゼンチン大躍進 初のベスト4に

    この大会で注目を集めたのはアルゼンチンの躍進でした。

    開幕戦で開催国のフランスと対戦し、大声援がフランスに送られるアウェーの状況のなかで17対12で競り勝ちました。

    開催国を倒した勢いは衰えず、強豪アイルランドにも30対15で大勝するなど4戦全勝とし、1次リーグを1位で通過しました。

    準々決勝ではスコットランドに19対13で勝って、ラグビーの統括団体、WR=ワールドラグビーの前身、IRB=国際ラグビー評議会に創設時から加盟していた8チーム以外では初めて、ベスト4に進みました。

    アルゼンチン司令塔 フアン・マルティン・エルナンデス選手

    準決勝では南アフリカに13対37で敗れたものの、スクラムハーフのアグスティン・ピチョット選手とスタンドオフのフアン・マルティン・エルナンデス選手のハーフ団など、ヨーロッパのプロリーグで活躍していた選手を中心に構成されたチームの快進撃は観客を沸かせました。

    決勝は南アフリカと大会2連覇を目指すイングランドが対戦しました。

    南アフリカ 堅守と個人技で強さ見せる

    前半、南アフリカは3つのペナルティーゴールを決めて9対3とリードし、後半にもさらに2つのペナルティーゴールで追加点をあげました。

    守備では堅い守りで相手の攻撃をしのぎきりました。

    両チームノートライの試合でしたが、南アフリカが15対6で勝ち、3大会ぶり2回目の優勝を果たしました。

    トライ王 ブライアン・ハバナ選手と得点王 パーシー・モンゴメリ選手

    大会の得点王は105点をあげたパーシー・モンゴメリ選手、最も多くのトライをあげたトライ王には8トライをあげたウイングのブライアン・ハバナ選手が輝き、優勝した南アフリカの選手が個人技でも目立った大会でした。

    日本 ジョン・カーワン ヘッドコーチ

    日本は第1回大会でトライ王に選ばれ、ニュージーランドの優勝に大きく貢献した「オールブラックス」のレジェンド、ジョン・カーワン氏をヘッドコーチに迎えました。

    キャプテンは前回大会に続き箕内拓郎選手が務め「2勝」という目標を掲げて大会に臨みました。

    日本は過密日程対策としてチームを2つに分けていたため、初戦のオーストラリア戦では23歳の佐々木隆道選手がチーム史上最年少でゲームキャプテンを務めましたが3対91と大差で敗れました。

    2試合目のフィジー戦は初戦とは先発メンバー全員を入れ替え、キャプテンの箕内選手も出場しました。

    前半を9対10で終え、後半に入って一時は日本が逆転しましたが、再びフィジーにリードされた場面で途中出場したスクラムハーフの矢富勇毅選手がけがでプレーを続行できず、スクラムハーフ不在のまま一歩及ばず、31対35で競り負けました。

    3試合目のウェールズ戦も18対72で敗れましたが、随所で観客を沸かせました。

    前半、自陣ゴール前から相手スクラムのボールをロックの大野均選手がターンオーバーし、パスをつないでウイングの遠藤幸佑選手が走りきって決めたトライは、日本のファンだけでなく観客も魅了しました。

    日本 平浩二選手が土壇場でトライ

    最終戦のカナダとの対戦では後半のロスタイムまで5対12とリードされていましたが、ドライビングモールでゴールライン近くまで迫り、センターの平浩二選手がトライを決めて2点差としました。

    日本 大西将太郎選手のゴールで引き分けに

    最後はキッカーの大西将太郎選手が難しい位置からのコンバージョンゴールを決めて、12対12の同点で終えました。

    日本は第3回大会の初戦のウェールズ戦から続いた連敗を「13」で止めました。

    第7回大会(2011年)

    ニュージーランドが2回目の優勝 日本はまたも〝W杯2勝目ならず〟

    ニュージーランド リッチー・マコウ主将 地元で栄冠掲げる
    日程 出場チーム数 優勝
    9月9日〜10月23日 20 ニュージーランド

    第7回大会はラグビー王国と呼ばれるニュージーランドが初めて単独開催しました。

    大会は9月9日から10月23日の日程で行われ、147万7294人が訪れました。

    ニュージーランドの南島、最大の都市、クライストチャーチでも試合が予定されていましたが、大会のおよそ7か月前の2月に発生したニュージーランド南部の地震で、スタジアムが損壊したため、試合は行われませんでした。

