証言 当事者たちの声「10年間開けられなかった」~娘のトランクに遺されていたもの

2022年12月1日社会 事件 事故

10年前の2012年12月2日。
中央自動車道の笹子トンネルで最愛の娘を亡くした夫婦がいます。

突如、崩落したトンネルの天井板。あの事故から娘の、そして夫婦の時間は止まりました。

事故から10年がたったことし、夫婦はこれまで触れることができなかった遺品のトランクを初めて開きました。

”おいしいおべんとうをつくってくれる。そんなおかあさんがだいすきです”

トランクを開けて感じたのは“娘の存在”そのものでした。

トンネルの天井板が…

崩落したトンネルの天井板

笹子トンネル事故
2012年12月2日午前8時3分、山梨県大月市の中央自動車道・笹子トンネル上り線でつり下げられた天井板が長さ約140メートルにわたって崩落。走行中の車4台が巻き込まれ、うち3台が下敷きになり、9人が死亡、3人がけがをしました。

遺族の10年

亡くなった石川友梨さん(当時28歳)。
仲間と一緒に山梨県へ旅行に行った帰り道、笹子トンネルの事故に巻き込まれました。

ことし10月、神奈川県横須賀市に住む父の石川信一さんと母の佳子さんが取材に応じてくれました。

信一さん
「あっという間の10年だった。無我夢中できょうまで生きてきましたよ」

小さい頃から明るく活発な性格だったという友梨さん。
都内の教育関連の企業に就職し、シェアハウスで多くの仲間と一緒に充実した暮らしを送っていました。
今も、どこかで生きていてくれているのではないかと思うことがあるといいます。

信一さん
「事故のことは今でもきのうのことのように頭に浮かぶし、娘が亡くなったこと自体信じられない気持ちです。街なかで似たような子を見かけると『もしかして生きてくれているんじゃないか』ってはかない望みが心に浮かぶんです」

10年前のあの事故

信一さんと佳子さんのもとに警察から電話が来たのは12月2日の午後5時半ごろ。

「娘さんが事故の巻き添えになった可能性があります」

すぐに2人は車で山梨県へと向かいました。

佳子さん
「国道20号線を走りながら笹子トンネルが炎上しているのが見えて、『このなかに本当に友梨がいるのかな』という気持ちでした。警察署に着くと、友梨が巻き込まれたとみて間違いないだろうと言われたけれど、頑張り屋な子だからなんとか生きてるんじゃないかと思っていました」

そんな切実な願いとは裏腹にその5日後、遺体で見つかった1人が友梨さんと判明しました。
信一さんと佳子さんは再び山梨県へと向かい、友梨さんと対面しました。

信一さん
「もともときゃしゃでしたが、重さ10キロほどの悔しい姿に変わり果てていました。ひつぎに納めたときの、軽さが今でも手に残っています」

友梨さんが持っていた部屋や実家などの鍵

友梨さんが事故に巻き込まれたときに持っていた黒く焦げた鍵。

「いつか友梨が取りに来るのではないか」

そんな思いで仏壇のなかにしまってあるといいます。

娘が遺したトランク

多くの仲間に恵まれたという友梨さん。遺影にはネックレスがかけられていました。

友梨さんにプレゼントしようと友人が買っていたもので、事故のあと自宅に届けてくれたといいます。

ご自宅には生前に身につけていたアクセサリーや動物の写真集などの遺品も飾られていました。

佳子さん
「多くの遺品は欲しいというお友達などにお渡しし、残ったもののなかで友梨が好きそうなものを飾っているんです」

その傍ら。セピア色のトランクが置いてあるのが目にとまりました。

エッフェル塔が描かれた素敵なデザイン。友梨さんのものと思い、「何が入っていたのですか」と、ふと尋ねました。

佳子さん
「(友梨は)こういうかわいいの、大好きだったんです。でも、実は開けたことがないんです」

トランクに詰められたもの

トランクは事故のあと、シェアハウスに荷物を引き取りに向かったとき、友梨さんの部屋に置いてありました。

ずっしりと重いトランク。
自宅に持ち帰ったあとも、友梨さんのものを見ると悲しくなると考え、開けられなかったといいます。

佳子さん
「狭い部屋だったのですが、荷物があって、そのなかにありました。見ると悲しくなるのでその後も開けられませんでしたが、自分だけじゃなく人もいるし、今なら見られるかもしれません」

トランクをテーブルの上に乗せ、ロックをはずした信一さんと佳子さん。
入っていたのは友梨さんが幼い頃書いた作文や学生時代のノートなどでした。

まず佳子さんが手に取ったのは小学校に入った友梨さんが生まれてからの成長を写真とともに記した作文です。

小学1年生のときの作文

三姉妹の次女として誕生した友梨さん。
紙には0歳の頃のにっこりとかわいい笑顔の写真が貼ってあります。

三姉妹で(左が友梨さん)

