生きていれば11月29日が58歳の誕生日だった。
「15の夜」「卒業」「I LOVE YOU」
“10代のカリスマ”は1992年、26歳という若さで突然、この世を去った。
その尾崎豊さんには5歳年上の兄がいる。
ともに育ち同じときを過ごしてきた兄は司法の道を志し、いま地元の弁護士会の会長を務めている。
尾崎豊さんとはなにものだったのか。それが知りたくて兄のもとを訪ねた。
(さいたま放送局記者 江田剛章)
2023年11月29日社会
生きていれば11月29日が58歳の誕生日だった。
「15の夜」「卒業」「I LOVE YOU」
“10代のカリスマ”は1992年、26歳という若さで突然、この世を去った。
その尾崎豊さんには5歳年上の兄がいる。
ともに育ち同じときを過ごしてきた兄は司法の道を志し、いま地元の弁護士会の会長を務めている。
尾崎豊さんとはなにものだったのか。それが知りたくて兄のもとを訪ねた。
(さいたま放送局記者 江田剛章)
尾崎豊さんが亡くなってから30年余りがたつ。
18歳でデビュー。若者の心の叫びを表現して、あまたのヒット曲を世に送り出した。
彼を愛する人たちにとって、残してきた歌の数々はいまも色あせることはない。
豊さんの5歳年上の兄、康さんは、ことし4月から埼玉弁護士会の会長を務めている。
少年少女が関わる事件や虐待問題などを中心に担当し、これまでに恵まれない環境で育ち、非行に走ったり虐待の被害を受けて傷ついたりした多くの若者たちと関わってきた。
康さんが若者と向き合うようになったのには、弟の影響もあったという。
「尾崎豊の兄」として、話を聞かせてもらえないか。
そんな打診に康さんは少し考えこんだあとこう答えた。
尾崎康さん
「ファンの方々が抱くイメージを壊すわけにはいかないので、豊に関する取材は弁護士会の会長になるまではすべてお断りしてきたんです。でも豊のことを知りたいという人たちに向けて知り得る範囲で話すのも、自分の役割なのかなと思うようになりました。僕が話すことに少しでも意味があると感じていただけるのならばお話します」
康さんは豊さんの幼少時代から話を切り出した。
「手もかかるけどね。その分、気になる弟でね」
兄弟は東京・練馬区の団地で暮らしていた。1976年に埼玉県朝霞市の新居に引っ越し、両親の念願だった「夢のマイホーム」で新しい生活がスタートした。
豊さんは小学校高学年だった。転校先の学校に通い始めてしばらくして学校に行かなくなった。理由は本人しかわからなかった。
「家族と過ごしているときは変わらない様子でした。何かがあったんだと思いますけど、家族でさえもわからなかったんです。ただ、豊はこのころからずいぶん考え込むようになったような気がします」
両親や康さんの心配をよそに、豊さんは小学校に行こうとはしなかった。
そんな日々が続いたある日、康さんがふと様子をうかがうとそれまで楽器をほとんど弾いたことがなかった豊さんがギターを手にしていた。女の子にもてたくて買ったもののしまい込んでいた康さんのギターをどこかから勝手に持ち出したようだった。
「小学校に行くふりをしてこっそり帰ってきて弾いていたこともありました。誰かに習うわけではなく、独学でずっと弾き続けていて、いつのまにかうまくなっていました。偶然ではあるけど豊とギターを結びつけたという意味では、伝説的ミュージシャン誕生のきっかけを作ったのは、僕かもしれないね」
康さんは少し照れながら冗談まじりに当時を振り返った。
ギター、そして歌との出会い。
中学生になると豊さんは学校に通うようになり、その才能を一気に開花させた。
仲間たちとバンドを結成し、文化祭などで開いたライブにはほかの中学校からも生徒が見に来るほどだった。豊さんが歌い始めればいつのまにか人だかりができていた。
「人の輪の中心にいるようなタイプで、陽気で明るく誰とでも分け隔てなく付き合うような感じでしたね。女性からもよくモテたようで、バレンタインの日には山ほどチョコレートをもらって帰ってきていましたよ。僕もおすそわけしてもらったりしてね。そのころからいろいろな人を引きつけるような人間的な魅力があったのかなあ」
明るく人気者だった豊さんだが、その心のうちには葛藤も抱えていた。
教師との対立。大学生グループとのけんか騒ぎ。たばこ。高校時代はたびたび停学処分を受けた。
同級生と家出をしたり、別の時期には兄のバイクを勝手に運転したりしたこともあったという。
