6年待って生まれた子どもでした。
同じ日に産声をあげた2人の娘は、笑ったり、泣いたり、いつも一緒。
彼女たちとの日常は、私たち夫婦のすべてでした。
しかし、それは一瞬で失われました。
突然の交通事故。
2人は旅立つときも一緒でした。
2022年3月18日事故
6年待って生まれた子どもでした。
同じ日に産声をあげた2人の娘は、笑ったり、泣いたり、いつも一緒。
彼女たちとの日常は、私たち夫婦のすべてでした。
しかし、それは一瞬で失われました。
突然の交通事故。
2人は旅立つときも一緒でした。
亜紀と佳奈。
私の双子の娘たちです。
子どもが欲しくてもなかなか授からなかった私たち夫婦にとって、6年待ってようやく生まれた娘たちでした。
生まれたときは、2人とも1000グラムあまりの低体重。
でも、すくすくと育っていきました。
姉の亜紀は穏やかで自由にやりたいことをするタイプ。
妹の佳奈はそれを隣で見守りながらも言いたいことは言う性格でした。
私はそんな2人に愛情を注ぎながらも厳しく育てました。
娘たちが友だちと一緒に登校する約束をすっぽかして学校に行ってしまった日は、その友だちを学校に連れて行って娘2人を厳しく叱ったこともありました。
「人に迷惑をかけないこと。約束は守ること」そう言い聞かせて育てていました。
28年前のあの日、いつものように一緒に家を出た2人を、私は「いってらっしゃい、車に気をつけなさいよ」と言って見送りました。
娘たちが歩き出すと、ふとこう声をかけました。
「きょうは学校に迎えに行くからね」
学校のあと用事があるときには、車で迎えに行くことがありました。
特に用事のなかったその日、なぜそう声をかけたのか、今でもわかりません。
2人を見送り、庭の手入れをしようと外に出ていたら近くに住む人が慌てた様子で駆け寄ってきました。
近くで事故が起きて亜紀と佳奈が巻き込まれたぞ
現場は自宅にほど近いT字路。
急いで駆けつけましたが、現場までの道のりがとても長く感じられました。
そして信じられないような光景を目の当たりにしました。
妹の佳奈は歩道の真ん中にうつ伏せで倒れていました。
姉の亜紀は歩道脇の草むらにうっすらと目を開けたまま、歩道にいる妹を見るようにあおむけで倒れていました。
「えらいね、あんたお姉ちゃんだね」
精一杯、そう声をかけました。
ちぎれたランドセル、折れた傘。
事故現場でぼう然とする私に、集まった人の1人が近づきました。
「見せ物じゃないもんね」と言い、持っていた手ぬぐいを首から外して倒れていた娘の1人にかけてくれたのです。
なんでほかの人が気がついているのに私は子どもに服をかけてあげられなかったんだろう。
真夏で薄着だったのも気にせず、私は慌てて着ていた服を脱いでもう1人の娘の体にかけました。
「いま家から毛布持ってくるから」と、近所の人たちも手伝ってくれました。
まもなく救急車が到着しました。救急隊員の口から出た言葉が、脳裏に焼き付いて離れません。
「2人即死」
亜紀と佳奈をその場に残して、けがをした別の2人の児童が先に運ばれていきました。
少しして、知り合いの救急隊員がやってきました。
福澤さん、家に帰ってなさい。ここは俺に任せてちょうだい。決して2人に悪いようにはしないから
とてもじゃないけど娘たちを残して自宅に帰ることはできないと思いました。
でも、隊員の説得を受けて自宅に戻ることになりました。
立てない。
何をしても立つことができませんでした。
2人の姿を見たショックで腰が抜け、いくら立とうとしても立ち上がることができなかったのです。
その姿を見ていた知人がおんぶをしようとしました。
「娘に笑われる。肩貸してください」
娘たちにそんな姿は見せられないと、知人たちの肩を借りながら一度自宅に戻りました。
これが、28年前に私たち家族に起きた出来事です。
裁判の判決などによると、トラックの運転手は運転中に意識を失い、対向車線にはみ出して車1台と接触したうえ、そのまま歩道に突っ込んだ。
運転手は業務上過失致死傷の罪に問われた。
裁判所は「医師から運転はしないよう指示されていたにもかかわらず、軽率に考え運転を続けた」などと指摘し、禁錮1年8か月の実刑判決を言い渡した。
取材に応じてくれた、福澤きよ子さん(72)です。
1994年7月1日の朝。北海道の上磯町(現・北斗市)の町道で、登校途中だった小学生の列にトラックが突っ込み、福澤さんの双子の娘、亜紀さん(当時11歳)と佳奈さん(当時11歳)が亡くなりました。ほかの児童2人もけがをしました。
福澤さんは、子どもの命が奪われる交通事故が後を絶たないことに心を痛め、講演を続けています。
