
「情報を吐かせようとするロシア軍の兵士からあばらを殴られ、首を絞められました。十分な食事も与えてもらえず、体は痩せ細りました」
165日間、5か月以上にわたってロシア軍の捕虜となったウクライナの女性衛生兵が明かしてくれたことです。
いったい長期の拘束生活とはどんなものだったのか。話を聞かせてもらうことができました。
(国際部記者 高須絵梨)
証言してくれたのは
ウクライナ軍の衛生兵だった女性、ビクトリア・オビディナさん(28)です。
看護師として、ウクライナ東部の要衝マリウポリで、激戦が行われたアゾフスターリ製鉄所で兵士たちの看護に当たっていました。
しかし、去年2022年製鉄所から退避する際、ロシア軍に捉えられ、165日間、5か月以上にわたって捕虜として拘束されました。
拘束されるきっかけとなったのは、オビディナさんがSNSで投稿した動画。
オビディナさんは製鉄所で当時4歳だった娘のアリサちゃんと避難生活を送っていました。
ロシア軍による製鉄所への攻撃を非難して、支援を求めようとアリサちゃんが「家に帰りたい」などと訴える動画を投稿。

しかし、これがロシア側の目にとまり、オビディナさんが製鉄所から退避する際、拘束されることになったということです。
アリサちゃんは退避することが許されましたが、オビディナさんはウクライナ東部ドネツク州の親ロシア派が支配する地域にある捕虜の収容施設など、複数の場所で拘束され続けたということです。
(以下、オビディナさんの話)
拘束される前の製鉄所の中はどんな状況でしたか?
私が暮らしていたマリウポリは、ロシア軍に占領されてきていたので、3月20日頃、製鉄所に娘と一緒に避難することを決めたんです。

製鉄所の中では、けがをした兵士に、包帯を巻いたり、薬を配ったり、それに点滴や注射をしたりしていました。
けが人の数に対して、医療関係者の数が少なかったので、やるべきことが非常に多かったです。
捕虜としてどんな対応を受けましたか?
情報を吐かせようとするロシア軍の兵士からあばらを殴られ、首を絞められました。
彼らは製鉄所にいる兵士たちが、どのくらい生き残っているのかなど、ウクライナ軍の情報を知りたがっていました。
ただ、情報を得られないと、私を部屋に閉じ込めるんです。
部屋の窓には鉄板が打ち付けられていて穴は開けられているのですが、でも換気は悪くて、空気は常によどんでいました。
部屋は2人用でしたが、11人が収容されていました。その後、6人用の部屋に移りましたが、そこでは24人が閉じ込められていました。
性的な嫌がらせはありませんでしたが、ロシア兵は暴力を振るうんです。顔ではなく、足や腕など体の部分を。
時には、電気ショックを与えられることもありました。
目隠しをされ両手を後ろに回して「走れ」と言われ、壁にぶつかると、からかわれました。
「お前たちの存在価値はない」「誰にも必要されてない」という言葉も投げつけられました。
食事は提供されるのですか?
ある収容所では、食事は1日3回ありました。
ただ、たまに食事の中にゴキブリが入っていました。空腹でしたので、ゴキブリを取り除いて食べました。
朝に出されるおかゆを作るのに使った鍋は、そのまま洗わずに昼の食事のために使われることもありました。
飲み水として使われていた水は、池でくんだ水をしばらく放置していたからか、小さな生物がいました。小さな魚も泳いでいました。
食べていた料理としては、朝に大麦のおかゆ、昼にスープでした。ただ、スープというよりは水でした。たまにスープの中には、小さなジャガイモ、あるいは少しだけキャベツが入っていました。
夕飯は、小麦か大麦のおかゆでしたね。
十分な食事を与えてもらえないので、体は痩せ細っていきました。
私の場合は、おそらく体重が7,8キロは減っていたと思います。
寝る場所はあったのですか?
寝る環境はひどかったです。1つのベッドに2人で寝るんです。
時には、床やテーブルの上、どこか寝る場所を見つけて寝ていました。部屋の広さに対して、収容される人の数が多くて、非常に狭かったからです。
男性と女性が収容される場所は分けられていて、収容施設の1階は女性、2階が男性でした。
1日の行動は決められていたのですか?
夜10時から朝6時までが就寝時間で、午前7時半には点呼がありました。
夜10時に寝ることにはなっていましたが、誰も寝ていませんでした。本を読むことは許されていたので、みんな読んでいました。私も本を読むことが気分転換になっていました。
日中は、パンを焼くなどの作業をしなければなりませんでした。
散歩は2週間に1度許されていて、15分から20分ほど散歩することはできました。
どのようにして解放されたのですか?
事前に説明はなくて、10月17日に名前を呼ばれたんです。その時は、また別の収容施設に連れて行かれるんだと思っていました。
目隠しをされて手を縛られて車に乗せられました。
着いた場所は飛行場でした。そこで目隠しを外され、トラックに乗せられたのですが、ザポリージャ方面に向かっていることがわかりました。
その頃、捕虜交換がザポリージャ周辺で行われていたと聞いていたので、もしかしたら捕虜交換かもしれないと思いました。
ただ、最後まで半信半疑でした。ある橋に到着して、捕虜交換が行われることを願っていたのですが、誰もいなかったんです。
もし、捕虜交換が行われなかったらどうしようと思うと、とても怖かったです。
でも、ウクライナ側のバスが見えたんです。ウクライナ語も聞こえました。
その時初めて、解放されるんだと実感することができました。

娘のアリサちゃんとはいつ再会したのですか?
12月の中旬、ようやくアリサが避難しているポーランドで会うことができました。
とてもうれしかったです。
長い間顔を見ることができませんでしたから。
今は、ずっとアリサと一緒にいます。
アリサちゃんと再会するまで時間が空いたのはなぜですか?
精神的なケアや、リハビリを受ける必要があったからです。すぐには元の状態に戻ることができなかったのです。
医療機関では毎日アンケートに答えて、その回答をもとに治療方針を決めていきました。
今ではだいぶ回復し、治療も受けてはいませんが、薬は毎日飲んでいます。
ただ、精神的に強くなりました。鍛えられたとも言えます。

一方で、私の中の感覚、認識、常識が変わり、今までとは同じ生き方はできないとも思っています。
過酷な状況の中で生き残る“すべ”を学ぶという意味では大事な経験でしたが、もうこのような経験はしたくありません。
状況が落ち着いたら、今避難しているポーランドからウクライナに戻って、看護師の仕事をしたいと思っています。
今、伝えたいことはありますか?
早くこの戦争が終わってほしいです。
まだ、ウクライナの兵士たちの中にはロシア軍の捕虜となっている男性や女性が残っているのです。
すべての捕虜が解放されて、家族のもとに帰れることを願っています。
