「戦争の前線に送るために、娘を育てたわけではありません」
ウクライナ人の母親は、そう言って、志願兵としてロシアと戦う娘を案じた。
娘の名はオレーナ・イワネンコ(42)さん。
私(筆者)はちょうど半年前、負傷してもなお、戦場へと戻っていった彼女を取材した。
今回、ウクライナで、彼女の無事を祈る両親を訪ねる機会を得た。
ロシアによるウクライナへの軍事侵攻からまもなく2年。戦況は厳しさを増すばかりだ。
家族を戦場へと送り出した人たちは、どんな気持ちで一日一日を生きているのだろうか。
(ヨーロッパ総局記者 渡辺信)
“女性兵士”の両親のもとへ
2023年11月7日。戒厳令に伴う夜間外出禁止令が解除された午前5時、私たち取材班は、まだ暗い首都キーウを車で出発。南部オデーサ州の小さな集落に向かった。
キーウから黒海の港町オデーサまで、ほぼまっすぐに伸びる幹線道路を南下。途中で枝道へと入り、さらに西へと進んだ。起伏に富んだ「チョルノーゼム(黒土地帯)」を横断する道は、舗装が傷んだ悪路だった。
集落に近づくと、今度は舗装されていない泥道に変わった。「早起きして出てきて正解だった」。
天気予報は、翌日から雨だと伝えていた。一度でも雨が降ると道がぬかるみ、少なくとも3日間は、車で集落に到達するのは無理だと助言されていたのだ。
ウクライナでの取材は、楽ではない。防空警報が出れば中断を強いられる。限られた機会を逃すわけにはいかなかった。
キーウを出てすでに5時間。隣国モルドバとの国境まで5キロほどの農村地帯にある集落に着いた時、太陽はすっかり高度を増していた。
娘のオレーナ・イワネンコさんを戦場に送り出した、父親のアナトリーさん(63)と母親のバルバーラさん(60)が出迎えてくれた。
娘の決意「ママ、パパ、座ってちょうだい…」
家は居住スペースと、別棟の台所などがつながった平屋建ての一軒家だった。ソファーのある居間に通された。
さっそく、母親のバルバーラさんが、分厚いアルバムを取り出してきて、オレーナさんの子どもの頃の写真を見せてくれた。
中央に立つのが、オレーナさん。3人きょうだいの長女として、弟と妹の面倒をよく見る優しい子どもだったという。
しかしー
ロシアによる軍事侵攻が始まって半年ほどたった2022年の夏のある日。彼女は祖国を守るため、軍に志願したいと、両親に打ち明けたのだ。
母親のバルバーラさんが、語り始めた。
「『ママ、パパ、座ってちょうだい。話したいことがあるの。私は決断した。だから反対しないで。私のことを応援してほしい。私は前線に行きたい』。そう言ったんです」
父親のアナトリーさんは「もちろんショックでしたが、予想外ではありませんでした。娘は、いつも先頭に立つリーダー的な存在でしたから」と続けた。
両親が語った、娘が見た戦争の現実
なぜ、オレーナさんは、兵士として前線に立とうと決意したのか。
両親は、私が2023年8月にオレーナさんに取材した時には聞かされていなかった、あるできごとについて語り始めた。
ロシアの軍事侵攻が始まる前まで飲食業界のコンサルタントの仕事をしていたオレーナさん。軍事侵攻が始まってからは、ロシア軍の攻撃で故郷を追われた人たちに、食料や医薬品などを届けるボランティア活動を始めた。
両親は、そのボランティア活動の最中にオレーナさんが目撃した、中部のジトーミル州の小さな村での出来事について話してくれた。そこには、脇目もふらず地面を掘り続ける村人たちがいたという。
「なぜ掘っているのですか」と質問したオレーナさんに、村人からは「自分たちのために掘っているのです」という答えが返ってきたというのだ。
彼女が見たのは、ロシア軍の攻撃で命を失うことを想定し、自分たちの墓を掘る村人たちの姿だった。
みずからの墓穴を掘り続ける人たち。そこに戦争の現実が厳然とあった。
実家に戻ってきたオレーナさんは、別人のようになったという。
「以前の娘は、家ではいつもスマホをいじってばかりでしたが、手放してしまいました。 深く考え込んでいるような時もあれば、家畜の世話を一生懸命に手伝ったりもしていま した。娘はすっかり変わってしまいました」
そんな毎日が数週間続いたあと、娘のオレーナさんは軍への志願を打ち明けたのだった。
最前線で狙撃手となった娘
志願兵となったオレーナさんは、精鋭とされる「第47独立機械化旅団」に配属された。
そして、射撃手として、南部の激戦地・ザポリージャ州に赴いた。ロシアに占領された地域を奪還するため、ウクライナ軍の反転攻勢が行われている、まさに最前線だった。