    「オールブラックス」ニュージーランド 決勝前に“ハカ”

    ニュージーランドは過去の大会でも何度も優勝候補にあげられながら、第1回大会以来、頂点に立ったことがなく2回目の優勝は悲願でした。

    前回に引き続きリッチー・マコウ選手がキャプテンを務め、この大会も優勝候補の筆頭とされていました。

    開幕戦でトンガに41対10で勝ち、続く日本戦では13のトライをあげて83対7で圧勝しました。

    続くフランスとカナダにも勝って4戦全勝で1次リーグを突破しました。

    しかし、1次リーグの途中、オールブラックスのスタンドオフで絶対的な司令塔、ダン・カーター選手がけがをし、代わって先発を任された選手もけがをするなど、不運に見舞われました。

    それでも勝ち上がって、決勝は1次リーグでも対戦したフランスと再び顔を合わせました。

    ニュージーランド トニー・ウッドコック選手 決勝唯一のトライ

    前半、ニュージーランドはフランスのラインアウトのボールを奪い、プロップのトニー・ウッドコック選手のワールドカップ初トライで先制しました。

    5対0で迎えた後半開始早々、ニュージーランドがペナルティーゴールを決めリードを8点に広げましたが、直後にフランスがトライをあげて続くゴールも成功し、8対7とし一気に1点差まで詰め寄りました。

    その後は、互いに大きなチャンスを作ることはできず、このまま8対7でニュージーランドが2回目の優勝を果たしました。

    日本 菊谷崇主将を先頭に初戦のフランス戦に

    日本は前回大会に続き、ジョン・カーワン氏がヘッドコーチを務め、キャプテンは菊谷崇選手でした。

    初戦のフランス戦では序盤にトライを立て続けに奪われるなどして3対20と17点をリードされましたが、そこからジェームス・アレジ選手の2本のトライなどで21対25と4点差まで追い上げました。

    日本 田中史朗選手

    最後は21対47の大差で敗れたものの、当時の世界ランキング4位の強豪を追い詰めた姿はファンの記憶に残りました。

    続くニュージーランド戦は13のトライを奪われ7対83と力負けしました。

    ウイングの小野澤宏時選手が相手のパスをインターセプトして日本唯一のトライをあげました。

    3戦目でトンガと対戦。

    前半は先制トライを奪われたあと、日本も畠山健介選手がトライを決めるなど点を取り合って13対18で終えましたが、逆転はかなわず18対31で敗れました。

    最終戦は前回大会で引き分けたカナダとの対戦でした。

    日本 堀江翔太選手のトライ

    日本は先制トライを奪われたもののそこからフッカーの堀江翔太選手とウイングの遠藤幸佑選手がトライをあげて前半を17対7で終えました。

    後半に入ってもリードを守っていましたが、残り6分を切ってトライとペナルティーゴールを決められ、同点に追いつかれてしまいました。

    試合は23対23で終了し、日本は2大会連続で3敗1引き分けの結果でした。

    第8回大会(2015年)

    ニュージーランドが連覇 日本〝世紀の番狂わせ〟南アフリカから大金星

    “ブライトンの奇跡”日本が南アフリカに勝利
    日程 出場チーム数 優勝
    9月18日〜10月31日 20 ニュージーランド

    第8回大会はイングランドで開催され、9月18日から10月31日の日程で行われました。

    これまでのラグビーワールドカップで最多となる247万7805人が観戦しました。

    ニュージーランド リッチー・マコウ主将を先頭に〝ハカ〟

    前回大会の優勝チーム、ニュージーランドは3大会連続でリッチー・マコウ選手がキャプテンを務めました。

    初戦のアルゼンチン戦で、前半は、スタンドオフのダン・カーター選手が3つのペナルティーゴールを決めて9点をリードしましたが、その後、アルゼンチンにトライやペナルティーゴールを決められるなどして逆転され、12対13とリードを許して終えました。

