証言 当事者たちの声娘は命を奪われ、「屍」と呼ばれた

2022年12月23日事件

もうすぐクリスマス。

毎年、家族そろってにぎやかに過ごしていました。

しかしいま、娘の博美と一緒に楽しむことはできません。
25日は娘の月命日になってしまったからです。

9年前の夏の夜。

15歳になったばかりの娘は、見ず知らずの少年に襲われ、命を失いました。

変わり果てた娘と対面してほどなく、父親である私宛てに届いたのは死体検案にかかった費用の請求書。

寺輪博美 屍の死体検案の費用5000円
振込人名義は「死者名」でお願い致します

そこには娘のことを「屍」(しかばね)と呼ぶ文字がありました。

事務的な対応に心をえぐられ、娘が再び殺されたように感じました。

この国の行政や司法は被害者や遺族に冷たすぎるのではないでしょうか。

ずっと続くと信じていた

3人の子どもがいる我が家では、誕生日は一大イベント。

ホールケーキを2つ買ってきて、1つは誕生日の主役がまるごと食べて、もう1つを家族みんなで分けて食べるんです。

私自身は家が貧しくて祝ってもらったり好きなものを買ってもらったりできなかったので、子どもにはそういうことをしてあげたいと思っていました。

9年前の8月22日、博美の15歳の誕生日も、いつもと同じように家族そろってケーキを囲み、ハッピーバースデーを歌ってお祝いをしました。

家族でお祝いをした15歳の誕生日

末っ子で、明るくムードメーカー。まるで我が家の太陽のような存在でした。

父親の私が言うのも何ですが、友だち思いで気持ちのさっぱりしたいい子なんです。

元気な産声を上げて生まれてきてくれた日のことを昨日のように覚えています。

お姉ちゃんと一緒に小さい頃から新体操を始め、中学生になってからも妻が1つ1つ手作りした衣装に身を包んで、練習を頑張っていました。

私は、家族5人で過ごす幸せな時間がこの先もずっと続くと信じていました。

花火大会の夜 娘は帰ってこなかった

しかし、誕生日からわずか3日後の8月25日。

博美は、見ず知らずの少年によって命を奪われました。

その日、博美は友だちの女の子と一緒に花火大会に出かけていました。
しかし、予定の時間を過ぎても帰宅せず、携帯電話もつながりません。

ひょっとして事件にでも巻き込まれたのではないか。

私たち家族はいてもたってもいられず、夜通し車で探し回りました。
それでも見つからず、警察に捜索願を出し、夜も眠れない日が続きました。

そして、花火大会の夜から4日後、警察から連絡がありました。

「近所の空き地で遺体が発見されました」

最悪の結果でした。

あとでわかったことですが、博美は花火大会のあと、友だちを心配して家の近くまで送っていったそうです。

その帰り、いつもとは違う道を1人で歩いていたところを、あとをつけてきた男子高校生に襲われたのです。

「ごめん。守ってあげられなくて」

博美かどうか確認するために向かった警察署。

部屋に置かれた大きな白い袋を覚悟して開くと、夏の暑さのせいか激しく腐乱した遺体が横たわっていました。
服も下着も剥ぎ取られ、足も開かれたまま。

あまりにも変わり果てた姿で、博美だとは信じられませんでした。

そのとき、足の爪に塗られたペディキュアが目に留まりました。
妻がお姉ちゃんと博美と3人おそろいで塗ったペディキュア。
まるで「ママ、博美よ、博美よ」と訴えかけているようでした。

私は現実を受け止めきれず、狂いそうでした。妻は声をあげて泣きました。

博美、ごめん。守ってあげられなくて。

博美、ごめん。見つけてあげられなくて。

博美、ごめん。ダメなパパで・・・。

私は自分を責めました。

大好きな娘を抱きしめることも、手を握ることも叶わぬまま、私は大きな悲しみと罪悪感を胸に警察署をあとにしました。

事件の日を境に、私たち家族は社会から孤立していきました。
周囲の心ない言葉や噂話にも苦しめられ、仕事に行くことも、外出することさえもままならない生活が待ち受けていたのです。