ただ、そうなるまでの道のりは平たんではありませんでした。
28年の歩みを聞かせてくれました。
事故から少したったころ、福澤さんが夫と2人で現場に足を運んだときのことです。
現場に着くなり、夫が突然歩道に座り込み、拳でアスファルトの地面をたたき始めました。
「ここにいたらダメだ。家に帰るぞ。迎えに来たぞ」
福澤さんも一緒に2人で地面を何度も何度もたたきました。
「家すぐそこだよ。帰るよ」
娘たちにずっと声をかけ続けました。
大切に育ててきた双子の娘を一瞬にして失った福澤さん。
当初は深い悲しみと運転手への怒りがとめどなくこみ上げてきたといいます。
それでも、福澤さんは仏壇の前で娘たちにこう誓いました。
「ママは泣かないで太陽のように明るく頑張っているからね」
努めて悲しみを表に出さないようにしていた福澤さんに、こんな声をかけてくる人もいました。
「あなたは強いね。私だったらただ泣くだけなのに」
励ましのつもりだったのでしょうが、福澤さんをますます辛くさせました。
「私だって毎日泣いていたい。でも泣いていたらいちばん悲しむのは娘たちでしょう」
一時はもう誰にも会わないと心に決め、しばらくは夫とも2人のことを話さなかったといいます。
福澤さん
「夫の方が悲しんでいると思って話題にしませんでした。だいぶ時間をおいて話せるようになりましたが、夫も子どものことを思い出さないようにしていたそうです」
そんな福澤さんでしたが、一周忌、三周忌と経るうちに、少しずつ心の整理ができるようになってきました。
そして、ドライバーなどに向けた交通安全の講演依頼が来るようになりました。
当初はためらいもありましたが、福澤さんは、考え抜いた末、自らの経験を話すことにしました。
「1人でも事故に遭わないように。事故が少しでも少なくなってほしい」
これまでに、多くのトラックやドライバーを抱える運送会社や、建設会社の社員、それに警察官や子どもたちなど、さまざまな人たちに対して講演を行ってきました。
講演会では、痛ましい事故の状況も包み隠さず話しています。
突然尊い命を失う痛みや、残された家族の苦しみを伝え続けてきました。
講演会で、いつも必ず伝えているエピソードがあります。
事故のあと、2人の娘が運ばれた病院に着いたときのこと。
病院の看護師から「2人に着せるものを持ってきてください」と伝えられました。
福澤さんは七夕に合わせて2人のために作った手縫いの浴衣を選び、着せてもらいました。
2人を自宅に連れて帰ろうとすると、看護師から「どのようにお連れしますか」と聞かれ、福澤さんは「この手で抱いて、親子3人一緒に帰りたいんです」と答えました。
「とても抱いて帰れる状態ではありません。それに、車1台に1人しか乗せられないんですよ」という看護師の言葉に、福澤さんはうろたえました。
「自分の体を半分にすることはできない。どうしたらいいのだろう」と、1人でずっと考えていると、しばらくして、同じ看護師がやってきました。
お母さん、準備ができましたよ。ご案内しますね
看護師にいざなわれて福澤さんが車に乗り込むと、車の後ろには、亜紀さんと佳奈さんが2人並んで、静かに横たわっていました。
「ありがとうございました。これで一緒に帰れます」
車は2台準備されていましたが、看護師はルールにとらわれず、願いをかなえてくれました。思いをくみ取って3人一緒に家に帰れるように準備をしてくれた看護師の配慮に、福澤さんは強く感動したといいます。
講演会で福澤さんはこう呼びかけています。
「この看護師のように、みなさんにも“心”で仕事をしてほしい」
警察官たちへの講演で必ず伝えていることがもう1つあります。
事故当日のこと。自宅に戻った福澤さんに警察から「話を聞きたい。署に来てほしい」と連絡が入りました。
「夫が仕事から戻ってくるまで待ってほしい。娘たちを置いて行くことはできない」と伝えたところ、担当の警察官はこう答えたと福澤さんは言います。
署に来られないようであれば加害者に有利な調書になりますよ
しかたなく向かった警察署には、先ほどの警察官が待っていました。
すると福澤さんを見るなり、こう伝えたというのです。
加害者にも娘が2人いるそうです
子どもを亡くした直後の福澤さんに対して、思いやりや感謝の言葉ではなく、加害者の話をし始めたこの警察官の発言に、福澤さんは感情を逆なでされ、こう告げました。
「それなら私が絞め殺してやる。そうすれば立場は同じでしょ」
その警察官はそれ以上言葉を継げなくなったということです。