    ニュージーランド リッチー・マコウ主将

    ニュージーランドは、後半に入ってようやくアーロン・スミス選手のトライなどで逆転し、26対16で苦しみながら勝利をあげました。

    このあとは格下のナミビアとジョージア、それにトンガに危なげなく勝って決勝トーナメントに進みました。

    準々決勝はフランスに62対13で大勝しますが、準決勝の南アフリカ戦は大接戦になりました。

    前半、南アフリカが4本のペナルティーゴールを決めてニュージーランドが7対12とリードされました。

    ニュージーランド ボーデン・バレット選手が逆転トライ

    後半はダン・カーター選手のドロップゴールで2点差に詰め寄り、途中出場したばかりのボーデン・バレット選手が逆転のトライを決めました。

    雨の中で行われた試合でわずかなリードを守りきったニュージーランドが、20対18で競り勝って決勝に進みました。

    決勝はオーストラリアとの対戦になりました。

    前半、トライ1つと3本のペナルティーゴールで16対3とリードして後半に臨んだニュージーランドはその後も攻撃の手を緩めませんでした。

    後半が始まってすぐ、センターのマア・ノヌー選手がオフロードパスを受けておよそ40メートルを走りきりトライをあげて21対3とリードを広げました。

    ニュージーランド司令塔 ダン・カーター選手

    その後、オーストラリアも連続トライを決めるなど21対17と4点差まで詰め寄りましたが、ニュージーランドの司令塔のダン・カーター選手がドロップゴールとペナルティーゴールで突き放し、34対17で勝ちワールドカップで初めて連覇を達成しました。

    史上初の連覇 ニュージーランド リッチー・マコウ主将

    会場のトゥイッケナムスタジアムには8万を超える観客が集まり、ニュージーランドの3回目の優勝を見守りました。

    日本は、オーストラリアのヘッドコーチなどを歴任したエディー・ジョーンズ氏がヘッドコーチを務め、リーチ マイケル選手がキャプテンとしてチームをまとめました。

    日本 リーチ マイケル主将とエディー・ジョーンズ ヘッドコーチ

    ワールドカップのすべての大会に出場しながら、これまでわずか1勝にとどまっていた日本でしたが、ジョーンズヘッドコーチのもと“Japan Way”と名付けた独自の戦い方を掲げ、低いタックルと常にボールを動かし、運動量で相手を上回るラグビーを徹底しました。

    当時、世界ランキング13位の日本は、初戦で世界ランキング3位の強豪・南アフリカと対戦しました。

    日本は南アフリカに対して低いタックルと人数をかけたディフェンスで粘り強く戦い、前半を10対12と2点を追う展開で終えました。

    後半13分に日本は19対19の同点に追いつきますが、南アフリカに突き放され29対32とリードされました。

    残り5分を切ってからも日本は足を止めず、相手陣深くに入って攻撃を繰り返しました。

    そして、試合終了間際に途中出場のウイング、カーン・ヘスケス選手がトライを奪って、34対32と劇的な逆転を果たしました。

    試合終了間際に逆転トライ 24年ぶりW杯勝利

    この歴史的勝利は「世紀の番狂わせ」として多くの人を熱狂させました。

    このあと日本は4日後にスコットランドと対戦しましたがミスや反則もあって10対45の大差で敗れました。

    日本 五郎丸歩選手の好タックルもスコットランドに敗戦

    日本は続く▽サモアに26対5、▽アメリカに28対18で勝って通算3勝1敗という過去最高の成績を残しました。

    しかし、同じグループで3勝1敗で3チームが並び、勝ち点で1位が南アフリカ、2位がスコットランド、3位が日本となり、日本は1次リーグで敗退しました。

    “五郎丸ポーズ”が話題に 五郎丸歩選手

    この大会では南アフリカ戦の盛り上がりとともにコンバージョンキックなどをしたフルバックの五郎丸歩選手がキックを蹴る前に取るポーズが「五郎丸ポーズ」として人気を集めるなど、日本代表の躍進はラグビーファン以外からも注目されました。

    第9回大会(2019年)

    日本 地元開催で初のベスト8に 南アフリカが3回目の優勝

    日本 初のベスト8 スコットランドに勝利
    日程 出場チーム数 優勝
    9月20日〜11月2日 20 南アフリカ

    第9回大会はアジア初の大会として日本で開催されました。

    日程は9月20日から11月2日で、全国の12都市で試合が開催され、170万4443人が観戦に訪れました。

    この大会で大きな注目を集めたのは、当時、世界ランキング9位の日本でした。

    日本 リーチ マイケル主将を中心に“ONE TEAM”

