証言 当事者たちの声生き残ったからこそできることは~笹子トンネル事故から10年

2022年12月2日事故

中央自動車道の笹子トンネルの天井板が崩落した事故。そのとき、現場をたまたま通行していて、奇跡的に脱出した記者がいます。

事故が起きた瞬間にその場にいた「当事者」として、事故そのものと、そして遺族とも向き合ってきました。

「生き残ったからこそできることとは、いったい何なのか」

悩み続けた記者の背中を押したのは、遺族の言葉でした。

(聞き手 NHK記者 高橋大地)

笹子トンネル事故
2012年12月2日午前8時3分、山梨県大月市の中央自動車道・笹子トンネル上り線でつり下げられた天井板が長さ約140メートルにわたって崩落。走行中の車4台が巻き込まれ、うち3台が下敷きになり、9人が死亡、3人がけがをしました。

遺族の10年について紹介した記事はこちら

トンネル崩落のさなか 踏んだアクセル

2012年12月2日、日曜日。その日、甲府市は朝から晴れ渡っていました。

当時、NHK甲府放送局に勤務していた後藤喜男記者は、都内に治療に行くため早朝に市内の自宅を車で出発しました。車には妻も同乗していました。

中央自動車道を東京方面に順調に進み、笹子トンネルにさしかかったのが午前8時頃。
全長4.7キロほどあるトンネルで、追い越し車線を走っていたところ、違和感を覚えたといいます。

後藤喜男記者

「車を走らせていたら、急に左上の隅の方にボコッと黒い隙間ができたんですよ。あれ?なんだろうと思った。表面の石膏ボードか何かが剥がれたのかな、イヤだなと思っていたら、突然ものすごい音と衝撃が来たんです。天井がメリメリと何かを剥がすように崩れてくる。左側の方から剥がれ始めて、次に右側も剥がれて。生き物みたいに、蛇がうねるように流れるように落ちてきました」

ガガガッ。上から落ちてきた天井板と車がこすれるような激しい音が響き、加速が鈍くなりました。

事故直後の笹子トンネル内

ブレーキを踏むことなく、まっすぐ進もうと、真っ正面を見てアクセルをぐっと踏みました。
とにかく前へ、前へ。

なんとかしてここを抜けなければ。ただそれだけを考えて進むと、ある瞬間に車がフワッと進むようになり、加速できるようになったといいます。崩落している場所を抜けられたのかもしれない。

しかしそのとき、ふと左を見ると、思いもよらないことが起きていることに気づきました。助手席側のスペースが大きくへこんで、原形をとどめていませんでした。

そして、助手席に座っていた妻の頭がちょうどシフトレバーの辺りまで押しやられているような状態だったのです。

後藤記者が運転していた車

何度も何度も、妻の名前を呼んで声をかけ続けたといいます。

しかし、返事はなく、反応もまったくありません。

「妻を死なせてしまったのではないか…」

当時、結婚してからまだ半年もたっていなかった後藤記者は、あまりの出来事に一瞬、「もうどうでもいい、もはや生きている意味もない」とまで思ったといいます。

何十秒だったのか、何分だったのか、今となっては思い出せないという時間が過ぎたところで、妻が「痛い…」と小さな声を発しました。

「その瞬間は、あぁ、よかったと。本当に安心しました。もうそれだけでした。そして、よし、ここからなんとか生きて脱出しようと、アクセルを踏みました。ただ、思ったよりスピードが出ない。今考えると、どこか少し車が故障していたのかもしれません」

脱出したけれど “何もできなかった”