家のなかの雰囲気も一変しました。
毎年家族でにぎやかに過ごしていたクリスマスも、25日は博美の月命日になってしまったので、ツリーを出す気分にもなりませんでした。

事件の直後、遺族のもとに届いたのは…

三重県に住む寺輪悟さん(54歳)。

被害者や遺族が置かれている状況を知ってほしいと、今回初めて顔を出して取材に応じてくれました。

博美さんの事件で逮捕されたのは、現場近くに住む当時・高校3年生の少年でした。
花火大会の夜、たまたま目に留まった博美さんのあとをつけ、わいせつ目的で空き地に連れ込んで暴行したとして、強制わいせつ致死などの罪で起訴されました。

博美さんの遺体と対面した数日後、寺輪さんにとって追い打ちをかけるような出来事がありました。

自宅に、博美さんの死体検案にかかった費用の請求書が届いたのです。

寺輪悟 殿
寺輪博美 屍の死体検案に関する文書作成費用として5000円

発行日は遺体と対面した翌日、検案を担当した大学からのものでした。

そこには博美さんのことが「屍」と書かれていました。

さらに、「振込人名義は『死者名』でお願い致します」と書かれていました。

寺輪悟さん
「『屍』という文字を見たときの衝撃は忘れられません。本当に事務的で人の気持ちを一切考慮していない書類だと感じ、泣きながら振り込みに行きました。
どん底にいる遺族にとって、娘がもう一度殺されたような気分。博美は、2回も3回も4回も5回もこういうかたちで殺されています」 

三重県警に取材したところ、請求書は「司法解剖」や「死体検案」を行う三重大学が、死亡届を提出するときに必要な「死体検案書」の作成費用として発行したということでした。

県警によると、三重県では犯罪被害の場合は警察が最終的に費用を負担することになっていますが、当時はいったん被害者側が支払った上で「請求書の写し」を警察の担当者に提出、振り込み先の口座番号などを確認して後日返還する仕組みだったということです。

「なぜ被害にあった自分たちがこれほどまでに追い込まれるのか」
「屍」と書かれた請求書とともに、その思いは寺輪さんの心に強く残り続けることになりました。

“娘のために闘う”

寺輪さんにとって、大きな転換点となったもう1つの出来事が裁判です。

裁判が始まったのは事件から1年7か月が経つ頃。
寺輪さんと家族は、事件に関する記事や裁判に向けた資料を目にするだけでパニック状態になり意識を失いかけるなど、心身ともに不安定な状態が続いていました。
カウンセラーによるメンタルケアは裁判までに400回以上に及んだということです。

それでも「娘の身に起こったありのままの真実を、裁判官や裁判員に知ってもらい、公正な裁きをしてほしい」と気持ちを奮い立たせ、裁判に参加しました。

寺輪悟さんの意見陳述より
「2013年8月25日を境にして、私たちの明るく、笑い声に満ちた生活は一変しました。
できることなら、私自身の手で博美と同じ苦しみを少年にも与えてやりたい。少年には死をもって償ってほしいというのが親の思いです。
今日のために私たちは生きてきました。博美の無念を少しでも晴らすために、家族の無念な思いをここにいる少年に伝えるために、私たち家族は力を振り絞り、ここに立っています」

寺輪さんは少年に対し「無期懲役」を求めましたが、判決は懲役5年以上9年以下の不定期刑でした。

到底納得できる結論ではなく、悲しみと憤りは深まる一方でした。

しかし、裁判を通して寺輪さんが気付いたことがありました。

遺族が法廷に立ち、被告や、証人に対して直接質問したり、刑の重さについて意見を述べたりできる「被害者参加制度」が、自身も妻を殺害された犯罪被害者遺族である弁護士の岡村勲さんたちが、苦しみながら必死で勝ち取った権利だと初めて知ったといいます。

岡村勲弁護士

寺輪悟さん
「昔は遺族でさえ法廷に入れず傍聴席に座るしかなかったと知って衝撃でした。悔しい思いをした先人たちの声の積み上げがあったからこそ、私も法廷に立てた。そのことを身をもって感じ、私も何かできることがあればやらなきゃいけないと思いました」