祖国のために戦う娘。両親は誇らしく思う一方で、複雑な気持ちを抱いていた。
父親のアナトリーさんは「娘が戦場に行っているので、気が重いです。常に危険と隣り合わせですから、いつも心配しています」と言って、深いため息をついた。
実際、両親の不安は現実のものとなっていた。2023年6月、戦闘中に砲弾がオレーナさんの至近距離に着弾。
右足のふくらはぎに破片が深く食い込むけがを負った。一緒に戦っていた仲間の兵士の多くが死亡した。
この人も、この人も、もういない…
戦線を離脱したオレーナさんは、首都キーウにある病院での治療の合間に、短期間、実家に戻ってきたという。母親のバルバーラさんは、その時のオレーナさんの様子についても語ってくれた。
家の居間の壁には、ウクライナの国旗と同じ色をした旗が掲げられていた。旗には、たくさんの寄せ書きが記されていた。オレーナさんと部隊の仲間たちが、父親のアナトリーさんの誕生日プレゼントとして送ってきたものだった。
バルバーラさんは、それらの寄せ書きの1つ1つを手で示しながら、言った。
「娘は、この人も、この人も、この人も、もういない、と言って泣き、立ち尽くしていたんです」
久々に帰省した娘は、たくさんの寄せ書きが記された旗の前で、戦死した仲間たちのことを思い出し、涙を流したのだった。
これまでの取材で、私は戦闘の最前線にたつオレーナさんは芯の強い人だという印象を抱いていたが、やはり、心に傷を負っていたのだ。
多くの仲間を失い、自らも命の危険にさらされた。そこにも戦争の現実があった。
娘に戦場にいてほしくない…、でも
そんな娘の姿を見た両親は、「二度と戦場に戻ってほしくない」と伝えたという。
私が取材した時にはオレーナさんは「両親は反対しなかった」と話していた。両親からすれば、事情は違っていたようだ。
母親のバルバーラさんは、当時、娘をこう説得したという。
「『負傷したのだから、やめるつもりはないの?』とオレーナに聞いたんです。そうしたら、娘は『私には前線に仲間たちがいるの。だから私は必ず戻るの』と答えました」
バルバーラさん
「もちろん、私たちは娘に戦場にいてほしくありません。でも、ダメだとは言えません。私たちは娘を応援しているからです。どんな時も反対しないでほしいと頼まれました。そう言われた以上、私たちは、何も言えません」
父親のアナトリーさんも「望んでいることではありませんが、誰かがやらなければいけないことなのです。これは彼女が決めたことですから」と、娘の決断への理解を示したが、表情は険しかった。
戦場に再び戻る時の両親とのやり取りについて、オレーナさんは、当初「両親は、怒ったような表情で私を送り出した」とだけ話していた。私は、彼女が両親の胸の内をわかった上で語ってくれたことだったのだと、このとき、初めて知った。
大統領の前で果たした約束
両親の手元には、戦いの功績で、オレーナさんがゼレンスキー大統領から授与された勲章もあった。
2023年10月1日、ウクライナの「祖国防衛者の日」の式典で授与されたものだった。
母親のバルバーラさんは勲章を見せながら「実は、あの子らしい出来事があったんです」と言って、式典での裏話をしてくれた。
勲章が授与されると知らされたオレーナさんは、自分のおいと話をしたという。
「式典で大統領に会えることになったけど、どうしたらいいと思う?」と聞いたオレーナさんに、おいは「ぼくが『大統領によろしく』と言っていたと伝えてほしい」と答えたのだそうだ。
そして、オレーナさんは、本番で約束を果たした。大統領府のサイトに公開された式典の動画で確認すると、ゼレンスキー大統領に勲章を手渡された軍人たちは、皆「ウクライナ国民のために尽くします」と短く述べて、敬礼している。
ところが、オレーナさんだけは、ほかの軍人たちよりも長い時間、言葉を発していた。大統領府の判断だろうか。彼女の音声だけ途中で音量が絞られてしまっている。最後の部分で音声が復活し、ほかの軍人たちと同じ言葉を発していたのはわかったのだが。
バルバーラさんによると、式典のあと、オレーナさんは、上官から不規則発言を叱責されたという。しかし、ゼレンスキー大統領を前にして、堂々とおいのために約束を果たした娘。親として、頼もしさを感じずにはいられなかった。
心の支えは前線からの電話
オレーナさんの実家の大きな庭には畑があり、野菜を作っている。ニワトリやアヒル、羊や牛などの家畜も飼育し、ほぼ自給自足の生活だという。
娘が戦場に赴いてからは、両親にとって、家畜の世話が唯一、気を紛らわすことができる時間となっている。
