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「収容所から解放されたとき、父の体重は32キロでした」
両親がナチス・ドイツによるユダヤ人の大量虐殺「ホロコースト」を生き抜いたという、77歳のユダヤ人男性は、50年以上にわたってパレスチナの人たちのために声を上げ続けています。
その原点は建国まもないイスラエルで10歳の時に経験した、ある出来事にありました。
(ロンドン支局記者 松崎 浩子)
アウシュビッツから生還した両親
イスラエル出身のユダヤ人、ハイム・ブレシートさん(77)。
イギリスでパレスチナ人との連帯を掲げるユダヤ人団体の共同代表を務めています。
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ブレシートさんの両親は、ナチス・ドイツによるユダヤ人の大量虐殺「ホロコースト」の生き残りでした。
600万人を超えるユダヤ人が組織的に殺害され、世界史上、例のない大虐殺とされるホロコースト。ポーランドに住んでいたブレシートさんの両親も1944年、アウシュビッツ強制収容所に送られました。
ブレシートさん
「父と母は同じ町のゲットーに住み、お互いの家族を知っていて、同じ日にアウシュビッツに連れて行かれました。アウシュビッツでは男女別々でしたが、2人は収容所にいたときに一度だけ会ったのです。
フェンスのそばに父が立っていたとき、仕事から戻ってきて行進している女性たちの中に母の姿を見つけました。そして、持っていた小さな一切れのパンを母に投げたそうです。
母は父がパンを投げてくれたことを生涯、忘れないと言っていました」
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ブレシートさん
「1945年に入って戦況が不利になってくるとドイツ軍は父がいた収容所を閉鎖し、男性たちはオーストリアに連れて行かれました。それは『死の行進』と呼ばれ、約半数がその途中で亡くなったそうです。
オーストリアに到着した人たちは、ドイツ人自身が『地獄の中の地獄』と呼んでいた、恐ろしい場所に送られました。
そこで父たちは、馬よりも安く、馬よりも食べる量が少ないという理由で、裸のまま台車に縛り付けられ、その台車を押したり引いたりしていました。
仕事は過酷で食べ物も少なかったので、生き延びることは不可能でした。父は2月の初めに到着し、5月8日にアメリカ軍によって解放されましたが、解放されたときの体重は32キロでした。
骨と皮だけの、生きた屍のようになっていました。あと1、2週間続いていたら、父は亡くなっていたでしょう」
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イスラエルでは「よそ者だと感じた」
収容所から解放された両親はイタリアの難民キャンプに向かい、そこでブレシートさんが生まれました。
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1948年、イスラエルが建国。それに伴って、アラブ系の住民、パレスチナ人の多くがイスラエルによって住まいを追われました。
一方、ブレシートさん一家はこの年、イスラエルに渡り、テルアビブの南にある海沿いの町で新たな生活を始めたのです。
ブレシートさん
「そこに住んでいたユダヤ人は、強制収容所から来た人たちだけで、町全体が収容所からの難民、いわば“生存者”でした。あとは、イスラエルに土地を追われ難民となった『ナクバ(大惨事)』を生き延びたパレスチナ人たち。
そこは“生存者”の町だったのです。どちらも、大きなトラウマを抱えながら生き残った人たちでした」
ただ、ホロコーストを生き延びた人たちの多くは、ナチスと戦わなかった「弱者だ」とみなされることを恐れ、イスラエルではほとんど、過去の経験を語らなかったといいます。
ブレシートさん
「イスラエル人は生存者の話にとても鈍感で、耳を傾けようとしませんでした。それは私たち家族をイスラエルで孤立させることになりました。
私たちはヘブライ語を話し、イスラエル人でありたいと思いましたが、よそ者であると感じました。私たちは基本的に必要とされていない少数派でした」
忘れられない10歳の時の出来事
そんなブレシートさんにとって、今も忘れられない出来事があります。
当時一家が住んでいたのは、もともと、パレスチナ人が暮らしていた家でした。母親からは、いつもこう聞かされていたといいます。
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ブレシートさん
「私が5歳か6歳の頃から『ここは私たちの家じゃない。あなたが赤ん坊の時に追い出されたパレスチナ人の家なの。いつか彼らは戻ってくるから、私たちは彼らにこの場所を返すのよ』と母は言っていました。
そして彼らが残していった荷物を全部まとめて、きれいに保管していました。
私はイタリアで生まれましたが、自分が住んでいたローマの家を覚えておらず、イスラエルの家が私が知っていた唯一の家だったので、非常にショックを受けたのを覚えています。
母の言っていることが理解できず、自分の家がなくなってしまうのではないかと心配していました」
ブレシートさんが10歳になったある日、明らかにアラブ人だとわかる女性2人と3人の子どもが路上から家の方を見ているのに気付き、母親に「彼らが帰ってきた」と伝えました。
ブレシートさん
「彼らに家の中を見てもらった後、母が『あなたたちが戻ってきた時のために全部取っておきました。荷物は全部ここにあります』と言って保管していた荷物を見せると、彼らは泣き始めました。
母親たちが泣いていたので、私と妹、3人のパレスチナ人の子どもたちもみんな泣いてしまいました。
年配の女性が私の母に『あなたはとても特別な女性です。私たちのものを守ってくれて、とても感動しています』と言いました。
私が10歳だったこの日は、おそらく私の人生で最も重要な日でした。
なぜなら、『この人たちは敵ではない、私や妹や父を殺したいわけではない』とわかったからです。
