がんと闘った母
在日コリアン3世の李選手は、3人兄弟の末っ子として生まれた。
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父や兄2人の影響で4歳からラグビーを始め、だ円のボールを夢中で追いかけながらすくすく育った。
しかし、小学6年生のある日。李選手たち兄弟は父に呼ばれた。
そこで告げられた。
「オモニ(母)は、もうあと少しかもしれない」
闘病中だった母の容体が思わしくなかった。
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李選手の母・永福さんは乳がんだった。
乳がんの中でも進行がはやい「炎症性乳がん」。数年前から入退院を繰り返し、闘病生活を送っていた。
そばで見守っていた李選手の父・東慶さんが当時を振り返る。
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(李選手の父・東慶さん)
「手術して再発して、余命1年と言われましてね。そこから東京や京都など、いろいろ有名な先生のところに行きました。でもやっぱり、どの先生もあと1年だと言っていました。なかなか薬も効かず、本人は本当につらい思いをしたなと思います」
父・東慶さんは、闘病中の永福さんのことばが忘れられないという。
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(母・永福さん)
「承信が高校を卒業するまでは生きたいな」
しかし、その願いはかなわなかった。
李選手が小学6年生のとき、母は44歳の若さでこの世を去った。
(李承信 選手)
「入退院を繰り返していて、病気だというのは子どもながらに理解していましたが、亡くなった当初は、あまり信じられなかったというか実感がなかったですね。死なないだろうと思っていたので」
“ワールドカップに出てほしい”母の願い
李選手のラグビーを誰よりも応援していたのが母だった。
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ラグビークラブのマネージャーの経験もあるラグビー通。息子のプレーをときに厳しく、温かく見守ってきた。
(李承信 選手)
「ラグビーをしているとき、常にそばにいてくれたのが、お母さんでした。自分はけっこう調子に乗るタイプだったんですけど、その鼻を折ってくれるというか『常に謙虚に』と教えてくれたのは、お母さんでした。お父さんじゃなくて、お母さんからよく『練習しなさい』と言われましたね」
生前、母は、李選手が小学生のころからワールドカップで活躍する姿を思い描いていたという。
そんな母との思い出を話してくれた。
(母・永福さん)
「2019年のワールドカップに絶対出てな」
(李承信 選手)
「それは、まだ無理やろ」
2019年のワールドカップ日本大会。
出ようとすれば李選手は、まだ18歳。
日本のトップ選手に交じって代表入りするのは現実的ではなかった。
それでも母は、繰り返し、わが子に思いを伝えていた。
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(李承信 選手)
「ワールドカップは憧れではあったんですけど、正直、現実的に行けるとは思っていませんでした。でも、お母さんは、それを信じて願ってくれていました」
母が言っていた2019年大会の出場はかなわなかった。
それでも4年後の今、手が届くところに憧れのワールドカップがある。
どん底の入院生活 “支えとなった父”
最愛の母を亡くしたおよそ1か月後。
李少年を再び試練が襲った。
腎臓の病気にかかり長期の入院生活を余儀なくされたのだ。
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軽い運動も許されず、大好きなラグビーもできない。
医師からは「何年かはスポーツができなくなるかもしれない」と宣告された。
母を亡くしショックを受けていた時期。
悲しさと不安にさいなまれ、李少年は病院のベッドで泣いた。
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(父・東慶さん)
「ダブルパンチだったと思います。あの時だけはだいぶ落ち込んでいましたね。あれ以来、承信の泣いた顔は見たことないので、かなり大きなことだったんだと思います」
父は、苦しむ息子にかけることばを考え、伝えた。
(父・東慶さん)
「大丈夫。心配すんな。これ以上、悪いことはない」
幸いにもその後、病気は回復に向かった。
父は「亡くなったオモニ(母)が助けてくれたんちゃうかな」と語った。
“必死に生きるしかない”
母を亡くした兄弟3人。
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自分たちのために必死に働く父の姿を見て、迷惑をかけられないと、それぞれがラグビーを頑張った。
その姿を親戚やラグビースクールの保護者たちが支えてくれた。
(李承信 選手)
「必死に生きるしかなかったですね。いくら悲しんでも、お母さんは戻ってこないので。どれだけお父さんに迷惑かけずに家族のために頑張れるか。お母さんが亡くなってからは自分自身、本当にひとりの人間として強くなったと思います」
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李選手はその後、ラグビースクールの兵庫県選抜のキャプテンとしてジュニアの大会で全国優勝を果たす。
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ワールドカップイヤーに
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そして2022年6月、ウルグアイ代表とのテストマッチ。
ついに日本代表としてデビュー。
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李選手の寮の部屋には、初キャップを獲得したときの赤い帽子が置かれていた。
朝鮮学校出身者として初めての日本代表。
李選手が新たな道を切り開いた。
「日本代表になってほしい」という母の願いをかなえることができた。
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その後、フランス戦などでも活躍。
ワールドカップに向けて視界は良好だった。
しかし、うまくいくことばかりではなかった。
2月のリーグワン。
李選手は、コベルコ神戸スティーラーズの司令塔として、首位・埼玉パナソニックワイルドナイツと対戦した。
前半16分、密集の中で味方のひざが顔面を直撃。
あまりの痛さにうずくまる李選手。
そのまま交代となった。
衝撃の痛みを「眼球が落ちた感じ」と表現した李選手。
ロッカールームに引き上げ、うなだれるしかなかった。
ものが二重に見えたり、ゆがみが出たりして、しばらくの間、痛みと気持ち悪さが続いた。
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診断の結果は、右目の眼か底骨折。
チームのために役割を果たせなかった。
申し訳なさとともに、ワールドカップへの不安が頭をよぎった。
けがや不調はアスリートには必ずやってくる波。
李選手は、その苦難をどう乗り越えたのか。
そこには亡き母の存在があった。
(李承信選手)
「つらい時期があると、お母さんの闘病生活を想像して、常にお母さんに置き換えながら考えています。自分が感じるプレッシャーやつらさは、お母さんに比べたら全然へっちゃらなんだって。そういうふうに置き換えながら過ごしています。すごく強い存在でしたね、お母さんは」
手術後、必死のリハビリに励んだ李選手。大けがからおよそ40日後、リーグ戦に復帰した。
亡くなってもなお、背中を押してくれている母とともに。
強く優しい子に育って 手紙に込められた思い
取材の中で、李選手の父・東慶さんが古いアルバムを見せてくれた。
そこには、母が幼い息子にあてた手紙があった。
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「いつも元気でかわいい笑顔の承信 たくさんの友達たちに、よろこびと信頼をあたえ、男らしく、強くて、優しい子に育ってください」
名前の承信の「信」には「信頼される人になってほしい」という願いが込められている。
久しぶりに手紙を読んだ李選手は懐かしそうに語った。
(李承信 選手)
「常に信頼される人になってほしいっていうのは言われていました。まだ22歳ですけど、より信頼されて強くて優しい人間になりたいなと心の底から思いますね」
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そして、同じ手紙を読んだ父。
涙をこらえながら語った。
(父・東慶さん)
「この手紙にはオモニ(母)の気持ちが入ってますよね。承信はそのように育っていると思います」
その表情はどこか誇らしげだった。
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9月にフランスで開幕するラグビーワールドカップ。
日本代表は6月から千葉県浦安市や宮崎市で合宿を行い、最終メンバーを33人に絞り込む。
母の思いを胸にフランスの地で輝けるか。
李承信選手の本当の戦いが始まる。
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