証言 当事者たちの声なぜ彼女は心を燃やし続けられるのか

2022年3月18日社会 事件

それは、あまりにも突然の別れでした。

27年前の「地下鉄サリン事件」。

駅員だった夫は、乗客のため猛毒のサリンを拭き取り、力尽きました。

妻の高橋シズヱさんは、被害者や遺族を代表して声を上げ続けてきました。

もう2度と会えない夫のため。そして同じような悲劇を起こさせないために。

彼女の願いを伝えたくて、私はこの記事を書きました。
(ネットワーク報道部記者 馬渕安代)

“ありがとうって言いたかったのに”

平成7年3月20日。高橋シズヱさんは、地下鉄霞ケ関駅からほど近い、病院の個室の中にいました。大勢の負傷者で混み合う病院の通路を、どのようにくぐり抜け、病室の扉を開けたのかはおぼえていません。

気がついたら、白いカーテンの前に立っていました。カーテンを開けて、目に飛び込んできたのは、向かって左側のソファーに腰掛けた長男の姿でした。その反対側にはベッドが。

シズヱさんはおそるおそるタオルケットをめくりました。横たわっていたのは、制服姿の見慣れた男性。夫の高橋一正さん(当時50)でした。

冷たくなった一正さんは、シズヱさんがどんなに顔をなでても、どんなに手足をさすっても、再び目を開けることはありませんでした。

シズヱさんには、ずっと前から心に誓っていたことがありました。どちらかが亡くなる時が訪れたら、必ず夫に「ありがとう。幸せだった」と感謝の言葉を伝えること。その誓いを果たすことは、もうできなくなりました。

病院を出ると、空は青々としていました。夫の検視が行われる警察に向かって歩いた時の光景を、シズヱさんは今も忘れることができません。

まるで事件なんかなかったかのように、いつもどおり道を行き交う人たち。なぜかこの時は、みんながこちら側に向かって歩いてきて、ただ1人、反対の方向に歩いていく自分が、まるで違う世界の中にいるような、不思議な感覚でした。

穏やかで、幸せな日々

故 高橋一正さん

夫の一正さんは、駅の同僚から親しみを込めて「いっしょうさん」と呼ばれていました。柔らかい物腰でみんなに慕われていました。

両親どうしが知り合いだったという縁で結婚したのが、2つ下のシズヱさんでした。

笑顔がかわいい、というのがシズヱさんから見た、彼の第一印象でした。すぐに子どもを授かり、一正さんの実家がある北千住で、子育てに追われながらの結婚生活が始まりました。

それでも、当直明けの日にお弁当を作って荒川の河川敷で食べたり、どこまでも続く土手に沿ってサイクリングしたり、2人の時間を大切にしていました。それは春の日だまりのように、穏やかで幸せな日々でした。

意見が食い違うことがあっても、一正さんは温かく包み込むようにシズヱさんの言うことを受け止めてくれました。

話し合っていると、いつの間にか物事がいい方向に進んでいく。一正さんは、そんな夫でした。

5日前、父に伝えた感謝の言葉

事件が起きた平成7年の春、2人は、結婚記念日を迎える5月に北海道へ旅行に行くことにしていました。末っ子が高校を卒業するその年は、子育てがひと段落し、夫婦2人の生活が始まるはずでした。

3月15日。シズヱさんは、誕生日を迎えた自分の父親に電話をかけていました。話しているうちに、いつの間にか話題は一正さんのことに。

シズヱさんは「パパ(一正さん)と結婚してすごく幸せだよ。お父さんが結婚を勧めてくれて本当によかった」と話していました。

ふだんはてれくさくて、そんなことは口にも出さないのに、なぜかこの時は、気持ちを伝えたいと思いました。まさか5日後に、その最愛の人の命が奪われるなんて、想像もしていませんでした。