娘を「屍」と呼ばれ、周囲からも孤立した生活を余儀なくされる家族。
なぜ犯罪被害にあった人や遺族が、事件のあとも幾度となく苦しまなければならないのか。
その立場に置かれて初めて、社会の無理解や無関心に気がついたという寺輪さん。

何か変えるきっかけがないかと調べるうちに、犯罪被害者の支援に特化した条例を制定している自治体があること、そして、自分が住む三重県にはそうした条例を制定している自治体が1つもないことを知りました。

条例制定を求めることで、行政や社会の意識を変えられるのではないか。

博美さんの死を無駄にしたくないと決意を固め、動き始めました。

“ひとごと”でなくすために

「自分と同じような辛い思いをする被害者遺族がこれ以上出ないようにしてほしい」

寺輪さんは、当時の三重県知事に手紙を書きました。

寺輪悟さんの手紙より
「私もまさか自分の娘が、という気持ちがありましたし、事件が起こる前までは、他人事のように感じておりました。いざ、事件の当事者になると、普段の生活から一変して地獄に突き落とされました。なおかつ、行政・司法の接し方があまりにも冷たく、やるせない憤りを感じました。今後、このような悲しい事件が起こらないよう、また、このような悲惨な事件が起こったときには、三重県の被害者条例により奈落の底に突き落とされた遺族の悲しみを少しでも和らげられるようにお力添えをいただけますと大変助かります。私の愛娘、博美の死を無駄にすることのないように、条例の制定をお願い致します」

寺輪さんの思いを支えたのは、事件直後から家族の日常生活のサポートや裁判の付き添いなどを行ってくれていた民間の犯罪被害者支援団体でした。

「みえ犯罪被害者総合支援センター」の副理事長で臨床心理士の仲律子さんは、長年にわたり被害者支援に取り組み、傷ついた被害者や遺族に寄り添い生活をまるごと支えるためには、条例づくりが不可欠だと行政に訴え続けてきました。

寺輪さんの強い覚悟を知り、2人で協力して条例の必要性を訴えていくことにしたのです。

みえ犯罪被害者総合支援センター 仲律子さん
「条例を作る一番の理由は、行政が動ける法的根拠ができるということです。それまでの日常を失い壊された被害者や遺族の生活の回復を支えるのは市や町の担当者であり、行政サービスです。関係機関が連携するにも法的根拠があるのとないのでは大きな違いがあります。行政にとって被害者支援を“ひとごと”にさせないためのものが条例なんです」

手紙を受けとった県知事は、条例制定に向けて検討すると約束。

その9か月後の2019年春、三重県に犯罪被害者支援条例がつくられました。
条例には、県が関係機関と連携して支援体制の整備を進めること、そして、被害者への二次被害を防ぐことが明文化されました。さらに、事件直後の生活を支えるため、都道府県としては全国で初めて最大60万円の見舞金を支給する制度も設けられました。

その後も寺輪さんと仲さんは、県だけでなく、実際に被害者や遺族が暮らす市や町にも条例が必要だと考え、県内すべての自治体に足を運びました。

なかには「犯罪がほとんどないので条例は不要だ」という考えを示す自治体もあったといいます。

市長や町長との面会の際、寺輪さんが毎回欠かさず見せたのは、あの「屍」の請求書。
自分が味わった無念さと、被害者への配慮の重要性を訴えました。

寺輪さんの自宅には、これまでに条例が制定された市や町に○をつけた地図がはられています。

自宅には寺輪さんが回った29の市と町の地図が

そして、2年半にわたる要請の末、ついにことし10月、県内すべての自治体で被害者支援の条例や要綱が整備されたのです。

その結果、三重県では公営住宅への優先的な入居や家賃の補助、家事援助など日常生活の支援のほか、事件直後の生活を支える見舞金や、事情によって納税を猶予する制度などが利用できるようになりました。

条例の制定は、行政が犯罪被害者に目を向けるようになったことの表れともいえます。
寺輪さんは「自治体の人たちが思いを汲んでくれたことがうれしい」と顔をほころばせました。