そんな2人が、いま、大きな心の支えにしているのは、娘からかかってくる電話だった。私たちが訪れた時も、オレーナさんが電話をかけてきた。
「会えてうれしいよ!」
「元気?私もうれしいよ!」
互いにスマホのカメラをONにして、表情を確かめ合う。スマホの画面いっぱいに、元気なオレーナさんの笑顔が映り、笑い声が居間に響いた。
前線にいる兵士の娘とは、あたり障りのない会話しかできない。それでも、無事を確認できる瞬間は、ホッとできるひとときだという。
娘の顔を見て、声を聴く。つかの間の幸せを感じる。ただ、娘が戦場でどんなことをしているのか、詳しく聞くことはほとんどないという。
電話を終えると、父親のアナトリーさんが急に暗い表情になってつぶやいた。
「娘は、すべてを話しているわけではありません。娘が戦場でやっていることを知ったら、私たちは一晩中、眠ることさえできないでしょう」
親子だけのひと文字の合図「+」
戦場にいる娘とは、いつも電話で話ができるわけではない。
そんな時のために、親子は、ある約束を交わしていた。
スマホで通信アプリのメッセージの画面を開き、オレーナさんとのやり取りを見せてくれた。そこには「+」のマークがあった。オレーナさんから送られてきたものだ。
母親 バルバーラさん
「これで私たちは分かるのです。電話ができなくても、『+』のマークを送ってきたら、それは『すべて順調』ということだと。娘は、戦闘任務に就くときにプラスのマークを送ってきます。戦闘から戻ったときも同じように送ってくるので、それでやっと安心できます。私たちにとって、『+』は、そういう印なのです」
そう話すと、母親は手を胸に当てて、ふぅーとため息をついた。「+」マークを見た時の気持ちを、そう表現したのだった。
作戦に従事するなど、多くを語ることができない娘から送られてくる「+」のマーク。それは、安否を知らせる、たったひと文字だけの親子の合図だった。
未完の絵は「生きて帰る」約束の証し
居間には、たくさんの絵が掲げられていた。すべてオレーナさんが描いたものだという。
絵を眺める私に、母親のバルバーラさんが隣の部屋から1枚の絵を大事そうに抱えて持ってきた。
それは、オレーナさんが描きかけのまま置いていった猫の絵だった。前線に戻る前に両親に託したという。2人は、この絵で希望をつないでいた。
母親 バルバーラさん
「娘は『ママ、帰ってきたら完成させるからね』と言ったんです。この言葉で、娘は私たちに『生き残る』と約束してくれたのだと思います」
「前線に送るために娘を育てたわけではありません。少しでも早く、戦争が終わってほしいと願っています」
オレーナさんが無事に戻って来たら、親戚一同を集めて、彼女の大好きな料理でお祝いしたいというアナトリーさんとバルバーラさん。オレーナさんは、自分たちで育てているニワトリを使ったローストチキンが大好物だという。付け合わせは、もちろん、庭の畑で取れたジャガイモと自家製のキュウリのピクルスだ。
取材後記
私(筆者)にとって、ロシアが軍事侵攻を開始して以降、4回目となるウクライナでの取材だった。志願兵のオレーナさんを最初に取材したのは3回目の時だったが、ウクライナ人の同僚たちの尽力のおかげで、今回、彼女の両親を訪ねることができた。
別れ際、私は「オレーナさんが戻ってきて、彼女の大好物の料理を並べてお祝いする場面を、ぜひとも取材させてほしい」と両親にお願いすると、彼らは快諾してくれた。
そして、父親のアナトリーさんと固く抱擁した。彼は泣いていた。最初に挨拶したときの握手はぎこちなかったのに。そして言った。
「日本人に会うのは初めてだった。どんな人たちかわからず、正直に言って、怖かったんだ。でも、娘が『私の友人だから安心して』と言うから、会ってみた。会えて良かったよ」。
アナトリーさんは若い頃、ソビエト海軍で兵役に就き、当時のウクライナ共和国のミコライウで勤務していたという。そして、そこで出会ったバルバーラさんと結婚。やがて、長女のオレーナさんが生まれた。
毎朝4時に起床し、日没まで家畜の世話をする。日々、そんな重労働をこなす、屈強な父親が涙を流した。
娘の身を案じながら、毎日、張り裂けそうな気持ちを抱いて生きているであろう両親。
あの不気味な防空警報も鳴らず、ミサイルや無人機での攻撃におびえる必要がなくなった中で、一家の団らんを取材する。そんな日が1日でも早く訪れることを願わずにはいられない。
(11月16日「おはよう日本」などで放送)