「勝手に持ち出されて壁に激突して脳しんとうを起こしてね。豊のことも心配だったけど何より自分のバイクを壊されたわけで。もちろん廃車になってしまったから、どうしてくれるんだよ俺の愛車を…という感じで。いまとなってはいい思い出ですけどね」
問題を起こすたびに、特に母親は強く叱りつけた。2人の息子をしっかり育て上げたいという思いが強かったと、康さんは振り返る。
友人に恵まれ人付き合いもよかった一方で、学校生活は性に合わないようだった。停学処分を受けた豊さんは、それでも家でギターを手に歌をくちずさみ続けていた。
「1日中ギターを弾いていてよく飽きないなと思いましたよね。そのころから、もちろん歌はうまかったけれど、まさか有名ミュージシャンになるなんて思いもしないからね。
僕が大学のときには、東京の井の頭公園で友達と行った春の花見に豊も呼んだらギターを持ってきて弾いてくれて、それをバックミュージックにしてみんなで踊ったりもして。とにかく音楽が大好きな明るくて陽気なやつで、かわいい弟でしたよ」
高校2年のとき、豊さんは演奏した曲をカセットテープに吹き込み、みずから芸能事務所に持ち込んだ。数千人を超えるオーディションを通過し、合格した。
「『いやー受かったよ』ということでね、すぐ言いに来ましたよね。本人も、なんていうか、必ず受かるとは思っていなかったんだと思うんですけどね。自信はあったんじゃないかと思うけどね。本当に喜んでいました。それまでがどん底だったから、無期停学中っていうのがね、本当にもう。本人もうれしかったと思います。歌に自分の息苦しさというか、心の葛藤を書いたと思うんだよね」
しかし、プロデビューに向けて高校を中退しようとした豊さんに対して、両親は案の定、猛烈に反対した。
「どうしても学校を辞めたいなら、私を殺してからにしろ」
母はそうまで言って、なんとか思いとどまらせようとした。
「やっぱり高校を卒業して大学まで出てほしいという思いが強くてね。オーディションに合格したことは両親も本当に喜んでいたんだけれど、“音楽は学校に通いながらでもできるでしょ”ということで、特に母親が豊の将来を心配してね。まさか音楽の道で一生食べていけるようになるなんて思いもしないから」
1983年、18歳になってすぐ豊さんはデビューを果たす。そして瞬く間にスターへと駆け上がっていくことになる。
取材中、康さんからひとつの提案を受けた。
それは、兄弟が育った朝霞市の実家を取材に来ないかというものだった。
その実家は、閑静な住宅街の一角にあった。
家はいま取り壊しを検討していて、誰も住んでいない。
家具など室内にあった荷物はすべて整理され、運び出しを済ませているということで、室内に生活感はなかった。
康さんの案内で2階に上がる階段のその先に、大きなくぼみがあった。それは豊さんが思春期に壁を蹴飛ばした際にできたという。
2階には豊さんの部屋があった。当時は勉強机とベッドが置かれていたという。
豊さんはデビュー前後この部屋でギターや歌の練習を重ねながら、歌詞や曲を練った。
デビュー後に独り暮らしを始めてからも年末年始などには必ず実家に帰省し、この部屋で過ごしていた。
「実家の管理などのために年に数回足を運びますけれど、いまだに実家を訪れるファンに遭遇することもあります。それを考えると、それだけの存在だったんだなって思いますよね」
「15の夜」「卒業」「シェリー」「I LOVE YOU」などのヒット曲を次々に生み出す一方、薬物事件で世の中に衝撃を与えた尾崎豊さん。活動再開後も、若者からのカリスマ的な人気は続いた。
しかし1992年の春。
康さんの元に「豊さんが病院に運ばれた」とマネージャーから連絡が入った。
都内の自宅にすでに戻っていた豊さんを訪ねると、横たわった豊さんは酒に酔っているように見えた。
介抱しているとき、豊さんはふと、ファイティングポーズをとりながら言った。
「勝てるかな」
何のことかははっきりとはわからなかったけど、「勝てるよ」と返した。
それが豊さんと康さんの最後の会話になった。
最後まで何かと戦っていた豊さん。その日、帰らぬ人となった。
26歳だった。
生前、豊さんの元に届いたファンレターの中には、その歌声で人生が変わったというものも少なくない。
そばで見守ってきた康さんもまた、そのひとりだったのかもしれない。
康さんは大学を卒業後、裁判所の職員や書記官として働き始めた。
学生のころから司法試験を受け始め、社会人になってからもチャレンジを続けたものの一向に合格の知らせが届くことはなかった。世の中にはどうしても超えられない壁だってある。諦めが徐々に強くなっていった。