福澤さんは、このエピソードを通じて、被害者と多く関わる警察官だからこそ、被害者の感情に配慮して仕事をしてほしいと強く訴えています。
「心で仕事をしてほしい」
講演を聴いた交通担当の警察官は、その言葉が自分に直接言われているかのように感じ、“人対人”の心を込めた対応を心がけるようになったと話しました。
講演を聴いた警察官
「亡くなった娘さんたちは私と年がほぼ同じなんです。もし娘さんたちが生きていれば私と同級生くらいで福澤さんも母と近い年なので、母親として突然2人の娘さんを失う話を聞くだけで重かったです。
(自分の)服装を見て、福澤さんは交通事故を担当しているとわかったと思うんですけれども私は前の方に座っていて、私の方を見て訴えかけるように『心で仕事をしてほしい』と言いながら胸に手を当てていました。その言葉は自分に対して直接言われているかのようで心に響きました。警察官が発した何気ないひと言が相手の記憶に鮮明に残る場合もあると思うので、相手の心情に配慮しつつ心のこもった対応をするように心がけています」
講演を聴いた建設会社の関係者からも、ドライバーの安全意識を高める具体的な行動につながったという声が聞かれました。
建設会社の関係者
「自分が同じ立場になったらとか、社員が加害者になったらということを考えた。福澤さんの話を聞いたことが1つのきっかけになって、トライブレコーダーが出始めの時に会社の車や社員たちの車にもドライブレコーダーをつけた。聞いたお話がいまも心のどこかにずっと残っている」
福澤さん
「娘たちには感謝しています。自分を親にしてくれたこと、親の気持ちを味わうことができたこと、自分たち親を育ててくれたこと、そして、たくさんの思い出を残してくれたこと…でも、命はたった1つしかないんです。親がどれだけ嘆いても、帰ってきてって言っても、帰ってこないんです。毎日2人に話しかけて一緒に暮らしています。いまも娘たちがいない日常はないんです。ふだんから仲がいいと言われていた2人です。その2人が一緒に旅立った。2人一緒なら寂しくないよね。それだけがわたしたち夫婦にとって良かったと思えることです」
全国では子どもが巻き込まれる事故が相次いでいます。
福澤さんはこうしたニュースに触れるたび、心を痛めています。
被害者が一生懸命に声を上げてもなお、身勝手な運転によって奪われる命があるのは、被害者の立場に立っていない人がいるからだと話します。
ハンドルを握る大人にはしっかり責任を持って運転してほしいと強く訴えています。
事故から28年。
今も現場では、子どもたちが毎朝学校に通っています。当時と変わらず交通量は多く、大型トラックが行き交っています。
事故の1年後に信号機や横断歩道が設置されましたが、いまも歩道にガードレールはありません。
亜紀さんと佳奈さんが通っていた小学校では毎年、事故が起きた7月1日に、児童が交通事故の悲惨さについて学ぶ機会を設けています。
児童が自分たちで考えた交通安全のスローガンを、全校集会で発表しているということで、福澤さんも毎年参加して、児童たちに命の大切さと事故防止を強く訴えています。
自分が生まれる少し前に、自分が後に勤務する場所で、こんな悲惨な事故が起きていたことを知り、とても驚きました。
亜紀さんと佳奈さんのいないこれまでの年月を、ご遺族がどのような思いで過ごしてきたのか、話を聞きたいと思いました。
日常が突然失われた後の年月を、福澤さんはとても長く感じているといいます。
何をしていても2人のことを思い出し、涙がとめどなくあふれた日もあると話してくれました。
初めて私が福澤さんの家を訪ねた日。
部屋にはたくさんの写真が飾られていました。
福澤さんが編んだセーターを着て並んでいる2人。
にっこりと笑った福澤さんに抱かれている2人。
何気ない日常の1コマ。
写真1枚1枚に亜紀さんと佳奈さんの人生が映し出されているように感じました。
2階の1室は2人の部屋になっています。
写真のアルバムは色あせ、2人が書いた作文の原稿用紙は黄ばんでいて、28年という長い時間がたったことを感じさせました。
ご遺族にとっては事故から時間が止まったままです。
同時に2人を失った悲しみと向き合い続けています。
1つでも事故がなくなるようにーー。
そして、2人が生きた証しを伝えたいーー。
福澤さんの思いが1人でも多くの人に届いてほしいと感じました。
函館放送局記者
小柳玲華 2020年入局。函館局が初任地。
警察・司法を担当し、事件・事故を中心に取材。
「どうして代わってあげられなかったんだろう」能登半島地震 珠洲市で土砂崩れに巻き込まれ、家族4人を亡くした警察官の大間圭介さんは
2024年2月1日