あの日何が…南三陸消防署 殉職した消防隊員が残したもの
東日本大震災では宮城県南三陸町にある南三陸消防署では周辺もふくめて8人の消防隊員が殉職しました。東日本大震災でこれほど多くの隊員が同じ場所で犠牲になったケースはほかにありません。あのとき、何があったのか。未公開の無線記録と震災発生から9年を経て語ってくれた生き残った隊員の証言から、教訓を探りました。(仙台放送局記者 平山真希)
2020年3月のニュースで放送された内容です
目次
残されていた無線記録
去年まで石巻支局に赴任し被災地取材を続けていた私は、南三陸消防署で8人が犠牲になったことを2年前に知り、隊員たちがなぜ津波に巻き込まれるまで活動を続けたのか、取材を続けてきました。消防本部や関係者への取材の結果、3月11日当日の隊員たちの無線記録が未公開のまま保管されていることを知り、情報公開請求で入手しました。
無線記録は、消防本部が今後の教訓にしようと、音声データを書き起こして作成されたものです。地震が発生した午後2時46分から94回にわたり、南三陸消防署や、消防署を管轄する気仙沼市の消防本部、それに当時出動していた部隊の間で交わされた詳しいやり取りが記されていました。
「“警戒区域”から退去せよ」
記録を見ると、大津波警報が出た午後3時前から、消防本部から沿岸にいた出動部隊に何度も避難を呼びかけていたことが分かりました。しかし、あることばが気になりました。「直ちに“警戒区域”から退去せよ」
消防本部では町の津波ハザードマップに基づいて下の地図のピンク色のエリアを警戒区域に指定し、非常時の対応を決めていました。事前の訓練通り、警戒区域内にいた部隊は無線の指示を受けて高台に避難して助かりました。一方、殉職した8人がいた南三陸消防署は、事前の想定で「津波が来ない」とされていた警戒区域外だったため、活動を続けていました。しかし実際の津波は警戒区域をはるかに越え、南三陸消防署を含む水色の部分まで到達したのです。
9年を経て語り始めた現役隊員
津波に襲われるまで、南三陸消防署では隊員たちの間でどんなやり取りがあったのか。私はさらに取材を続け、当時消防署内にいた隊員の遠藤貴史さんに話を聞くことができました。遠藤さんは今も南三陸消防署の救急係長として、後輩たちを指導しています。殉職した隊員たちとの詳しいやり取りについて、これまであまり語ってきませんでした。
「負い目は感じているんです。『なんで自分たちは生きてここにいるのか』と。もちろん生きていて悪いわけではないのですが、そういう負い目は、死ぬまでずっと持ち続けるんだと思うんですよね」
遠藤さんは教訓を語り継いでいきたいと、あの日の出来事を打ち明けてくれました。遠藤さんが消防署にかけつけたのは午後3時すぎ。町内にじわじわと津波が迫っていた時ですが、当時は把握できていませんでした。2階建ての消防署にいれば安全だという気持ちもあったと言います。
署内の空気が変わったのは午後3時半前でした。監視カメラのモニターに、消防署近くを流れる川の水門での異常な光景が映し出されたからです。
「波が水門を越えてくる映像が見えて、『あーきたきたきた』と言ってみんなで顔を見合わせました。ものすごく恐怖を感じましたし、その瞬間、もしかしたら消防署まで津波が来るんじゃないかと思いました」
当時の水門を捉えた写真です。午後3時25分から午後3時28分のわずか3分の間に津波が水門を乗り越えて家や車を巻き込み、町の中心部に襲いかかろうとしています。
指揮隊長「若いやつらで消防車を高台に上げろ」
水門から消防署までは1キロほど。津波の勢いに恐怖を感じた遠藤さんは、署にいたトップで、指揮隊長の佐藤武敏さん(当時56歳)に「消防署も津波に襲われるのでは」と繰り返し不安を訴えました。佐藤さんは部下の不安を聞いて、とっさにある判断を下します。
