2023年7月10日
ウクライナ ロシア

“ロシア人”と呼ばれ続けて ウクライナ系カメラマンの想い

記者になって11年。さまざまな記事を書いてきたが、ふだん一緒に仕事をしているカメラマンについて書いたことはない。

しかし今回、私が一緒に取材をしたカメラマンは特別だった。

ウクライナで生まれイスラエルで育ち、「“ロシア人”と呼ばれ続けた」というカメラマン。彼はなみなみならぬ思いで、その取材に臨んでいたのだ。

(エルサレム支局長 曽我太一)

「ウクライナ語は流ちょうではない」

ことし1月、ロシアのウクライナ侵攻から1年となるのを前に、私はエルサレムからカナダに向かった。

目的は1年前、侵攻直後の混乱の中、ポーランド国境で出会ったウクライナ人家族のその後を取材するためだ。

ただ、問題が1つあった。それはカメラマンをどうするか。

普段から一緒に仕事をしている気心の知れたイスラエル人のカメラマンと一緒に行くか、それとも、ウクライナ人の家族ともコミュニケーションのとれるカメラマンの方がいいか。

迷ったあげく、私が一緒に取材に行くことを決めたのは、ウクライナ系イスラエル人のカメラマンだった。

彼の名前はアルティヨーム・ドゥビツキ。

本業は映画監督で、イスラエルのドキュメンタリー映画祭で最高賞を受賞したこともある新進気鋭の若手ドキュメンタリストだ。

オンラインで行った最初の打ち合わせで話を聞くと「ウクライナ出身だ」と言う。しかし、「ウクライナ語は流ちょうではない」とも言った。

そして、彼はこう付け足した。

アルティヨーム カメラマン

「自分自身、ウクライナのために何かできることはないかとずっと考えていたが、今まで何もできなかった。今回、一緒に取材することができてうれしい」

アルティヨームは1990年、ウクライナ北部のマリンという町に生まれた。今回のロシアによる侵攻で多くの市民が犠牲になった、キーウ近郊のブチャから西に80キロほど離れた町だ。

ところが、その翌年ソビエトが崩壊し、ウクライナは独立国家となった。

社会の混乱が続く中、ユダヤ系だったアルティヨーム一家は彼が7歳だったときにイスラエルへの移住を決めたのだった。

“ロシア人”と呼ばれ続けて

アルティヨームの家族だけでなく、多くのユダヤ系の住民がソビエト崩壊後、経済的なチャンスを求めてイスラエルに移住した。

しかし、当時7歳だったアルティヨームにとって、全く知らない国への突然の移住は簡単なことではなかった。

イスラエルに移住して1、2年後のアルティヨーム(中央)と家族

ウクライナ出身だったが、当時のアルティヨームはロシア語を話していたため、学校のクラスメートからは“ロシア人”と呼ばれる。いくら「ウクライナ出身だ」と説明しても理解してもらえず、“ロシア人”と呼ばれ続けた。

父親がユダヤ系のアルティヨームは、ウクライナでは周りから「ユダヤ人」と見られていた。しかし、イスラエルでは母親がユダヤ系でないと「ユダヤ人」として認められないため、イスラエルに移住した途端「ユダヤ人」ではなく、“ロシア人”になったのだ。

