2021年06月01日
(聞き手:白賀エチエンヌ 小野口愛梨)
突如、クーデターを起こしたミャンマー軍。なぜ、市民の反発を受けながらも、政治への関与に、こだわるのか?アウン・サン・スー・チーさんとの関係は?長年ミャンマー情勢を取材してきた藤下解説委員が1からわかりやすく解説します。
編集:小宮 理沙・廣川 智史
なぜミャンマー軍は、クーデターを起こしてまで、政治に関わろうとするんですか?
ミャンマーという国の成り立ちに、軍が関わったということがあります。
かつてミャンマーはイギリスの植民地で「ビルマ」と呼ばれていました。
ビルマ、世界史で学びました!
独立運動が起き、1941年に「ビルマ独立義勇軍」が作られました。
いまのミャンマー軍の母体となる組織なんですが、1948年の独立に大きく貢献したため、軍が非常に強い力を持つようになりました。
藤下解説委員は、1994年に軍事政権時代のミャンマーを訪れて以降、たびたび現地を取材。タイ、カンボジア、インドネシア、インドでも勤務するなど、アジア地域での取材経験が豊富。
では、建国当時から軍事政権だったんですか?
独立後、しばらくは政党政治でしたが、1962年にクーデターが起きて軍が全権を掌握しました。
過去にもクーデターを起こしているんですね。
1988年には民主化運動が非常に盛んになって、一旦、当時の独裁政権が倒れて別の政府ができました。
でもその直後、また軍がクーデターで政府を倒して、権力を握ったんです。
だから、2011年に民政移管するまで、およそ半世紀にわたって、軍がミャンマーを支配していたんです。
半世紀も!
軍は、自分たちが政治の力を持っていることを当たり前だと思っています。
そして、自分たちが政治の中心にいなければ、国の統一は保てないと考えています。
どうして、そう考えるんですか?
通常の軍隊は、外国の攻撃から国や国民を守るために働きますよね。
でも、ミャンマー軍の主な役割は、独立直後から、国内にいる少数民族などの武装勢力との戦いなんです。
少数民族が「独立したい」「自治権を持ちたい」と好き勝手なことをやると、国がバラバラになってしまうと。
そうならないように国の統一を守ってきた、というのが彼らにとっての大義なんです。
少数民族に自治権を認めている国はあるのに…。
私が軍事政権時代に話を聞いた軍人も「少数民族を軍が抑えなければ、国がバラバラになってしまう。だから簡単に民主化できない」という言い方をしていました。
では、なんで2011年に民政移管したんですか?
当時、ミャンマーは経済制裁を受けていて、東南アジアでは、ミャンマーだけが置いていかれているような状態でした。
自分たちも発展したい。そのためには軍事政権じゃだめだ。
民主的な体裁を整えた政府を作れば、海外から支援も投資も、どんどん来るだろうという考えだったと思います。
でも、それはあくまで、軍が力を持っている状態でのこと。
そうです。そのために、軍の政治への関与を認める憲法を事前につくって、政治的な影響力を確保した上で民政移管したんです。
軍の政治へのこだわりの強さを感じますね。
軍と対立しているのがアウン・サン・スー・チーさんだと思いますが、彼女はどういう人なんですか?
スー・チーさんは、さっき話した「ビルマ独立義勇軍」を最初に率いたミャンマー人、アウン・サン将軍の娘です。
アウン・サン将軍は、独立の前年、1947年に暗殺されたんですが、国民の間では「独立の英雄」として人気が高い人です。
そうなんですね。
「軍の母体を率いた父親」と「民主化を助けた娘」、ちょっと敵みたいにも感じます。
そう見えるかもしれないですね。
ビルマ独立義勇軍が独立に力を尽くしたということで、当初、軍はそれなりに国民の支持を集めていました。
でも、さっき言ったように、国が発展しなかったので、国民の反発がどんどん強まりました。
独立当初と、軍に対する国民の見方が変わったんですね。
スー・チーさんはというと、ミャンマー国外での暮らしが長く、インドやイギリス、日本にも住んでいたことがあります。
なぜ民主化運動に関わるようになったんですか?
1988年、たまたま母親の看病のためにミャンマーに里帰りしていた時、今回のデモに匹敵するぐらいの大きな民主化運動がおきました。
たまたま?