私たちイスラエル人が、この2人の女性と3人の子どもたちにしたこと、それこそがひどいことだということを理解したのです」
このとき、パレスチナ人の親子はガザ地区から数時間だけ出る許可がおりて、自分たちの家に戻ってきていました。
その日、一緒に食卓を囲んだ親子は「また戻ってくる」と言ってガザ地区に戻りました。しかし、再び家を訪ねてくることはありませんでした。
受け継がれたホロコーストの記憶
ブレシートさんの父親は、人を殺す可能性のある軍隊に入り戦うことを拒否し、拘束されたこともありました。
しかし、自分たちが証人になるために生き残ったのだと信じていた両親は、ブレシートさんにホロコーストの経験を伝え続けたといいます。
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ブレシートさん
「両親はとても強い人でした。彼らが私たちにもたらしたものは、このようなことが再び起こってはならないという生きた記憶です。そして、人々に対する暴力にとても敏感になるように教育してくれたのです」
このためブレシートさんは、ネタニヤフ首相やイスラエル政府が「私たちはホロコースト以来最も野蛮な敵と戦っている」などと、たびたび「ホロコースト」という言葉を使うことに強い違和感を覚えると言います。
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ブレシートさん
「ホロコーストは人道に対する恐ろしい犯罪です。私はそのことを一番よく知っていますが、誰かを傷つけることを正当化する目的では、決して使うべきではありません。
イスラエルは長年、ホロコーストという単語を、ガザで人々を殺すことを正当化するために利用しているのです」
広がるパレスチナ支持の声
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ブレシートさんは通信兵として兵役に就いたものの、人を殺す可能性のある国にはいたくないとイギリスに渡りました。
その後、大学で教鞭をとりながら、50年以上、パレスチナの人たちを支援する活動を続けています。
ブレシートさんは10月7日以降、停戦を求める多くのデモにユダヤ人のメンバーと参加しています。
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連帯を示すプラカードを掲げていると、ユダヤ人である自分たちが停戦を訴えていることに感謝する人や、中にはデモに参加しているユダヤ人から感謝の言葉を伝えられることもあると言います。
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デモに参加した70代男性
「デモの参加者は、ユダヤ人が行進に混ざっていることが、大切だと思ってくれています。ユダヤ教徒対イスラム教徒という問題ではないことを人々に理解してもらうことが本当に重要です。
ただ、同じ事をイスラエルの中で言うのが難しいということも知っています。
今起きていることに疑問を表明したら、キャリアや将来が台なしになったり、家族と仲違いしたりする可能性もありますから。だからブレシートさんはかけがえのない存在です。彼がいなければ、この組織は成り立ちません」
困難な今こそ声を上げようと、イギリス各地で講演活動に参加し、ガザ地区の惨状や、パレスチナの和平について訴え続けるブレシートさん。
そうした活動の中で、心を動かされたというユダヤ人も出てきています。
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20代のユダヤ人男性
「イスラエル出身のユダヤ人からこうした話を聞けて希望が持てました。なぜなら、この問題について発信するイスラエル人が少なすぎるからです。今夜ここに来たことは私にとって第一歩でした」
この男性は講演会の後、思い切ってブレシートさんに声をかけて、メンバーに加わることを決めました。こうした講演会を通じて、2か月あまりで50人のユダヤ人が新たにメンバーに加わったと言います。
ブレシートさんは、パレスチナとイスラエルが共存できる未来への理解を、少しでも広げていきたいと考えています。
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ブレシートさん
「日本とアメリカは今や親友です。ドイツとフランスもEUの中心であり、戦争をすることは考えられません。日本とアメリカが戦争をすることも考えられません。
しかし、1945年だったらどうでしょうか。当時そのように考えるのは容易ではありませんでした。私たちは1年、2年、3年、10年単位で考えなければならないのです。
軍事的な解決策はありませんが、政治的な解決は可能なのです。
イギリスでは、人々はパレスチナについてあまり議論してきませんでした。今、それは議題の主要テーマとなり、大きな変化が起きつつあります。
それが私が目指していることであり、平和のメッセージ、共に生きるというメッセージを発するために話し、行動し続けます」
取材を終えて
ブレシートさんと出会ったのは、ロンドンで行われていた大規模なデモの最中でした。
ユダヤ人であるブレシートさんが、どうしてパレスチナのために活動し続けるのか。一見物静かなブレシートさんですが、長年占領下に置かれるパレスチナの人たちについて語るとき、その言葉からは憤り、そして悲しみ、さまざまな感情が伝わってきました。
ブレシートさんはイスラエルに家族や親友がいますが、この問題をめぐっては意見が対立しているほか、ほかのユダヤ人からは裏切り者だと詰め寄られることもあったといいます。
それでも、両親から受け継いだホロコーストの記憶、そして自身のイスラエルでの経験が、ブレシートさんの信念を揺るぎないものにし、活動の原動力になってきたのだと感じました。
「政治的な解決策について話すことを決してやめない」と力強く話すブレシートさんの願いが叶う日が1日も早く来てほしいと思います。
(12月19日 おはよう日本などで放送)