
ロシアによる軍事侵攻が続くウクライナ。多くの人たちが国外に避難しています。
実は、その中には、ロシア側に向かったという人も少なくありません。
でも、なぜロシアに?そして、どんな暮らしをしていて、どういう思いでいるのでしょうか。
ロシアに避難せざるを得なかったというウクライナ人に、オンラインで話を聞くことができました。
(国際部記者 松田伸子)
ウクライナから避難している人はどれくらいいるの?
国連のまとめによりますと、ロシアの軍事侵攻を受けてウクライナからのべ1100万人以上が国外に避難しています。
そして、そのうち約210万人がロシアに『避難』したとしています。(いずれも8月24日現在)
なぜ、ウクライナに侵攻を続けているロシアに向かったのか。当事者に取材しようと試みましたが、なかなか取材を受けてくれる人は見つかりませんでした。
避難者の支援をしている人によると、ロシアに避難したり、連れて行かれたりしたウクライナ人は、通信手段を持っていない、ショックが大きく話せる状態にない、自分の身の安全を守るためといった理由で、取材に応じられないケースが多いとのことでした。
ただ、取材を続けると、ロシアに避難せざるを得なかったという女性と、ロシアに一時的に避難し今は別の国で暮らす女性2人の、合わせて3人に話を聞くことができました。
今回はこのうちの1人の話を、お伝えします。
話を聞かせてくれたのは?
46歳の女性です。侵攻前はウクライナ東部のマリウポリで、夫と14歳の娘と暮らしていました。
また、言語聴覚療法士として、言葉によるコミュニケーションが難しい子どもたちにセラピーを行っていたということです。
今回、この女性は、顔を出さないことを条件に取材に応じてくれました。
(以下、取材に応じてくれた女性の話)

軍事侵攻が始まった直後はどんな状況でしたか?
2月24日に爆発音が鳴り響きました。
そして、テレビを見て、戦争が始まったことを知ったのです。信じられませんでした。
2014年(※)の時みたいに、郊外を攻撃してすぐに終わるのだろうと思っていましたが、攻撃は住民が住む地域にも及ぶようになりました。
高層住宅の4階に住んでいたのですが、自宅の中より外の廊下が安全だということで、そこで寝ることにしました。窓がなく、壁に囲まれているからです。
しかし、3月1日になると、隣の家が爆撃を受けたので、夫と娘と共に、地下のシェルターに避難しました。
※ロシアによるクリミア併合
2014年、ロシアはウクライナ南部のクリミアを一方的に併合した。
避難生活はどんな状況でしたか?
100人ほどの人たちがシェルターに避難していて、地下室に入りきらない人は廊下などで過ごしていました。
3月3日には、電気、水、ガスが止まり、通信も使えなくなりました。
夜にライトを付けることもできませんでした。わずかな光でも漏れると攻撃される恐れがあるからで、隙間は板などでふさぎました。
バルコニーで夜タバコを吸っていた男性が撃たれて亡くなったこともあり、外に出るとどうなるかわかりませんでした。
シェルターには、生後2週間ほどの赤ちゃんもいました。男の人たちが危険を承知でドラッグストアに行って、おむつやお尻ふきを持ってきてくれました。とても助かりました。
食事などはどうしていたのですか?
食べ物は少しはあったのですが、食事を作ることはなかなかできませんでした。食事を作るには、外に出ないといけないからです。
外に出るときは、ドアを開ける前に外で音がしないか耳を澄まして確認してから出ました。今思うと、攻撃されたらドアがあっても意味がないのに…。
食事を作る際は、壊れた木の柵などを集めて、薪代わりにしました。薪と食料を節約するため、食事を作るのは1日に1回だけでした。
水は、当時は幸運にも雪があったので、雪を溶かして飲むことができました。
暖房がないことも大変でした。3月17日くらいから気温が下がり、外の気温はマイナス10度ほどでした。男性たちが暖房を作ってくれたので、地下室は10度くらいでしたが、何枚も服を着て過ごしていました。
それから、トイレに行くのも大変でした。トイレは上の階にあったのですが、危険を伴うので、夜でもライトを持っていくことができませんでした。
攻撃はどのような状況でしたか?
頻繁に砲撃の音が聞こえました。
近くの住宅やビルが次々に爆撃されていくのです。それを見るのはとても怖かったです。
9階建てのビルが、まるでろうそくのように燃えているのです。あの光景は忘れたくても忘れられません。
地下にいたので、誰が攻撃しているのか見えませんし、外には軍服を着た人がいましたが、どちらの軍なのかもわかりません。
通信手段もないので、情報もなく何も分からない状態で生活していました。
避難していた建物も、いつ攻撃されるか分かりませんでしたが、ほかに逃げる場所はどこにもありませんでした。
どうやって、地下シェルターから出たのですか?