佳子さん
「生まれたばかりの頃は体重がなかなか増えなくて苦労をしたけど、成長するにつれて体が丈夫になってちょっぴり気の強い活発な女の子でしたね」

さらに中身を1つずつ取り出していくと小学2年生の頃のノートが出てきました。

そのなかの1ページに「おかあさん」という題の作文がありました。

”いつもおいしいおべんとうをつくってくれる。わるいことをしたらおこってくれる。しらないことをおしえてくれる。そんなおかあさんがだいすきです”

佳子さんはトランクを開いて、“友梨さんを感じた”といいます。

佳子さん
「『ああ、友梨だ』と思いました。古いものをとっておくし、きちんと整理して置いてあったトランクの中身そのものが“友梨だ”と思った。私たちが友梨に会いに行ったのか、友梨が私たちに会いに来たのか、、、そんなような懐かしさを感じる気持ちになりました」

学生時代の部活の日誌や友達からの寄せ書きもありました。
初めて見た寄せ書きの一つ一つをじっと見つめていた信一さん。ぐっと思いをこらえるような顔で友梨さんのことを話してくれました。

信一さん
「友梨の名前は ”梨が実るように友達がたくさんできますように”と名付けたんです。名前の通り友達が多くて、分け隔て無くみんなと仲よくする気さくな子に育ってくれました」

楽しい日々を事故が奪った

そんな友梨さんは就職したあと、たくさんの人と一緒に生活がしてみたいと東京のシェアハウスに引っ越して暮らしていました。

そこでできた同年代の仲間たちとホームパーティーをしたり、旅行に行ったり。
名前に込められた願いの通り、多くの友人に囲まれた友梨さんの写真は笑顔のものばかりです。

しかし、そんな日々は突然奪われたのです。

絶望のなかで始めた”対話”

なぜ友梨は命を落とすことになったのか。どうして天井板が落ちたのか。
この10年、信一さんと佳子さんは答えの出ない問いを続けてきました。

事故後の捜査や国の事故調査委員会の調査で
▼事故現場付近の天井板をつるすボルトが老朽化し抜け落ちて事故が起きたこと
▼そのボルトの付近が12年もの間、詳しく点検されていなかったこと
▼さらに、事故の直前、トンネルの詳しい点検が延期となっていたこと
などが明らかになってきました。

事故調査委員会の報告では「トンネルを管理する中日本高速道路の点検内容、維持管理体制は不十分だった」と指摘しています。

さらに、2015年、中日本高速道路などに対して遺族らが損害賠償を求めた裁判では会社の過失が認められ、横浜地方裁判所は「有効な点検を行っていれば、事故は回避できた」として、賠償を命じる判決を言い渡し、その後、確定しています。

一方で、まとめられた報告書などを読んでも、なぜ、点検が延期されたのか、なぜそのことに対して現場から問題視する声があがってこなかったのか、疑問に対する納得のいく答えは得られていません。

中日本高速道路の担当者と面談

信一さんと佳子さんは事故直後からトンネルを管理する中日本高速道路の担当者と月1回の面談を続けてきました。

「詳しい事故の真相を知りたい」

「事故を風化させてはならない」

その思いを伝え続けるためです。

しかし、事故から10年という時間の経過を感じることもあります。社員の3割以上が事故後に入社した世代となりました。

「このまま、風化していくのではないか」

危機感を感じることがあるといいます。

ことし10月の面談。信一さんと佳子さんは改めて強い思いを伝えました。

信一さん
「真相を解明してほしいというのは私があの世に行くまで言い続けます。二度とこんな不幸を招かないようによろしくお願いします」

これからもずっと問い続ける

事故当時、長女の初めての子どもで1歳だった初孫は小学生に。今では孫が5人に増えました。
時は止まらずに流れても、信一さんと佳子さんの友梨さんへの思いは変わることはありません。 

信一さん
「友梨に会いたくて会いたくてしかたがないんですよ。今でもなぜ友梨が天国に行ってしまったのか真相解明がされずもんもんとした気持ちを拭い去ることができません」

佳子さん
「友梨のお友達が結婚したよ、子どもを産んだよって聞くと友梨も結婚してたかもしれないなって。ウエディングドレス姿はどうだっただろうとついつい重ねて考えてしまうんです」

取材の途中、信一さんは友梨さんの遺影を見つめながら、ぽつりとつぶやきました。

「会いたいね」

  • 甲府放送局記者 神田詩月 2020年入局 県警・司法を担当
    大学時代は途上国の経済などを勉強