夫は乗客のために

3月20日。当直明けだった一正さんは、千代田線のホームに出て、ラッシュの時間帯に合わせて乗客の誘導を行っていました。いつもどおりの朝でした。その電車が到着するまでは。

午前8時すぎ、乗客から「先頭車両に不審なものがある」と知らされました。車両の床には、得体の知れない包みがあり、液体がしみ出して周囲に広がっていました。

一正さんはすぐに包みを車両の外に出し、ゴミ箱から新聞紙を取ってくると、停車しているわずかな間に、床にこぼれ出た不審な液体を拭き始めました。

このとき車内は、あちこちで乗客がせきこんだり、ハンカチで口元を押さえたりしていて、明らかに異常な雰囲気でした。もしかしたら、一正さんは何か危険を感じ取っていたかもしれません。

それでも乗客が不快な思いをしている状況をなんとかしようと、車内の液体を拭き終えました。そしてホームにこぼれ落ちた液体を拭くため、新聞紙を取りに歩き出したその時、突然意識を失い、その場に倒れ込みました。床にこぼれた液体、猛毒のサリンによる中毒でした。

平成7年3月20日 現場付近の様子

同僚は救急車を呼びましたが、なかなか到着しません。事件を起こした宗教団体、オウム真理教は、千代田線だけでなく、丸ノ内線、日比谷線の車内でもサリンをまいていました。地下鉄はサリンの中毒症状を訴える人たちであふれ、大きな混乱に陥っていました。

地上に運ばれた一正さんは、近くにいた報道の車で病院に運ばれましたが、すでに手の施しようがありませんでした。一正さんと同僚1人も含め、13人が死亡。およそ6300人が被害を受けた、未曾有の凶行でした。

“高橋さんのおかげで”

シズヱさんにとって一正さんは、寄りかかっても絶対に倒れない、大樹のような存在でした。

亡くなった後、シズヱさんは、葬儀や取材への対応、裁判の傍聴、何もかも1人でやらなければなりませんでした。

やるべきことに追われながら、ふと気がついたら一正さんを思って涙があふれる、そんな日々でした。一正さんはもういない。底が見えない喪失感に、シズヱさんは押しつぶされそうになっていました。

しかし、事件からしばらくたった頃、シズヱさんの気持ちを奮い立たせてくれたものがありました。それは、見知らぬ人たちから届くようになった手紙の数々です。送り主は、事件当日、地下鉄に乗っていた人たちやその家族などでした。

手紙には、サリンを処理してくれた一正さんへの感謝の言葉がつづられていました。

「高橋さんのおかげで被害に遭わずにすみました」
「高橋さんが包みを取り除いていなければ私が命を落としていました」

あの日、千代田線では、乗客が犠牲になることはありませんでした。自分の夫がただ殺された訳ではなく、命と引き換えに多くの人たちを救ったという思いは、悲しみに沈んでいたシズヱさんを励まし、力づけてくれました。