    日本は、ジェイミー・ジョセフヘッドコーチが指揮を執り、2大会連続でリーチ マイケル選手がキャプテンを務めました。

    日本は「ONE TEAM」をスローガンに掲げ、ベスト8進出を目標に臨みました。

    東京・調布市の東京スタジアムで行われたロシアとの開幕戦では序盤こそ固さがあったものの、松島幸太朗選手が3つのトライを決めるなど30対10で勝って好スタートを切りました。

    日本 優勝候補アイルランド戦へ

    2戦目は優勝候補の一角、アイルランドとの対戦で、静岡県のエコパスタジアムで試合が行われました。

    序盤は日本が守備に回る時間が多くなり、相手に2つのトライを奪われて前半を9対12で終えました。

    日本 途中出場の福岡堅樹選手が逆転トライ

    後半は力を入れてきた密集での攻防でボールを奪うなど試合の流れをつかみ、途中出場した福岡堅樹選手のトライで逆転しました。

    “もう奇跡とは言わせない”アイルランドに勝利

    日本は守備でも粘りを見せて後半、アイルランドには得点を与えず、19対12で勝ちました。

    続くサモア戦は愛知県の豊田スタジアムで行われ4つのトライを決めるなど38対19で勝って、この大会で3勝目を挙げました。

    1次リーグ最終戦のスコットランドとの戦いは、横浜市の横浜国際総合競技場で行われ、6万7000人を超える観客が詰めかけました。

    日本 “笑わない男”稲垣啓太選手がトライ

    試合は前半6分にスコットランドがトライを決めて先制しましたが、日本は17分に松島選手がトライを決めて同点に追いつき、プロップの稲垣啓太選手が代表初のトライを決めるなどリードを広げました。

    日本 快足ウイング 福岡堅樹選手“夢は医師”

    後半はスコットランドに2つのトライを返されましたが、最後まで集中した守備で逃げきり、28対21で勝ちました。

    日本は1次リーグ4戦全勝でグループ首位となり、初のベスト8入りを果たしました。

    準々決勝では南アフリカと対戦し3対26と力負けしましたが、日本ラグビー界にとって新たな歴史を刻みました。

    南アフリカ ファフ・デクラーク選手がトライ

    この日本代表の戦いぶりはラグビー界だけの盛り上がりにとどまらず、スローガンの「ONE TEAM」は、2019年の「新語・流行語大賞」にも選ばれました。

    この大会で優勝したのは準々決勝で日本を破った南アフリカでした。

    南アフリカは、フランカーのシヤ・コリシ選手が初めて黒人でキャプテンを務めるという歴史的なチームで、世界屈指のフィジカルを持ち味に強固なディフェンスを発揮し勝ち上がりました。

    決勝は南アフリカとイングランドが対戦しました。

    この試合は、南アフリカが2回目の優勝を果たした2007年に行われた第6回大会の決勝と同じ顔合わせでした。

    南アフリカ司令塔 ハンドレ・ポラード選手

    南アフリカは前半、強みのフィジカルを生かした攻撃で相手の反則を誘い、司令塔のハンドレ・ポラード選手が4つのペナルティーゴールを決め12対6とリードしました。

    南アフリカ マカゾレ・マピンピ選手がトライ

    後半25分には、ウイングのマカゾレ・マピンピ選手がキックしたボールをほかの選手がつなぎ、再びマピンピ選手が受け取って、この試合で両チーム通じ、初めてのトライを決めました。

    33分にもトライを重ね、イングランドを突き放しました。

    南アフリカは堅い守りでイングランドに1つのトライも許さず、32対12で勝って3大会ぶり3回目の優勝を果たしました。

    南アフリカ 初の黒人主将 シヤ・コリシ選手がウェブ・エリス・カップ

    一方、大会期間中には台風19号の影響で2試合が中止になるという史上初の事態も起きましたが、日本での開催は成功のうちに終了しました。

    アジアで初のラグビーW杯 大きな盛り上がりで閉幕

    日本代表