たまたまです。
その時に、アウン・サン将軍の娘ということで、民主化運動に加わってほしいと乞われたこともあり、政治の世界に入る決心をしたのです。
一躍、民主化運動の象徴的な存在になりました。
スー・チーさんは、ノーベル平和賞を受賞されていますが、どういう経緯だったんですか?
受賞したのは1991年、スー・チーさんが自宅軟禁されている時なんですよね。
自宅軟禁?
88年の民主化運動のあと、運動をした人たちに対する弾圧が始まりました。
その中でスー・チーさんも軍によって、3回に分けてのべ15年間、自宅に軟禁されてしまいました。
15年間も…。
「民主化運動をやめます」と言えば、自宅軟禁を解かれて、イギリスに帰ることもできたわけですけど、あくまで民主化を求めると頑張ったんです。
弾圧を受けても、暴力を使わずに民主化を求め続けたことが評価されて、ノーベル平和賞を受賞したんです。
すごいですね。
実は自宅軟禁を解除されている間も、ミャンマーの外には出ませんでした。
なぜですか?
出ると、もう入国が認められなくなるかもしれないからです。
イギリス人の夫が亡くなった時もスー・チーさんは、ミャンマーに戻れなくなるかもしれないと考えて、イギリスにいた夫のもとには行きませんでした。
それは辛いですね。
非常に意志の強い女性なんです。
純粋な質問なんですが、軍はスー・チーさんが嫌いなんですか?
軍の上層部は嫌っていると思います。
クーデターの前でも、事実上の政権トップだったスー・チーさんとコミュニケーションをとることが、ほとんどなかったみたいです。
そのころから軍は「この人とは、絶対に一緒にやっていけない」と思っていたのではないでしょうか。
それを踏まえての、今回のクーデター、スー・チーさんの拘束につながるんですね。
軍の力が強いミャンマーと、日本はどういう関係にあったんですか?
関係は第二次世界大戦まで、さかのぼります。
さっき話をした「ビルマ独立義勇軍」は実は、旧日本軍の支援でつくられました。
そうだったんですね。
その後、日本は戦時中にミャンマーを占領し、戦後にその賠償で発電所をつくるなど開発援助を行ってきました。
軍事政権でも支援していたということですか?
1988年の軍事クーデターのあとは、しばらく大規模な開発援助を止めていました。
でも人道的な支援は少額ながら続けていました。
そうなんですね。
2011年に民政移管したあとは、開発援助の額が増えました。
統計がはっきりしない中国を除けば、日本はミャンマーに対する世界最大の支援国になっています。
知りませんでした。
日本とミャンマーは、非常に深い関係にあると言えます。
開発援助の話が出ましたが、ミャンマーって、未開拓なイメージなんですけど、実際はどうですか?
私が初めてミャンマーに行った1994年は軍事政権下で、世界から孤立した状態でした。
時間が止まったような国で、戦前の軍用トラックを改造した古めかしいバスが現役で走っていました。
当時の首都だったヤンゴンでさえ、電気が1日のうち半分もきていない状況でした。
びっくりです!
2000年ごろになると、中国製の物資が目につくようになり、民政移管して経済が開放された2011年以降は、急速に成長していきました。
「アジア最後のフロンティア」って呼ばれていると聞きました。
そうですね。労働力が豊富で市場としても比較的大きいですし、民政移管して国を開いたことで、外国の企業が進出しやすくなって投資が進みました。
外国の投資が、経済成長をもたらしたと言えます。
日本の企業はどれくらい進出したんですか?
いま400社以上の企業が進出しています。
日本は製造業、ものづくりが強いですよね。そうした日本企業を誘致するために、日本政府も支援して、最大都市ヤンゴンのそばに工業団地がつくられました。
どんな企業が進出しているんですか?
例えば自動車メーカーのスズキは、工場で乗用車を組み立てて、ミャンマーで売っています。
まだ経済が発展途上で、人件費もそれほど高くない国なので、縫製業など労働集約的な産業が進出しやすくなっています。
「アジア最後のフロンティア」として急速に発展してきたミャンマーは、再び軍が支配する国に戻ってしまうのか。次回はミャンマーの今後を見ていきます。
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