シズヱさん
「泣き続けているのは、夫に命を守ってもらったと言ってくれる人たちの気持ちに反する。泣き止まなければいけない。夫の行動に見合うような生き方をしよう」

ちょうどその頃、シズヱさんは、地下鉄サリン事件の被害者や遺族の弁護団から頼まれ、「被害者の会」の代表世話人を引き受けることになりました。

どちらかといえば人付き合いが苦手だったシズヱさんにとっては、自分でも意外な決断でした。

シズヱさんは被害者や遺族の先頭に立って声を上げるようになり、オウム真理教の後継団体に対する規制の強化を訴えました。

また、教団からの賠償金を確保するための特別立法など、被害者・遺族への公的な支援の必要性を訴え、実現にこぎつけてきました。

集会や記者会見で臆することなく自分の意見を述べる姿は、犯罪被害者の権利を守る活動のシンボルとして、多くの人の印象に残っていると思います。

シズヱさんはいつしか「どうしてそんなに強いんですか」「なぜ頑張れるんですか」と聞かれるようになっていました。

周りからは、加害者への「怒り」や「憎しみ」が原動力になっていると見えていたかもしれません。

でも、数年前に司法担当になった私は、シズヱさんの話を聞く機会が増えるようになってから、少しずつ彼女の本当の姿を知るようになりました。

“怒り”でも“憎しみ”でもなく

かつて、たった1人だけ、シズヱさんの本当の気持ちに気付いた人がいました。

平成17年7月。シズヱさんが北海道で開催された犯罪被害者を支援するための集会に参加し、講演を行ったときのことです。終了後、ほとんど面識のない70代半ばの精神科医から、突然、手紙を手渡されました。専門用語も交えながら書かれていたのは、講演を聴いた彼なりのシズヱさんの心理の分析でした。

精神科医からの手紙

「(前略)なぜこれまで心を燃やしつづけられるのか。それはご主人への愛に発する行為であり、それがそのまま『祈り』になってご主人に届いている、一つ一つがご主人との対話(ディア・ロゴス=生きる意味の分かち合い)なのだからと思った次第です(後略)」

この講演でシズヱさんは、一正さんのことはほとんど話していません。それでもベテランの精神科医には、ことばの端々に表れる夫への気持ちがはっきりと感じられたようでした。

命を犠牲にしてまで乗客を守った夫に、認めてもらえるようなことをしたい。生きていれば夫が考えるようなこと、応援してくれるようなことを、自分が頑張って行動で示せば、夫はきっとどこかで見守っていてくれる。見守っていてほしいからこそ、頑張れる。

シズヱさんの胸の中には2人にしかわからない、言葉にならない「対話」がありました。

これが、20年以上もシズヱさんが“心を燃やし続けられた”理由です。

今もシズヱさんは、この手紙を大切に保管しています。自分の胸の内を、ここまで正確に理解してもらえたのは初めてだったからです。

思えば、シズヱさんがこれまでの活動で何か困ったことに直面するたびに、必ず助けてくれる人が現れました。そしていつの間にか物事はうまくいっていました。シズヱさんには、自分が必要とする人を一正さんが巡り合わせてくれているように思えました。

具体的な言葉を交わすわけではありませんが、活動を続けることは、一正さんの存在を近くに感じることができる、かけがえのない時間なのです。

教団は今も

4年前にオウム真理教の幹部ら13人の死刑が執行され、一連の事件には大きな区切りがつきました。

今年で、地下鉄サリン事件から27年となります。しかし今もシズヱさんが気がかりなのは、教団の最近の動きです。

「アレフ」の施設を視察するシズヱさん

後継の団体「アレフ」は、札幌や東京など各地の拠点を中心に活動を続け、信者の数は減る様子がなく、若い世代を中心に新たな信者を獲得しています。

地下鉄サリン事件は過去の出来事。そう思っている人、特に若い人たちに、シズヱさんは、今の状況を知ってもらいたいと強く願っています。同じような悲劇が、繰り返されないためにも。

最愛の人が命を奪われ、突然いなくなってしまったら。あなたは、どうしますか。

地下鉄サリン事件 平成7年3月20日、多くの通勤客が利用する東京の地下鉄の車両に猛毒のサリンがまかれたテロ事件。千代田線、丸ノ内線、日比谷線の3つの路線が狙われ、合わせて14人が死亡、被害者はおよそ6300人にのぼった。事件を起こしたのは、当時、若い信者を増やしていたオウム真理教。出家をめぐるトラブルなどが相次ぎ、警察の捜査が迫る中、教祖の麻原彰晃・本名松本智津夫元死刑囚の指示のもと、化学の専門知識を持つ信者が生成したサリンが犯行に使われた。サリンの後遺症は今も被害者を苦しめている。

  • ネットワーク報道部 馬渕安代 2005年入局 高松局・神戸局・首都圏放送センターを経て社会部で司法担当
    現在はネットワーク報道部