
「重要な戦闘がまもなく始まる」
ロシアに対する大規模な反転攻勢が近いことを示唆した、ウクライナのゼレンスキー大統領。
領土の奪還を目指すウクライナにとって最終的な奪還の目標であり、今後、焦点となりそうなのが、2014年にロシアが一方的に併合したクリミアです。
なぜクリミアが注目されるのか。ロシア、アメリカなど各国の思惑はどこにあるのか。詳しく解説します。
(モスクワ支局記者 禰津博人 / ワシントン支局記者 辻浩平)
クリミアで何が起きてる?
「天罰は今後も続くだろう。侵略者の軍施設の近くにいることは避けるべきだ」
ロシアが一方的に併合したウクライナ南部のクリミア。
その軍港都市セバストポリにあり、ロシア海軍黒海艦隊が使用している燃料の貯蔵施設で4月29日に起きた大規模な火災について、ウクライナ国防省の情報総局の高官は、そう述べました。

ウクライナ軍の南部方面司令部の報道官は「誰もが待ち望んでいる大規模な攻撃に向けた準備だ」と関与を示唆。
さらに5月3日には、「クリミア大橋」に近いロシアの南部クラスノダール地方の石油貯蔵施設でも火災が起き、無人機による攻撃だと伝えられました。

ゼレンスキー大統領も「重要な戦闘がまもなく始まる。わたしたちの土地や国民をロシアの支配から解放しなければならない。陸と海で国境を完全に取り戻さなければならない」と述べ、大規模な反転攻勢に踏み切る構えを示しています。

これに対し、ロシアの治安機関FSB=連邦保安庁は「クリミアで、ロシア側の要人の暗殺や、インフラ施設へのテロ攻撃が計画されていた」として、ウクライナ側の7人の工作員を逮捕したと発表。
ウクライナ国防省の情報機関、情報総局のブダノフ局長が主導したと主張しました。
さらに、ロシア軍はクリミアの北側などで塹壕を掘るなど、ウクライナの進軍に備えた大規模な防衛線を築いているとの指摘も出ていて、緊張が高まっています。
そもそもクリミアとは?
黒海の北側から南に大きく突き出したウクライナ南部のクリミア半島。

戦略上重要な拠点として何世紀にもわたって係争が続いてきました。
18世紀にオスマン帝国からロシア帝国に併合されたあと、1850年代には列強の勢力争いを背景に、ロシアとイギリスやフランスなどとの間で行われた「クリミア戦争」の戦場になりました。
ロシア帝国の崩壊後はソビエトに引き継がれましたが、1954年にソビエトの当時の指導者フルシチョフが、クリミア半島の帰属をロシア共和国からウクライナ共和国に移管。
しかし、1991年にソビエトが崩壊しウクライナが独立すると、ロシアとウクライナの間で帰属をめぐる対立が始まりました。

プーチン大統領にとってのクリミアとは?
プーチン大統領にとって、クリミアはみずからの力を誇示する象徴的な場所でもあります。
2014年にウクライナで起きた政変でロシア寄りの政権が崩壊したのを機にプーチン政権を後ろ盾とする親ロシア派は、ロシア系住民が多くを占めていたクリミアで住民投票を強行。
圧倒的多数の賛成を得たとして、プーチン政権は3月18日にクリミアを併合すると一方的に宣言しました。

当時の演説でプーチン大統領は「人々の心の中でクリミアはこれまでも、これからも、ロシアの不可分な一部であり続ける」と述べ、併合の正当性を主張しました。
ことし4月に大規模な火災があったセバストポリは、ロシア海軍の黒海艦隊が駐留する戦略的に重要な拠点でもあります。
9年前に一方的に併合を宣言した3月18日には、そのセバストポリをプーチン大統領が軍事侵攻後初めて訪問。

私服姿で地元幹部から説明を受ける姿や、みずから車を運転する様子も公開し、その支配を誇示しました。
ロシアによる併合後のクリミアは?
“ロシア化”とも言える既成事実化が進められ、プーチン政権はクリミア支配の正当性を主張し続けています。
標準時間をモスクワと同じ時間帯に変更。
通貨もロシアのルーブルに切り替えたほか、地元住民にロシア国民であることを証明するパスポートも発給しています。
2018年にはクリミアとロシア本土を結ぶ全長19キロの「クリミア大橋」を完成させ、プーチン大統領みずからダンプカーを運転して橋を渡り、クリミア支配を内外にアピールしました。

また、クリミアへの支配を続けるための特別プログラムを作り、火力発電所や空港、道路などのインフラ整備を進め、巨費を投じてクリミアの発展に力を入れています。
クリミアに住む住民は?
ウクライナとゆかりがある市民の動きに、クリミアを支配しているロシア側の当局は神経をとがらせ、締めつけを強めているとみられます。