果たして自分は何者なのか。7歳のアルティヨームが抱えた悩みだった。

「まさにアイデンティティー・クライシスだった。本当に自分が何者なのか、わからなかった」

呼び覚まされたウクライナ人としての自分

イスラエルではロシア系もウクライナ系もベラルーシ系も、ロシア語を話す人たちはすべて“ロシア人”と呼ばれてきた。

このため、アルティヨームも「半分ロシア人で半分ウクライナ人。なんとなくそんな風に思っていた」と話す。

しかし、2022年2月。

ロシアが軍事侵攻を始めると「自分のなかの半分が、もう半分の自分を攻撃するのを目の当たりにして、とにかく気分が悪くなった」と話す。

「侵攻が終わった」とか、「ウクライナ側が反転攻勢を進めている」とか、なにかいい知らせがないかと狂ったようにニュースを見続けたと言う。

ウクライナにはいまも親戚がいて、イスラエルに移住してからも何度も足を運んだ。

何か自分にもできることがあるのではないかと、ウクライナに行くことも真剣に考えたが、家族から危険だと反対され止められた。

「ロシアによる軍事侵攻で、ウクライナ人としてのアイデンティティーが呼び覚まされていった」と言う。

そして、ことし2月、アルティヨームは私とともにカナダに避難したウクライナ人家族を取材することになったのだ。

「ロシア的なるもの」

取材先でのアルティヨームは、私以上に気をつけなければならないことがあった。

それは「言語」だ。

私はウクライナ語もロシア語も話せないため、アルティヨームが通訳も兼ねていた。しかし、アルティヨームが流ちょうに話せるのはロシア語だ。

取材相手のナターシャさん一家はウクライナ南部のヘルソン出身。軍事侵攻前の日常会話はほぼロシア語だったそうだが、軍事侵攻以降、ウクライナ語しか話さなくなった。

「ロシア的なるもの」すべてが嫌いになったからだと言う。

ナターシャさん一家を撮影するアルティヨーム(2023年2月)

アルティヨーム カメラマン

「自分がロシア語を話すことで、ナターシャさん家族につらい記憶を思い出させないよう、嫌な思いをすることがないようにしないといけないと思った」

アルティヨームは丁寧に自分の事情を説明し、ナターシャさんはそれを受け入れてくれた。

6日間の密着取材の期間、家族との会話はほぼすべてロシア語で行われたが、アルティヨームは「一番気を遣った部分だった」と言う。

取材も終盤にさしかかり、私たちは最大の山場となるインタビューを迎えた。ナターシャさんに気持ちよく話してもらうため、ウクライナ語で話してもらうことにした。

ただ、私はアルティヨームには質問はロシア語でもかまわないと伝えた。しかし、インタビューが始まると、アルティヨームは私の質問をゆっくりになりながらもウクライナ語で通訳した。

ナターシャさんは涙を流しながら、家族が離れ離れになってしまったこの1年間の辛さを語る。アルティヨームは、そのナターシャさんの表情を逃すまいと、カメラを向け続けた。

アルティヨーム カメラマンが撮影したナターシャさん

心を通わせた6日間

取材の間、ナターシャさん一家はさまざまな表情を見せてくれた。

ウクライナの伝統料理ボルシチも振る舞ってくれた。

アルティヨームは10歳の息子のプラトーン君に、子どものときに異国への移住を余儀なくされたかつての自分を重ね、とにかくかわいがった。

プラトーン君

アルティヨームが「マリーチカ」と呼んでかわいがった妹のマリアちゃんも彼になついていた。

最終日、私たちは子どもたちの学校に取材に行く予定だったが、許可が下りなかった。

「アルティヨームが取材に来ないことを知ったら、マリアが『学校に行きたくない!』と言ってきかなかったのよ」と、ナターシャさんは笑いながら説明してくれた。

マリアちゃん

ウクライナ人として複雑な思いを抱えながら取材に臨んだアルティヨーム。

彼だったからこそ、ナターシャさん一家とここまで心を通わせることができたのはないかと思う。

すべての取材が終わったあと、アルティヨームはこう語っていた。

アルティヨーム カメラマン

「今回の取材はすべてが特別だった。取材の話が来たときは、天からの贈り物のようにも感じた。
リポートを作ったところで戦争が終わるとは思わないし、実際に終わっていない。ただ、ようやく自分なりに何か貢献できたのではないかと思った。
とにかくナターシャさん一家には、早く平穏に暮らせるようになってほしい」

ナターシャさん一家筆者、アルティヨーム カメラマン

連帯する世界のウクライナ人

アルティヨームのようなウクライナ系イスラエル人は少なくない。

軍事侵攻からちょうど1年となった2月24日。イスラエル最大の商業都市テルアビブ中心部の広場には、多くのウクライナ人が集まっていた。

テルアビブで抗議するウクライナ系イスラエル人(2023年2月)

侵攻前に来たウクライナ人も、侵攻後に移住したウクライナ人もみな声をそろえ、ロシアによる軍事侵攻を非難し早期の終結を求めた。

「イスラエルでは自分が何者かわからなかったが、軍事侵攻の結果、ウクライナ人としてのアイデンティティーが強くなった」

長年、イスラエルに暮らすウクライナ系の私の友人も、アルティヨームと同じことを言っていたのが印象的だった。

ウクライナの国民的詩人タラス・シェフチェンコはかつてこう言った。

「戦い続けよ。さすれば勝たん」

前線の兵士だけでなく、世界中に散らばる“ウクライナ人”が、いま何かしらの形で戦っていると思う。その想いが一刻も早くかなうことを強く願っている。

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