
「世界で最も素晴らしい仕事を手放すことがどれほど残念か。でも、しかたない」。
最後まで「らしさ」連発でした。辞意を表明したイギリスのボリス・ジョンソン首相は、演説で悔しさをにじませつつも、みずからの実績を強調し、強気な態度を崩しませんでした。
ヘアスタイル以上に、スキャンダルや言動に注目が集まった3年間。その最後、辞意表明までの42時間は、「近年のイギリス政治史上、最も荒れ狂った時間」とも評され、まさにジョンソン劇場でした。
(ロンドン支局長:向井麻里)
<7月5日午後6時ごろ> 突然の閣僚2人の辞任

事態は突然動きました。BBCが突然「ジャビド保健相が辞任」、ほどなく「スナク財務相も辞任」と、速報で伝えたのです。
重要閣僚の辞任が深刻であることは間違いありません。2人はいずれも首相宛ての書簡をツイッターで公表しました。
ジャビド氏
「あなたのもとで現状を変えることができないのは明らかで、あなたは私の信任を失った」
スナク氏
「国民は政府が適切かつ有能に、そして真剣に運営されることを期待している」
政局につながるかもしれない、でもジョンソン首相は今回もタフに切り抜けるのではないか、そう感じながら取材を続けました。
BBCなどイギリスメディアは、これでジョンソン首相が辞任に追い込まれるかは不透明だと繰り返し伝えていました。
一方で、有力紙「タイムズ」は深夜に「ゲーム・オーバー」と題した社説を発表。「もはや誰もジョンソン政権のことばを信じることはできない」と断じ、辞任を求める立場を表明しました。
<7月6日午前> 辞任相次ぐ
翌6日の朝から政府の高官が次々に辞任を表明し、数時間のうちにその数は10人を超えました。
ただ、閣僚の新たな辞任表明はありませんでした。今回もジョンソン政権は持ちこたえられるのかもしれないと感じていましたし、ともにジョンソン政権を取材してきたNHKロンドン支局のスタッフとも、「ボリスはしぶといから、自分からは絶対辞めないだろう」と、おおむね見立ては一致していました。
「首相は終わった」「もう辞任は時間の問題だ」といった意図的なリークも含めた情報が飛び交いましたが、首相官邸は辞任を否定し続けました。
<7月6日正午すぎ> 首相は何を語る?

この日は水曜日。昼過ぎからは、毎週恒例の議会での討論が予定されていました。
渦中の首相は何を語るのか。
姿を見せた首相に悲壮感はなく、いたって強気でした。野党側からだけでなく、与党議員から「いつ辞めるのか」と迫られても、「経済対策などすべきことがある」と辞任を真っ向から否定しました。

しかし、議場の雰囲気は異様でした。狭い議場では、通常、首相と議員の間で丁々発止のやりとりが行われ、ヤジが飛び交い、議長は「オーダー(静粛に)!」とおさめるのが通例です。
この日、ヤジを飛ばすのは野党側ばかりで、与党側からの援護射撃の声はほとんど聞こえませんでした。与党議員は硬い表情で座ったまま。ジョンソン首相のことばは空回りしていました。
<7月6日夜> 結局、辞任する?しない?