3月18日、近くで大きな爆撃があったからです。午前1時ごろ、大きな爆撃の音がして、外に出てみるとシェルターの近くに止めてあった数十台の車が燃えていました。
ここも攻撃されると考え、シェルターを出る決断をしました。
翌日の19日に子どもを連れた家族が車で避難をし、近くにある親ロシア派の拠点に避難できたと知らせてきました。
そこで、私たちも向かうことになりました。そこなら攻撃されないだろうと考えたからです。
外は数日前からマイナス10度ほどになっていたので、ためらう人もいましたが、私たちは行くことにしました。
避難所に残ったのは、障害のある子どもとその母親、そして妻が庭で殺されたという高齢の男性など6人だけでした。
そして20日の午前6時半頃、ほかの30人くらいの人たちと一緒に最小限の荷物だけを持って出ました。街はすべてが燃えていて、壊れていました。
親ロシア派の拠点に着いてからどうなったのですか?
そこでも4時間待ったあと、バスに乗せられて、近くの村に連れて行かれました。そこは、ドネツク州の親ロシア派が占拠する地域にある文化施設でした。
暖かい部屋があり、食べ物ももらえました。私たちは、暖を取ることができました。
ただ、そこでは、1日中いすに座って待たされました。300人ほどの人たちがいましたが、2つしかトイレがなく、しかも水が使えませんでした。
翌日、私たちは別の近くの村に連れて行かれました。そこでも2日間いすに座って待つことになりました。そこには、毎日300人から400人の人たちが連れてこられているようでした。
食べ物が少なかったのですが、地元の人たちが食料をくれました。
厳しい身体検査などはありませんでしたか?
厳しい身体検査があるという話も聞きますが、私たちは有刺鉄線があるような場所に入れられたわけではありません。
私たちは、地元の警察署のような所に連れて行かれました。そして、犯罪者のように名札と共に顔写真を撮られたり、指紋を採られたりしました。携帯電話も提出したので、データもすべて取られていたかもしれません。
そのあと、「フィルター」を通過したという証明書をもらいました。「フィルター」を通過できなかった人、どこかへ連れて行かれた人もいました。
私の隣人は、退役した元軍人でしたが、彼女は牢屋のような所に3日間入れられていました。
ロシアに住むことを約束する誓約書などは書かされず、入国管理のカードに記入しただけです。
そして、1人につき1万ルーブルが支給されると伝えられました。
また、ウクライナのパスポートは、入国を管理する施設で預かるということで、預けました。
ロシア以外に行くことはできないのですか?
運転手を雇うことができれば、ロシアやリトアニアなどを経由して、ウクライナに戻ることはできました。
ただ、それにはお金がかかります。1人につき500ユーロほどです。
私たちはそんな大金を持っていませんでしたし、私たちが持っていたウクライナ通貨を両替することもできませんでした。
今はどんな生活をしているのですか?
列車に乗せられてロシア中部の都市に移動し、保養所のような施設で生活をしています。
ここにはウクライナから避難してきた人たちがほかにもいます。私たちが到着した頃は80人ほどの避難者がいて、ほとんどがマリウポリから避難してきた人でした。
その後、何人かは親戚の家に行き、今は60人余りが生活しています。無料で滞在できて、食事も出ます。服はボランティアの人からもらいました。
お金がないので仕事をしたいと思っています。そのためにはロシアのパスポートが必要なので、今申請をしているところです。
ロシアのパスポートを取ることに抵抗感はありませんか?
何も考えないようにしています。特別な感情はありません。
ただ、仕事をしなければならないので、そのために取得するのです。
ウクライナのパスポートも頼めば戻ってくると聞いています。
ウクライナに戻りたいですか?
いずれはマリウポリに帰りたいです。
でも、今ウクライナに戻ると、どうなるかわかりません。
攻撃が続いています。私は戻って攻撃で死ぬのが怖いんです。娘もいます。
私は、どの政権の下で生きようが構いません。ただ、平和に働き、生活したいのです。戦争のことを考えずに。
今の生活に満足していますか?
私は、ただ、生きているのです。
幸せではありません。
何も欲しいものもない。
ただ、生きているのです。
今は、ただただ戦争が終わってほしい。
私の甥はまだウクライナにいます。徴兵され、戦場で命を落とすかもしれません。そんなことにはなってほしくない。
今の願いは、戦争が終わってほしいということです。