証言 当事者たちの声あの日の娘との約束を胸に~日航機墜落事故から37年

2022年8月10日事故

乗客乗員520人が犠牲になった日航機墜落事故。

現場で発見されたカメラに残されていた写真です。

写っているのは、小さい子どもに寄り添う10代の姉妹。

亡くなる数日前に撮影されました。

あの日から37年。

母親はことし、あの夏の約束を胸に、2人に会いに行こうと考えています。

(社会部記者・山下哲平)

仲良しの姉妹 初めて2人だけで帰省することに

姉の山岡知美さん(当時16歳)は、優しくて、しっかり者。
母親が体調を崩したときには、よく「何もせんでええよ」と声をかけ、目玉焼きを作ってくれたといいます。

妹の山岡薫さん(当時14歳)は負けず嫌いで体を動かすのが大好き。
いつも近所の年下の子どもたちを集めて遊んでいるような子ども好きな一面もありました。

山岡清子さん

母親の清子さん
「母と娘の3人で仲がよくて、友だちみたいに手をつないだり腕を組んだりして家の周りを歩いて、町内でもうらやましがられるくらいでした。知美も薫も、大好きだったジュディ・オングの『魅せられて』を歌いながら手を横に広げて橋を渡って、買い物に行くのが毎日楽しみでした」

37年前の8月、2人は夏休みを利用して祖母や叔父などが暮らす清子さんの神奈川県の実家を訪れました。

例年は清子さんも一緒でしたが、この年は外せない仕事が入っていたため、初めての子どもたちだけでの帰省でした。

約束はピンクのワンピース

2人が大阪を出発する数日前、清子さんは子どもたちが帰省先で着る洋服などを買おうと知美さんと薫さんの3人で買い物に出かけました。

そこで、清子さんのワンピースも購入することになったといいます。


薫さん

おねえちゃん、このワンピースにしよか


知美さん

どれどれ。ああ、これがいいわ

そんならピンクにしよか。まだ30代やから着られるかな


清子さん
知美さん
薫さん

まだ大丈夫、大丈夫

新幹線で帰るから新大阪にこのワンピースを着て迎えにきてね。すぐにお母さんってわかるよ。方向音痴だからうろうろしないでもいいよ。私たちが見つけるから

3人で買ったワンピース

清子さんは、娘たちに背中を押され、自分ではなかなか選ばないというピンクのワンピースを購入しました。

“キャンセル待ち”でチケットが

帰省も終わりに近づき、2人が帰る予定だった前日、清子さんのもとに娘たちから電話がありました。


薫さん

あしたは飛行機で帰るからね

えっ、新幹線で帰るんじゃなかったの?


清子さん

薫さん

キャンセル待ちでチケットがとれたもん。だから空港に迎えにきて

当初、2人は新幹線で帰る予定でしたが、飛行機に変更するという連絡でした。

清子さん
「そのとき、大阪はどしゃ降りの雨が降っていたので『こんな雨で飛行機は出るんだろうか、無事に着くかな』と思いつつ『いや大丈夫やろ、飛行機でも』と。

そのときの電話の声が耳に残っています。忘れられませんよ。あの高めの声の薫の『あしたは飛行機で帰るからね』っていう声がね。(事故が起きた)8月12日が間近になると、いまも耳に入ってくるんです」

搭乗直前のホームビデオに2人の笑顔

8月12日。

2人が羽田空港に向かう直前の姿が、親戚が撮影したホームビデオに残されていました。

そこには、縁側で、真っ黒に日焼けした妹の薫さんが姉の知美さんのひざの上に座ってはしゃぐ様子や、羽田空港に向かう車に2人で荷物を積み込む様子が映っています。

笑顔の知美さん(中央)と薫さん(右)

清子さん
「仲よさそうでしょう。楽しくて、家に帰ってきたら私たちに、あれも話そうこれも話そうと思っていたんじゃないですか。『楽しかったね』で、なんで終わらんかったんかな」

昭和60年8月12日午後6時12分に羽田空港を離陸した日本航空123便は、44分後に群馬県の御巣鷹の尾根に墜落。

お盆の帰省客など乗客乗員520人が犠牲になりました。

空白の日記 地獄のような10日間

この日の夜、自宅にいた清子さんは、テレビのニュース速報で事故を知りました。

すぐに、姉妹を車で羽田空港まで送った親戚から連絡が入り、2人が乗っていたことを伝えられました。

清子さんは夫の武志さんや2人の兄の直樹さんとともに現地に向かいます。

しかし、そこで待ち受けていたのは、遺体が運び込まれるたびに、娘たちではないか実際に見て確認しなくてはならない「地獄のような日々」でした。

清子さん
「体育館でのことはあまりはっきりとは覚えてはいないんです。暑くてふらふらで、それでも娘たちを探すために連れて行ってもらっていました。

現地にいる間に考えていたのは『ただいま』って帰ってこないかなっていうこと。『もう無理かな』とも思って、でも、ちょっと目をつぶったら笑顔が浮かんでくる。生存者の中に、うちの子の名前があったらいいのにとか、いろんなことを考えました」