どうにかトンネルを無事に抜け、車を止めたところで妻を見ると、頭から出血していました。

ただ、意識ははっきりしていて受け答えもできるようになっていたので、改めてほっとしたといいます。

いったん、ガードレールの外側に妻を避難させたあと、トンネル内に取り残された人の一刻も早い救助が必要だと思い、妻に聞きました。

「行ってきてもいい?」
「いいよ。大丈夫だから行っておいで」

そばにずっと寄り添うのが正しいのかもしれない。

でも、いまこの現場で自分に何かできることもあるはず。

妻に背中を押してもらって現場に向かいましたが、トンネルの出口付近で立ち尽くしてしまいました。

トンネルの中から外に向けてもくもくと上がり続ける黒煙。

誰か助けを待っている人がいるかもしれない。

でも入っていったら、自分も確実に死んでしまうだろう。

大きな事故を目の前にして、何もできない。

何一つ役に立てない。

そのことがただただ悔しかったといいます。

後藤記者は、110番通報のあと甲府放送局に事故の一報を伝えて原稿にしてもらうとともに、現場の映像をスマートフォンで撮影しました。

事故直後に後藤記者が撮影した写真

「写真を撮っているときに、ふと空を見上げると、すっきりとした青空に煙が徐々に広がっていって。まるでバケツに入った水に墨がすっと広がっていくようだったんですよね。
それが妙に怖くて。ああ、こうして、なんでもない日常が一瞬にして非日常となって、崩れて変わってしまうんだと思ったことを今でもよく覚えています」

当事者としての証言に批判が

9人が亡くなり、3人がけがをしたこの事故。天井板の崩落の瞬間を目撃した後藤記者に対して警察による事情聴取が続いたほか、NHKもインタビューを行いました。

事故の起きた翌日にはその証言が放送されました。

しかし、放送直後からインターネット上の一部の掲示板では批判や中傷が相次いで書き込まれたといいます。

「自慢話みたいに語るのはどうか」
「ドヤ顔で生還した意見を語って、遺族感情を逆なでしている」
「このNHK職員が犠牲になれば良かったのに」

わざわざ見なければいい。

そうわかってはいても、思わずネットを検索してしまったといいます。

事故原因の解明や、同じような事故が起きることを防ぐことにつながるかもしれないと思って受けたインタビューでしたが、思ったようには伝わらず、被害者でもあるのに、あらぬ批判や中傷にさらされました。

「つらかったですね。メディアが伝えることで、証言した当事者が批判されてしまう。新たな被害を生むこともありうるんだってことに、それまで無自覚だったかもしれません。自身がそれを体験する立場になって、そのことに改めて気づかされました」

当時、全国のNHKの放送局では、衆議院選挙の投開票日に向けて取材が佳境を迎えていました。

その日以降、後藤記者は事故から目を背けるように選挙に関する取材だけに全力を注ぐようになっていきました。

“生き残ってすみませんでした”に遺族は

後藤記者はその後、同僚や友人たちと話をするときも、みずから積極的に話題にするようなことはなかったといいます。

「今思えば、自分でもっと事故について取材すればよかったかもしれない。でも、“自分は当事者だから”と変な言い訳をして、何もしなかったんですよね。後輩たちも頑張ってこの問題を取材していたので、じゃまをしたらいけないから任せようと。ご遺族への取材も頑張ってくれている、だからいいやと。
でも、それは言い訳で、正直に言うと、ご遺族の皆さんにどんな顔をして会ったらいいかわからなかったんです。自分たちだけ生き残ったわけですから」

しかし、いつかは遺族の方たちとも、向き合わないといけない。逃げ続けるわけにはいかない。後藤記者は、そう考えていました。

事故から1年がたったとき、その日はやってきました。

山梨県内で行われた追悼慰霊式に、妻とともに当事者として出席することになったのです。

式の前日、遺族や被害者は中日本高速道路が手配した同じ宿に泊まることになっていました。無論、自分たちのせいで事故が起きたわけではないとわかってはいるものの、遺族にどう顔を合わせたらいいかわからない。

ふんぎりがつかず、なかなか声をかけられませんでしたが、このまま何もしないままでいるわけにはいかないと、思い切って遺族の前に出ました。

「僕らだけが生き残ってしまって、本当に申し訳ありませんでした」

ふたりそろって、そう言葉が出ました。ごく自然にその言葉になったのです。

それを聞いて、事故で亡くなった石川友梨さんのご両親たちから次のように声をかけられたといいます。

「後藤さん、あなたたちが生き残ってくれて本当に良かったと思っていますよ」

事故から1年間。現場で何もできなかったことを悔やみ、そして批判にさらされました。

さらに、妻に怪我をさせてしまい、後遺症などが出ないか心配し続けてきました。いつもどこかで自分のことを責める気持ちがあった毎日でした。それが、石川さんご夫婦の言葉で、救われた、肩の荷が少しおりたような気持ちになったといいます。