地元の人権団体は、侵攻開始からの1年でウクライナの歌を歌ったり侵攻に反対したりしたとして200人以上が摘発されたと非難しています。
ことし2月、ロシア側からクリミアに入ったアメリカのNBCテレビは、ロシア系住民が「ここは自分たちの土地だ。自分たちで防衛したい」と話すなど、クリミア奪還を目指すウクライナ側の動きに反発する市民の声を伝えました。
一方、「侵攻について話すと涙が出る。なぜこんなことになってしまったのか。平和に暮らすことはできないのか」という女性の声も紹介し、ロシア系住民が多く暮らしプーチン政権寄りの考えを持つ人が相当数に上る中で、ウクライナ侵攻に否定的な声を上げにくい状況があると伝えています。
ウクライナにとってのクリミアとは?
ロシアによる軍事侵攻が長期化する中で、ウクライナ側はクリミア奪還を目指す方針を明確にしています。
去年3月、ゼレンスキー政権はロシアとの停戦交渉で「クリミアの主権は15年間かけて協議する」として、一時的に棚上げする姿勢も示していました。
ゼレンスキー大統領自身も去年5月、NHKとのインタビューで「まずは領土を2月24日以前の状態に戻した上で、ロシアとの交渉のテーブルにつく」と明言。
クリミアの奪還を待たずに和平交渉に入る可能性も示唆していたのです。

しかし、ブチャで起きたロシア軍による市民虐殺、そしてその後、ウクライナ東部で大規模な領土奪還に成功したことで、ゼレンスキー政権はしだいにクリミア奪還を目指す姿勢を強めます。
ことし3月、クリミアの問題を統括するタシェワ大統領代表は、2021年に定めたクリミアを巡る戦略についてクリミア奪還を明記する方針を明らかにしました。
政府としての戦略の内容をより具体化し、奪還を目指す方針を明確にしたのです。
クリミアを巡る攻防 ロシアはどう出る?
「クリミアはロシアにとって明らかに越えてはならない一線、レッドラインだ」
プーチン政権に近い、ロシアの政府系シンクタンク「ロシア国際問題評議会」でことし3月まで会長をつとめたアンドレイ・コルトゥノフ氏はこう、警告します。

コルトゥノフ氏
「クリミアを奪還する試みはロシア指導部にとってはもちろんレッドラインだ。
クリミアは、ロシアから切り離せない一部として認識され、クリミアに住む人々もロシア社会の一部として認識している。
ウクライナが時々、クリミアのロシア側の施設に攻撃を加える試みを目の当たりにするが、ロシア指導部は、相当いらだっているようだ。
ただ、ウクライナがクリミアを、奪還できる可能性は、大きくないと思う。クリミアは基本的にしっかりと防衛されている」
プーチン大統領の側近で、強硬派として知られる安全保障会議のメドベージェフ副議長も国営メディアとのインタビューで「核抑止力の原則に規定されたものを含む、あらゆる防衛手段を使う根拠になる」と発言。核戦力をちらつかせて威嚇しています。
クリミアでは3月、アメリカとロシアの双方の軍によって、一触即発になりかねない事態も起きました。
クリミア沖合の黒海上空で、アメリカ軍の無人機と、ロシア軍の戦闘機が衝突したとアメリカ側が発表し、映像を公開。ロシア側も反発し、非難合戦になりました。

コルトゥノフ氏は、クリミア周辺の黒海はロシアが「領海」と捉えているため、ロシア側とNATO=北大西洋条約機構が直接、衝突する危険性が高まっていると懸念を示しています。
コルトゥノフ氏
「3月の案件は、意図しないエスカレーションが起こりうることを示すものだ。
双方が意図していなくても、負の連鎖が続き、最悪の場合、核すら含む直接的な軍事衝突に発展する危険性もある。これは誰もが注意を払うべき深刻な警告だ」
ウクライナのクリミア奪還にアメリカは?
最大の軍事支援国アメリカは、ウクライナがクリミアの奪還を目指すことについて、慎重な姿勢をとり続けているとみられています。
アメリカの戦略を見る上で注目されている兵器がATACMSと呼ばれる射程がおよそ300キロの地対地ミサイルです。

これまでアメリカが供与してきたどの兵器よりも射程が長く、ウクライナ側は、長い射程によって安全な場所からロシア軍を攻撃できるなどとして供与を要望。
ただ、クリミア半島のほぼ全域を射程にとらえられることから、アメリカでは、クリミアを攻撃する際に使用されるという見方が出ているのです。こうした理由もあってか、ウクライナ側の要望に対してアメリカ政府はこれまでのところ応じる姿勢を見せていません。
ウクライナを巡る国際情勢などに詳しいカリフォルニア大学リバーサイド校のポール・ダニエリ教授は「ロシアを刺激し戦闘をいっそうエスカレートさせることは避けたい」というアメリカ側の懸念を指摘します。

ダニエリ教授
「アメリカは、供与した兵器でウクライナがクリミアを攻撃することに神経をとがらせている。
もしATACMSを供与するならウクライナがどのように使うのかを巡ってきちんとした取り決めが必要だとアメリカは考えている」
その一方、アメリカはことしに入って、提供しないとしていた戦車の供与を一転して決めるなど、軍事支援については、さまざまな方針も示されています。

ダニエリ教授
「アメリカは、ウクライナにロシアを打ち負かしてほしい一方で、ロシアが衝突をエスカレートさせたり、核兵器の使用に踏み切ったりすることは避けたいと考えている。
兵器の供与を巡って一貫性がないのは、そのための戦略を打ち出すことにアメリカが苦心しているからだ」
アメリカが、ロシアを刺激することは避けつつ、ウクライナへの支援を強化して勝利につなげるための明確な戦略を見いだせないでいるというのです。
ウクライナ、ロシア双方にとって譲れない一線になっているクリミア。
5月にも領土奪還に向けたウクライナの大規模な反転攻勢が開始されるという見方も出る中、そのクリミアをめぐって、各国の思惑は複雑に交錯しています。