10日ほどして、2人の遺体が見つかりました。

姉の知美さんは顔による確認ができたものの、妹の薫さんはホームビデオに映っていた洋服が特定の手がかりになりました。

清子さんが当時から毎日つけていた日記は、現地に滞在したおよそ10日間が空白になっています。

清子さん
「あの夏が初めてですからね、子どもたちだけで行かせたのは。なんであのときに一緒に行ってやれなかったのか。あのときに仕事を断って一緒に行けばよかったって。(私も)行ってたら飛行機には乗ってなかった。あの子らなんで飛行機に乗ったんだろ。それ考えると悔しくてね」

夢で会いたくて…15年折り続けた千羽鶴

自宅に戻ってからは、2人を失った悲しみと、後悔の念に苦しむ日々が始まりました。

「墜落までの30分。こわい思いをした時に、なぜ自分がそばにいてあげられなかったのか」

「なぜ『新幹線で帰りなさい』と強く言えなかったのか」

自分を責め、何度も2人を追いかけようかという考えが頭をよぎりました。

家族の思い出が詰まった自宅からも引っ越しました。

2人の写真がまとめられたアルバムを捨ててしまおうと考えたこともあるといいます。

アルバムは今も開けないという

清子さん
「写真や物がなくても、何でも思い出になっていますから、靴1つとっても考えてしまう。もう置いておいてもしょうがないと思って、制服も体操服とかも全部袋に入れて、いざとなるとね、処分する気力がなくなるんです」

2人がいた楽しかった日々を思い出してしまうことがつらく、家族の間ではできるだけ2人の話題を避けるようになっていました。

それでも、知美さんと薫さんの誕生日だけはケーキを買ってきて祝う。
そうして過ごしてきたある日、清子さんは立ち寄った文房具店で折り紙が目に入りました。

「千羽鶴を折れば、2人が夢で会いにきてくれるかもしれない」

折り紙を買い込んで、鶴を折り始めました。2人を思い出してしまい、何度も手が止まります。

それでも1人でこつこつと15年間折り続けました。

千羽鶴は御巣鷹山に

真夏の慰霊登山、限界に近づく中…

事故で2人の娘を失ってから37年。

年齢を重ねていく中で、清子さんの心境は少しずつ変化しています。

毎年、事故があった8月12日に現場の御巣鷹の尾根に一緒に慰霊登山をしていた夫の武志さんが、がんの手術の影響でおととしから登山に向かうのが難しくなったのです。

また、自身も病を患い、真夏の慰霊登山は限界に近づいています。

夫の武志さんと清子さん

「あと何回、慰霊登山ができるかがわからない」

そう考えた清子さんは、この間ずっと家族に話せず、胸のうちに秘めていたことを家族に打ち明けることにしました。

それは果たされることのなかった「ピンクのワンピースで迎えに行く」という37年前の約束でした。

事故のあと、清子さんはワンピースの話を家族に打ち明けることなく、大切にタンスにしまっていたのです。

2人の兄 直樹さん
「長年、心のうちに秘めて1人で抱え込んでいて、僕より何倍も苦しいんやろうと思いますね。事故から37年たちますけど、母をそばで見ていて悲しみは小さくなるどころか年齢を重ねるごとにずんずんずんずん響いているように感じます」

初めてワンピースとともに2人に会いに

「うちにとって、その日から1年がはじまる感じ」、事故があった8月12日をそう表現する清子さん。

「2人と近づける気がする」という御巣鷹の尾根に登るため、清子さんはこの時期になると、2人と買い物に向かう道すがらよく歌ったジュディ・オングの「魅せられて」を口ずさみながら近所を歩き、体力作りに励みます。

そして、ことしの8月12日。

清子さんは初めてピンクのワンピースとともに御巣鷹の尾根に向かうつもりです。

清子さんが15年かけて折った千羽鶴も、ふだん保管している途中の山小屋で取って、2人の墓標まで持っていくつもりです。

37年前の約束を果たすために。

清子さん
「ピンクのワンピースを持っていって『帰ろう』って言ってみたいの。私はそばにいてやれなかったから、その“お詫び”という気持ちもあるんです。あの子らとワンピースを買いに行ったときの気持ちを思い出しながら登ってきます」

取材後記

37年前、私が生まれる前に起きた墜落事故。

今回の取材の中で、清子さんが絞り出すことば1つ1つから、37年たった今もなお、
清子さんのなかの知美さんと薫さんの存在は当時から変わらず大きいままだということを強く感じました。

同時に、2人を失った悲しみや、あのときこうしておけばよかったという後悔も清子さんのなかに色濃く残っていることが印象に残りました。

仏壇には、8月を除いて2人の遺影をいまだ置くことができないといいます。

公共交通機関の事故で命を落とす人が後を絶たない状況は、いまも続いています。清子さんのように大切な人との突然の別れによって悲しむ人を2度と生まないため、事故を風化させず、社会全体で安全に真摯に向き合い、絶え間なく取り組み続けていくことが、520人と、その家族の願いに応えることではないか、そう感じています。

  • 社会部記者 山下哲平 2013年入局
    北九州局、成田支局を経て現在は社会部で航空担当