辞任を表明した政府高官は40人を超え、まさに「辞任ドミノ」と化していました。BBCやスカイニュースなど地元テレビの画面には、「辞任カウンター」が映し出され、職を辞した人たちの数を刻んでいました。
代わりに任命する人材がいなくなっているとも伝えられ、「首相はもう終わった」という声は政権内からも聞こえてきました。
「複数の閣僚がジョンソン首相に辞任するよう説得している」という話も出て、いよいよ辞任が現実味を帯びてきたと感じました。
そこに入ってきたのは「首相は辞任を断固拒否している」という情報。
首相は解散・総選挙を検討しているという見方まで出てきて、生き残りのため、髪を手でくしゃくしゃにしながら徹底抗戦するジョンソン首相の姿が目に浮かびました。すでに帰宅していた支局のスタッフからは、「もうきょうはこれ以上の動きはなさそうですね」というメッセージが入りました。
日本時間朝のニュースの中継では、「みずから辞任を表明するのか、追われることになるのか、何らかの方法で切り抜けるのか」と、歯切れ悪くコメントするしかありませんでした。
どういう結果になろうとも、イギリス政治が大きく動く局面なのは間違いないー2日後から予定していた北欧での取材をすべてキャンセルし、ジョンソン首相の次の一手に備えました。
<7月6日夜> 裏で何が動いていた?
実は、この夜の動きについては、後日、複数のメディアが関係者の証言をもとに伝えています。
閣僚から辞任を促されても、ジョンソン首相は首を縦に振りませんでした。
最初に辞任を促したとされる党の有力者のゴーブ氏は、夜9時ごろ、電話で解任を伝えられました。「辞職を決断したか」と問い詰めるゴーブ氏に、ジョンソン首相は「辞めるのは君の方だ」などと言い返したといいます。
首相には、こんな情報も伝えられていました。
「仮に今、保守党内でジョンソン首相の信任投票が実施されたとしたら、確実に獲得できる信任票は28票のみ」という分析結果でした。先月の投票では200票以上を獲得して信任されていましたが、わずか1か月で、支持は大きく落ち込んでいたのです。
背景にあったのは、保守党幹部の性的なスキャンダルです。泥酔した幹部が会員制クラブで男性客の体を触ったことが明らかになりましたが、ジョンソン首相の対応は二転三転しました。
スキャンダルが起こるたびに、首相はまず否定、そのあと謝罪に追い込まれるという事態が繰り返されてきました。
新型コロナウイルスの感染対策で、国民に我慢を強いておきながら、自分たちは首相官邸でパーティを開いていた問題のときも、そうでした。

数々のスキャンダルを乗り越えてきたジョンソン首相。しかしこの性的スキャンダルについて専門家は「著しくモラルに反する問題で、保守党内でも許容できる限度を超えていた」と分析しています。
6日の夜遅くに、首相は辞意を固めたということです。
<7月7日午前> 辞意表明へ
翌朝の時点では、その裏側は見えていませんでした。
「崖っぷちに立たされている」、ただ「首相は辞任を拒否している」。
前の夜と状況は変わっていないと感じていましたが、その時、任命したばかりの教育相が辞意を表明したのです。さらに、任命したばかりの財務相が首相に辞任を促す書簡を公表。ほどなくイギリスメディアは「ジョンソン首相が辞意表明へ」と一斉に報じました。
「すでに辞表を書いているらしい」「周辺には伝えているようだ」。さまざまな情報が次々とアップデートされ、原稿や中継をこなすのに、精いっぱいでした。
辞意の表明は正午すぎになるとみられていました。
日本の午後7時のニュースの中継を支局のそばで終えたあと、歩いて10分ほどのところにある首相官邸へと急ぎました。ゲート前には大勢の市民が集まり、騒然としていました。

ようやく中に入ると世界各国のメディアがずらりと並び、絶え間なくニュースを伝えていました。あまりにも多くのメディアがネット回線を使って中継していたため、ネットはつながりにくくなっていました。
<7月7日午後>官邸前での発表

午後0時半ごろ、官邸の黒いドアが開き、ジョンソン首相が姿を見せました。閣僚や関係者、そして妻のキャリーさんが見守る中、ジョンソン首相は淡々と辞意を表明しました。

少しほっとしたような表情を浮かべた関係者たちからは、ねぎらうかのような拍手が上がりました。
ただゲートの外では、市民が「出て行け」「すぐにやめろ」などと抗議の声を上げていました。ジョンソン首相が国民の信頼を失っていることを改めて感じました。
辞意を表明した演説。ジョンソン首相は、みずからの業績を誇らしげに挙げていきました。
▽総選挙で大勝したこと、
▽EUからの離脱を実現させたこと、
▽新型コロナのワクチン接種をスムーズに進めたこと、
▽ウクライナ情勢をめぐってロシアに対し断固とした姿勢をとったこと。
しかし、国民への謝罪のことばはありませんでした。
2人の閣僚の辞任からジョンソン首相本人の辞意表明までの42時間。最後は急転直下の出来事のように映りますが、ジョンソン首相でなければ、もっと早く辞めていたのではないかと感じます。
スキャンダルに対して、極めてタフな政治家でした。

首相になることは、子どものころからの夢だったといいます。
「世界で最も素晴らしい仕事を手放すことがどれほど残念か。でも、しかたない」。
任期中の発言は確かに二転三転しましたが、演説のこの発言は、偽らざる本音だったと思います。