2022年9月26日
ウクライナ ロシア

息子が眠る墓に語り続ける 奪われる命と残された人たち

けがが治れば、再び前線に戻りたい。

そう話していた男性は、再び戻った戦場で、命を落としました。

男性の母親は、息子の眠る墓を1日2回欠かさず訪れ、墓標に向かって語りかけています。

(ウクライナ現地取材班 関谷智)

激戦地で爆撃を受けた男性

「すぐ近くに着弾し、その瞬間、白い光が見えて、キーンという音が聞こえました。爆風で後ろに飛ばされ、意識を失いました。その後、けがをしていないか手や足を触って確認しました。頭を打って、出血もしていました」

2022年3月下旬、入院先の病院で、NHKのオンラインのインタビューに応じてくれた男性は、こう話していました。

男性の名前は、デニス・アンティポブさん。ウクライナ軍の兵士として、ロシア軍が攻勢を強めるウクライナ東部の防衛の最前線となっていたハルキウで戦闘に参加。

その戦闘の最中、ロシア軍の無人機による爆撃を受けて全身を負傷し、軍の病院に入院していました。

当時、デニスさんは入院中でしたが、再び前線に戻りたいと話しました。

「背中の痛みがなくなり、防弾チョッキを身につけることができるようになれば、前線に戻ることを望んでいます」

インタビューで話した言葉の通り、再び前線に戻ったデニスさん。

しかし、5月11日、戦闘中にロシア軍の攻撃によって、亡くなりました。32歳でした。

笑顔が印象的だったデニスさん

ロシアの軍事侵攻が始まった当初から、日本で取材していた私は、テレビ越しにデニスさんのインタビューを見ていました。デニスさんは、流暢りゅうちょうな英語で、前線の生々しい状況を証言していました。

一方で、時折見せる笑顔が、強く印象に残りました。

7月、私はウクライナ国内に入って取材できることになり、そこでデニスさんが亡くなったことを知って、大きな衝撃を受けました。

デニスさんはどんな状況で命を落としたのか、関係者を訪ねて話を聞いてみることにしました。

そもそも、デニスさんはどんな人だったのか。どんな思いで前線に向かったのか。そして、どういう戦況の中で、命を落とさなければならなかったのか。

自分と同じ年齢で亡くなったデニスさんのことを、少しでも知ることができないだろうか。そんな思いからでした。

大学教員の青年が兵士に

人づてにデニスさんの知り合いを探し、デニスさんと親しかった1人の男性に話を聞くことができました。

オレグ・スラボスピツキさん。デニスさんとは生年月日がまったく同じです。

それが縁で、つきあいは15年以上に上りました。そんなオレグさんは、デニスさんの人柄を教えてくれました。

オレグさん(左)とデニスさん(右)

デニスさんは冗談が好きで、性格が明るく、多くの友人に囲まれているような男性だったといいます。

ウクライナの首都キーウにある国立大学に進学し、その間、韓国に2度、留学をしました。言語学と文学の修士号を取得して、前線に行く前は、母校の大学で韓国語の教員をしていたそうです。

デニスさんの夢は、起業家。ウクライナをいっそう発展させたい、そんなことも話していました。

しかし、2022年2月24日、ロシアが軍事侵攻を開始。

その翌日には、大切な家族や友人が暮らすウクライナを守りたいと、みずから志願してウクライナ軍の空挺くうてい旅団に入ったのだそうです。

託された“鍵”

オレグさんは、デニスさんが亡くなる前、前線にいる彼と連絡を取っていました。デニスさんは、ロシア軍の圧倒的な兵力に直面して、戦闘が激しさを増していると話していたといいます。

「状況は極めて厳しいと話していました。ロシア軍は大量に兵士を投入していて、一人ひとりの兵士の生死は、あまり気にしていないようだとも話していました。さらに、ロシア軍はさまざまな兵器を使って、ウクライナ側を攻撃していて、被害の大部分が、長射程のミサイル攻撃によるものだということでした」(オレグさん)

取材の中で、オレグさんは、大切にしているという“鍵”を見せてくれました。

それは、デニスさんの部屋の鍵でした。けがの治療を終えたデニスさんは、再び前線に戻る前、自分の部屋の管理をオレグさんに託したのだといいます。

デニスさんの部屋の鍵

「私には、この鍵がデニスの一部のように感じます。部屋で彼が弾くピアノを聞いたり、政治の話で意見を交わしたり、ビールを飲んだり…。私たちの思い出が、この鍵に詰まっているような気がします」

笑顔がそっくりな母親

デニスさんの実家のある、ウクライナ西部の小さな町を訪れると、デニスさんの母親が、取材に応じてくれました。

自宅の玄関で出迎えてくれた、母親のマリアさん(60)。顔に浮かべた笑みは、デニスさんの笑顔とよく似ているように感じました。

自宅前の母親マリアさん

話を聞かせてもらう中で、デニスさんが亡くなる前夜、1枚の画像が送られてきたと教えてくれました。

画像に写っていたのは、破壊されたロシア軍の戦車。ドローンの操縦士だったデニスさんが撮影したものだといいます。

すぐ近くに迫ってくるロシア軍に対して、ウクライナ軍が必死に抵抗を続けていたのではないかとマリアさんは話しました。

デニスさんから最後に送られてきた写真

この画像が送られてきたのを最後に、デニスさんとは連絡がとれなくなりました。

マリアさんは、何度も電話をかけましたが、デニスさんが出ることはありませんでした。

連絡がとれなくなってから3日後、軍からの電話で、息子の死を知ることになりました。

「ロシア軍の激しい砲撃が始まり、デニスはけがが完治しておらず、とっさに身を隠すことができなかった。爆発した砲弾の破片が体に当たり、仲間の兵士が救助に向かったときには、すでに死亡していたのだそうです」(マリアさん)

お母さん、ごめんね。ありがとう

マリアさんは、自宅近くにある息子が眠る墓を、朝晩の2回、毎日欠かさず訪れ、墓標に向かって語りかけ続けていました。

マリアさんには、今でも忘れられないデニスさんの思い出があるといいます。

侵攻がまだ始まる前の1月。実家に帰ってきたデニスさんと過ごしていたときのことです。父親は出張中で、二人きりで過ごしていました。

デニスさんがキーウの自宅に戻る時間になり、「さよなら」と言って車に乗り込んだかと思うと、突然、ドアを開けてマリアさんの近くに戻ってきたといいます。

「デニスは、なぜか『お母さん、ごめんね』と言ったんです。私が『なぜ、謝るの?』と聞いたのですが、『お母さん、心からありがとう』と言っただけでした。再び車に戻るとき、彼の目には涙が浮かんでいました」

デニスさんとマリアさんが直接会ったのは、この日が最後。

なぜ、あの日、デニスさんは謝ったのか。もうマリアさんには、確認するすべはありません。

1日あたり約100人が命を落とす兵士たち

ウクライナの政府当局者は6月、軍事侵攻が始まって以降、1日あたり約100人の兵士が死亡していて、あわせて約1万人の兵士が死亡した可能性に言及しました。

ただ、多くの兵士たちが命を落とす一方、国を守りたいとして軍への入隊を希望する人は今でも多く、順番待ちが続いているといいます。

軍事侵攻から半年以上がたつ中、戦地へ向かっては奪われ続ける兵士の命。それとともに、残された家族や友人たちも、増え続けています。

デニスさんの墓の前に立つマリアさん

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