去年思い描いていた最高点には興味がない

文田健一郎

レスリング

私たちはどうしても過去の成功体験にすがってしまう。1度うまくいった経験をなぞっていけば安心で、なにより“楽だ”と考えるから。しかし、それは同時に成長するチャンスを失うことかもしれない。25歳のレスラーと話していて、そんなことを考えさせられた。

「去年思い描いていた最高点にはもう興味がない。ことし開催されたからあの文田健一郎が見られたって思わせたいんです」

文田健一郎は、自身の階級で東京オリンピックの「金メダル最有力候補」と言われてきた。原動力となってきたのは代名詞とも言える得意技、「そり投げ」だ。

天性の柔軟性と全身のバネを使い、相手を跳ね上げて背中を反らせるように後方に落とす、まさに必殺技。中学生のころから父親にたたき込まれ、「世界一」と言われる切れ味で海外選手にも恐れられている。一方で、この技に頼るばかりではこれ以上成長できないとも感じていた。

「もしかしてもう極めちゃったのかなと思う部分があって。生まれ変わるぐらいのつもりで新しいことを取り入れていかないと」

きっかけになったのは新型ウイルスの感染拡大だった。2020年4月に緊急事態宣言が出され2か月間、マットから離れたことによって「いい意味で自分の形を忘れた」という。
いつもなら、すかさずそり投げにいく体勢でも、別の技を考える余裕が生まれた。
いったん得意技は封印し、腕を取る一本背負いのような「巻き投げ」や首を抱える「首投げ」など、引き出しを増やすことに専念した。

2020年12月の全日本選手権。10か月ぶりに実戦に臨んだ文田は、2試合で1度も「そり投げ」を出さなかった。代わりに新たな技「巻き投げ」を繰り返し仕掛ける。ポイントは奪えなかったが、これまでの文田とは確実に戦いぶりが変わっていた。

「自分でもこんなに変わったのかと驚きました。すごく楽しかったです」

無邪気に笑う文田。頂点を極めた戦い方を変えていくことに怖さはないのだろうか。

「ないですね」
「新しい自分を見られるというワクワク感の方が強いです。去年オリンピックが終わっていたらえられなかった自分、新しく生まれた自分を大切にしていきたい」

これまでの戦い方でも、金メダルを狙える実力は 誰もが認めている。だが、当の本人だけは、そこにとどまることに何の興味も持っていない。どんな時も“過去の自分を超える”。
文田は今この瞬間も進化を続けている。

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