そんなとき、あまりに突然に豊さんが逝った。
豊さんの死をきっかけに、弟の分までがんばろうと司法試験に再チャレンジした康さん。
1994年に33歳で司法試験に合格した。
そして、2年に及ぶ司法修習をへて、弁護士として向き合おうと選んだのが「少年事件、虐待事件」だった。
「司法修習では、裁判官、検察官、弁護士、3つの職種の研修を受けるのですが、弁護士については担当してみたい領域を選んで研修を受けるわけです。例えば企業法務とか。そこで僕は、少年少女が関わる事件、それに虐待事件をやりたいと希望したんです。そこにはやはり豊の存在も影響していて、同じように若者と向き合うようなことがしたかったんだと思います」
豊さんがみずからの思いを音楽で世に発信する存在であるならば、康さんは若者たちのメッセージを受け止める存在であり続けたい。
兄弟でやり方は違うものの、鬱屈した思いを抱く若者たちに光を照らすことができるかもしれない。弟がそっと背中を押してくれたような気がした。
「豊はさまざまな意味で唯一無二の存在。『自らが感じたことを表現せずにはいられない、歌わざるを得ない人』だったと思います。豊にとって、歌詞を考えたり作曲したりすることにいちいち理屈や理由なんてなくて、自分が感じたことを音楽で表現せずにはいられない衝動を根っから抱いている人だったと思います。
豊は本当にすごいやつだったと思うし、たぐいまれな才能を持っていたわけですが、僕自身、豊とは考えも価値観も本当によく合っていたんです。尾崎豊の兄であることについて、嫌だとかプレッシャーに感じたことなんていままで一度もないし、本当にありがたいと思っていますから。」
東京・渋谷区のビル。そのテラスの一角に尾崎豊さんの記念碑がある。
本人もよくこの場所に来て、渋谷の街並みを眺めていたという。
記念碑には「十七歳の地図」の歌詞が刻まれていた。
亡くなってから30年余り、休憩中に立ち寄ったサラリーマンや遠方から訪れたファンの姿もあった。
「尾崎のおかげで人生で1番大切な人に出会えた」
「存在してくれてありがとう いつも救われています」
1988年生まれの私(記者)は物心ついたころには尾崎さんは亡くなっていて、時代をともにしてきたわけではない。
記者になって10年。事件の被害にあった人たち、罪を犯した人たち、さまざまな相手と向き合う中で、自分がなんのために仕事をしているのか悩むことも少なくない。そんな気持ちを康さんに打ち明けると、にっこりと笑ってこんなアドバイスをくれた。
「そんなふうに悩んだときこそ、豊の言葉に耳を傾けてみてはいかがですか」
「自分も尾崎豊のファンの1人」だと話した康さん。歌1曲ではなく、ライブ全体を見て彼のメッセージを感じ取ってほしいと言われ、私はその日の夜、とあるライブの様子が収録された映像を見た。
尾崎さんがステージ上から発する歌詞やメロディ、メッセージに心が震えた。同時に、尾崎さんがひとりひとりと語り合ってくれているかのような、これまでに感じたことがない雰囲気のライブだった。多くの若者が魅了された理由が改めてわかったような気がした。
弁護士として少年少女が関わる事件のほか、虐待問題や子どもシェルターの運営に携わるなど、子どもの人権を守る活動に力を入れている尾崎康さん。
尾崎豊さんがかつて若者の思いを歌で表現したように、自分は弁護士として若者と向き合いたいとしている。
「自由や夢、愛や希望、心の中にある違和感や矛盾などを素直にメッセージとして伝え続けた豊の姿に僕も影響を受けているし、だからこそ悩み、苦しむ若者たちの心の声を聞く立場に僕も身を置いてきたんだと思います。
若い世代が感じる生きづらさというのはいまの時代も変わらないと思っているので、僕自身のアンテナやセンサーに引っかかった違和感や矛盾と弁護士の立場から向き合っていこうと思います。豊と同じ感性や価値観を共有した僕たちががんばるということが、豊がいまも生きてがんばっているということと同じなのかもしれません。豊に恥じないように、きちんと自分のやるべきことをやっていきたいなと思っています」
※11月26日おはよう日本、11月29日首都圏ネットワークで放送
さいたま放送局記者
江田剛章 2013年入局
徳島局、名古屋局、社会部を経て今年8月からさいたま局
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