見直された「屍」の請求書

さらに、寺輪さんの声を受けてあの請求書にも変化がありました。

三重県警によりますと、「死体検案」に関わる費用は、遺族に意向を確認した上で同意があれば大学から直接、警察に請求してもらうこととし、いったん遺族が立て替える必要もなくなったということです。事件直後に請求書が届くことが、遺族を苦しめる一つの要因になっていることから、できるだけ精神的な負担をなくすために対応を見直したとしています。

また、「屍」の記載も見直されていました。
基本的には遺族のもとに直接請求書が届くことはなくなっているものの、被害者や遺族の心情を考慮したということです。

三重県警 被害者支援担当
「寺輪さんのように被害者の方が不愉快に感じられたり、二次被害にあわれたりすることは改善していく必要があり、警察としても、被害者の心情に配慮した対応をしないといけないと考えています。当時の対応は見直される必要がありましたし、屍という表現なども修正する必要があったと思います」

三重大学も取材に対し、指摘を受けて現在は対応を見直していると回答しました。

三重大学大学院医学系研究科 法医法科学分野
「死体検案書については、おととし8月に現在の体制になって以降、順次書類を変更して参りました。その際、請求書に関しましては『故__殿』及び『亡くなられた方のお名前』の表記に変更しています。当時の対応につきまして大変申し訳なく感じております。被害に遭われた方やご家族の方のお気持ちに寄り添った対応を心がけて参りたいと存じます」

時間が経っても娘への思いは

生きていれば博美さんは24歳。

当時の新体操の衣装や中学校の制服は、いまもそのまま部屋に置かれています。

博美さんの部屋は当時のまま残されている

娘の死を無駄にしたくないと、寺輪さんは三重県以外でも講演などの活動を始めていますが、事件から9年以上たった現在も、毎週精神科に通院し、処方された薬が手放せない日々を送っています。

そしていまも、毎朝欠かさず博美さんにメッセージを送り続けています。

LINEのメッセージ
「あったかくしておらなあかんで。風邪引かんようにねー」

時が経てば傷が癒える、時間が解決してくれる、そんな言葉は嘘だと、寺輪さんは語ります。

寺輪悟さん
「やっぱり会いたい。会いたいですね。毎日、毎日、博美のことを考え、生きていたらいまごろどんな仕事に就き、結婚はしているのかな、どのような人生を送っているのかな、そんなことばかり考えています。自分で自分を責める日々というのは、当時から何も変わっていません。子どもを守ってやれなかったという思いは、私も妻も生きているうちはずっと変わらないと思います。そして、心に深い傷を負って生きている博美の友だちもたくさんいます。犯罪によって人生を狂わされた人たちは私が思った以上に多かったです。
私は9年前まで普通の人でしたがいまは犯罪被害者という立場に置かれています。いつ犯罪被害者になるかは誰もわかりません。日本全国に犯罪被害者はたくさんいますが、余程の大惨事でないかぎり、みんなの記憶からは消えていくと思います。それだけ手厚いケアはされていないということです。
遺影のなかの博美はいつもと変わらない笑顔で何か言いたそうにしています。もう一度、声が聞きたいです」

取材後記

日本の犯罪被害者にかかわる刑事司法制度は、多くの当事者が悲痛な声をあげることで見直されてきました。
しかし、ある日突然、大きな苦しみを背負わされた被害者やその遺族自身が、それでもなお、声をあげて立ち上がり懸命に訴えなければ、本当に人々の意識や制度は変えられないのでしょうか。

寺輪さんを支え続けてきた仲さんは「寺輪さんのように犯罪被害にあわれた方が、傷ついた心でこのような活動をするのは本来おかしいですし、申し訳ないと思っています。私たちもいつ犯罪被害にあうかわかりません。 ひとりひとりが“我がこと”として自分に引き寄せて考える必要があると思います」 と話しています。

今回、取材させていただいた寺輪さんのうしろにも、深い悲しみや苦しみ、加害者に対する憤りを抱えながら、前に進むことも、小さな声をあげることもできずにいる多くの被害者や遺族がいる、その現実を、私たちは忘れてはいけないと強く感じました。
(クローズアップ現代取材班)