思いを新たにする12月2日という日

この年以降も、後藤記者はどうしても出席できなかった1年をのぞき、毎年12月2日の追悼慰霊式に出席し続けています。

「奥さんは元気?後遺症とかはない?」

毎年、毎年、出席する中で、遺族の人たちと交流し、お互いの近況を話し合うようにもなりました。10年という月日は長い。家族を失った遺族の中には、新たに家族が誕生した人もいるし、後藤記者自身も子どもを授かりました。

亡くなった人たちと、自分たちの間には、なんの違いもなかった。ただ、運が良かっただけ。亡くなったのは自分たちだったかもしれない。自分の親が追悼慰霊式に毎年出席する立場だったかもしれない。でも、自分は生き残った。家族で暮らし続け、子どもの成長を日々見続けることもできる。

しかし亡くなった人たちには、もうそれはかなわない。自分だけこうしていていいのか。

毎年、追悼慰霊式に行くたびにどうしても“罪の意識”がわいてくるのを抑えきれず、自問を続けてきたといいます。

「突然、理不尽なことが起きて命を奪われる。そんなことはもう二度と起きてほしくない。そうして失われる命を少しでも減らしたい。そういう思いで、日々の取材にあたっていきたいと思っています。

日々のニュースを伝える仕事に追われていると、その気持ちが薄れてきてしまうこともある。でも、追悼慰霊式でご遺族の皆さんと会ってお話しして、自分の思いを新たにする。かみしめる。僕にとって12月2日はそんな日でもあるんです」

“事故の瞬間を伝えられるのは僕たちだけだから”

事故から1年後の追悼慰霊式で、遺族の皆さんから「生き残ってくれて本当に良かった」と声をかけられたあとも、後藤記者は事故に関する自身の思いを表に出すことはなく、ずっと押しとどめてきました。

去年、改めて話を聞きたいと後藤記者に依頼したところ、「少し待ってほしい。ご遺族の皆さんにことわっておきたい」という返事がありました。

自分が前面に立って話をすることは、本当によいことなのだろうか。遺族の皆さんを傷つけてしまうことにならないだろうか。そう葛藤し続けてきた後藤記者は、遺族の気持ちを確認することなく証言はできないと考えたといいます。

そして、去年の追悼慰霊式で遺族と顔を合わせたときに、インタビューを受けてよいか、石川さんたちに尋ねました。

「もうすぐ10年という月日がたつ中で、自分たち遺族が伝えられることも、毎年同じになってしまっているという思いもあります。後藤さんが事故のことを伝えてくれるなら、ぜひそうしてください」

石川さんたちからそう言葉をかけられ、背中を押されたといいます。

「事故で亡くなった方たちは、そのとき、本当に怖くて、つらい思いをされていたはずです。でも、そのときの気持ちを伝えたくても、もう伝えることができない。
逆に、事故の瞬間を目撃した、そのときの恐怖というのは僕たちにしか話せない。だから伝えなくちゃいけないんだって。
当時は批判もありました。でも、10年がたって、石川さんたちに背中を押してもらい、改めてそう思えるようになったんです」

“あんたは生かされたんだ”

10年前、事故が起きたあと、後藤記者のもとには、多くの知人や取材先から気遣いの電話がたくさんかかってきました。その中で、今も忘れられないのが、初任地の三重県で親しくしていた元警察官からの一言でした。

「あんたは生かされたんだよ。その分、働かなければいかんよ。働かなければ。そういう運命なんだと思ってな」

いま、後藤記者はNHK岐阜放送局でニュース部門の責任者を務めています。そして、事件・事故担当のデスクとして、若い記者たちと日々向き合い、ニュースの最前線に立って取材指揮にあたっています。

「以前から全国的にインフラの老朽化について指摘されていて、もっとそれを細かく伝えていたら笹子トンネルの事故も防げたかもしれないと考えています。

毎日、1つ1つのニュースを大切にする。1つ1つを大切に伝えることで、間接的にでも救える命があるかもしれない。そう、若い記者たちには伝えていきたい。

自分は『生き残った』、そして『生かされた』。そう思って、自分にしかできない仕事とは何かを問いながら、日々ニュースと向き合っています」