「あのとき佐藤さんは『分かった。若いやつらで残っている消防車を高台に上げろ』と言いました。そんな対応は、事前の活動計画にはありません。万が一のことを考えて、若い隊員たちだけでも高台に避難させておこうと(佐藤さんが)思ったのかなと、今では思います」
午後3時半ごろ、遠藤さんを含む若手の隊員6人は消防署にあった車両を運転して高台に向かいました。高台に着いて振り返ると、津波が家々や車を巻き込みながら中心部を襲っていました。
「2階建ての消防署の8分目まで浸水していました。夢を見ているような光景で…絶望的な状況だと感じていました」
佐藤さんたちベテランの隊員たちは、署に残って無線で出動した隊員の安否を確認したり、外に出て住民に避難の呼びかけを続けていたりしていたとみられます。遠藤さんと一緒に逃げた若手の隊員のうち2人も、高台から署に戻り犠牲になりました。
消防署が津波に襲われたころの午後3時36分。高台に避難していた隊からの呼びかけに対して、消防署からの応答はありませんでした。
消防隊員も「まずは生きる」
なぜ先輩たちは犠牲になったのか、なぜ自分だけ生き残ったのか…。遠藤さんは8人の死の意味を問う日々が続いたと言います。9年がたった今、遠藤さんは、消防隊員であっても自分の命を優先すべき時があると考えています。
「消防署に残った人たちはものすごく怖かったと思います。消防隊員として避難誘導をやめられない思いやわれわれの基地である消防署を捨てられないという思いもあったと思う。でも、消防隊員は津波が引いたあと、多くの救助や救急の要請に答えなければなりません。そのためにも、命を救う側の消防隊員も、まずは生きることを優先すべきです。退避の判断を遅らせないようにしなければなりません」
あれから9年 夫の墓に刻んだことば
最後まで任務を全うしようとした8人の隊員たちの遺族にも話を聞くことができました。山内美代子さんは、消防署の付近で車の避難誘導にあたっていた夫の吉勝さん(当時58歳)を失いました。美代子さんはいまも毎月の月命日にはお墓参りを欠かしません。先月には(2月)「寒くなってきたね」と声をかけながら、お湯で温めたタオルを墓石の上にそっと乗せて静かに手を合わせていました。
毎日のようにスーパーに買い物に行くことが日課だった2人。震災後、初めてのお盆に美代子さんが1人で買い物に行った時には、周りの家族連れの姿を見て、涙が止まらなくなったそうです。スーパーで買ったものを袋に詰めてくれるのは、いつも吉勝さんでした。
美代子さんは「頑固だけども優しい人だった」と小さくつぶやいていました。
南三陸町などの三陸沿岸では、繰り返し津波の被害に遭ってきました。このため吉勝さんは生前、美代子さんに津波が来た時には「高台に避難する」と繰り返し話していたといいます。それだけに、吉勝さんの最期を思うと、悔しさが込み上げると言います。
震災のあと、がれきの中から吉勝さんのかばんが見つかり、中には10枚の原稿用紙が入っていました。タイトルは「伝える」。吉勝さんが亡くなる5年以上前に、町内で講演を頼まれた時に書き、その後、かばんに入れていたとみられています。原稿には「災いを防ぐ防災は災いを忘れる“忘”災にならないように」と書かれていました。夫が最後に伝えたかったことかもしれない。美代子さんは原稿の文字を墓に刻みました。
「消防、警察、自衛隊の人たちも危険な時にはまずは逃げて自分の命を守ってほしい。私たちと同じような思いをする人がもう出ないように。いちばんそれを思います」
震災から9年が経過し、南三陸消防署があった場所はさら地となり、去年9月には高台に新たな消防署の庁舎が建設されました。新庁舎の隣には殉職した隊員たちの慰霊碑が建てられました。毎朝、消防署の隊員がきれいに掃除していて、震災を経験した隊員から若手の隊員に、教訓を伝える場になっています。
「防災を“忘”災にしない」。3月11日に隊員たちが残した教訓を、私も伝え続けたいと思います。
- 仙台放送局記者
- 平山 真希
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