
その時代、「G」は粛清の憂き目にありました。
英語の「G」にあたる、ウクライナ語のアルファベット「Ґ(ゲー)」。
この文字が一時期、公的に消されたのです。
一体なぜ?その後、何が起きたのか?
そこにはロシアからの独立を目指した、ウクライナの長い、長い歴史がありました。
(国際部記者 吉元明訓、ネットワーク報道部記者 杉本宙矢)
ロシアとの戦いは”独立運動”?
ロシアがウクライナに軍事侵攻を始めてからまもなく11ヶ月。今なお、激しい戦闘が続いています。
ロシアのプーチン大統領は当初、“ウクライナ東部のロシア系住民の保護”を大義名分に掲げ、その後“祖国防衛のための戦い”に切り替えたと指摘されます。
一方で、ウクライナ側にとってこの戦いはどんな意味があるのでしょうか?
「現在のウクライナのロシアとの戦争は、”独立運動“と言えると思います」
こう指摘するのは、ウクライナ史が専門で東京大学の中井和夫名誉教授。

なぜ「独立運動」?そもそもウクライナは独立国ではないのでしょうか?
中井名誉教授によると、ウクライナとロシアの戦争は18世紀以降に限っても3回起きていて、今回は4回目にあたるといいます。
「ウクライナの歴史はいわば”喪失の歴史”でした。その最も重要なものは、コサックです。誇り高い、民族のアイデンティティーの根幹とも言えるコサック社会が、ロシアに粉砕され、コサックは散り散りになりました。ロシア帝国に併合されて以降、繰り返し実力闘争をしたり、文化運動を展開したりしました。しかし、度々弾圧に遭い、“独立”が損なわれただけでなく、文化や言葉、そして文字まで弾圧されたのです」(中井教授)
独立と言葉の歴史、詳しく聞きました。
(以下、中井名誉教授の話です)
文字が弾圧されたってどういうこと?
ウクライナ語の文字「Ґ(ゲー)」のことです。
この文字は英語の「G」にあたりますが、ロシア語にはない文字です。

ロシア語では英語の「H」にあたる発音がなく、「ゲー」と「へー」を区別できませんが、ウクライナ語ではこの「Ґ(G)」のおかげで区別できます。ですので、例えば、ドイツの哲学者「ヘーゲル」の名前をロシア語では「ゲーゲリ」と書くことになりますが、ウクライナ語なら「ヘーゲル」と書けるのです。
この「Ґ(G)」が一時期ロシアによって廃止させられます。その後、1990年に復活しました。1991年の独立の直前でした。そのため、この文字は“独立のシンボル”とも言われます。
ウクライナ語は使えなかった?
そもそも1991年の独立までの100年あまりの間で、ウクライナ語の使用が常に奨励されていたわけではありません。
政府官庁や教育で用いられていた言語は基本的にはロシア語で、例えば大学入試もロシア語でした。だから、ウクライナには今も昔もロシア語話者が多いのです。
ゼレンスキー大統領ももともとロシア語を話していて、ウクライナ語はあとから学んだと言われています。

そもそも2つの言語はどれぐらい違うの?
ウクライナ語もロシア語も、同じ東スラブ語のグループに属していますから、似ていることは似ています。19世紀にはロシア側から「ウクライナ語はロシア語の“方言”だ」と捉えられていたほどでした。
1905年に、複数のロシアの著名な言語学者が「ウクライナ語は独立言語だ」と宣言するまで、ロシア帝国では、1つの独立言語と、認められていませんでした。
ウクライナ語は「存在しない」とまで言われていました。
「存在しない」ってどういうこと?
「ウクライナ語が存在しない」という考えは、「ウクライナは存在しない」という考えにつながっています。
1709年にウクライナ・コサックが自治権をかけてピョートル大帝と戦って敗れ、その後、1782年に領土がロシア帝国の直轄領として編入されて以降、ウクライナ語への圧力・制限が進みました。
(編入までのコサックの歴史はこちら↓)

1863年には、内相のヴァルーエフという人物がウクライナ語の出版を禁止するのですが、そのときにこう言っています。
「ウクライナ語は存在しなかったし、存在していないし、これからも存在しない」
存在していないものを禁止するというのですから、これは明白な矛盾ですが、1876年にはさらに、ウクライナ語での翻訳も含めた出版、講演、舞台、教育が全面的に禁止されます。これを「エムス法」と言います。
なぜそんなにも禁止したかった?
独立したウクライナ語を認めることは、「独立ウクライナ」を認めることにつながるというロシア側の危惧からでした。
ウクライナ・コサックの国家が消滅して以降、「武装闘争」としての独立運動は影を潜めましたが、代わりに「文化運動」が登場していたのです。
文化運動のはしりは、1846年にキーウで結成された「キリル・メトディー団」という一種の秘密結社です。学生や学者たちの思想集団で、ウクライナの民族の覚醒を訴えました。
ほとんど実質的な活動はしないままメンバーはすぐに逮捕されてしまいますが、中でも独立運動にとってとりわけ重要だったのが、詩人の「タラス・シェフチェンコ」でした。
シェフチェンコって何者?
シェフチェンコは近代ウクライナ文語を確立させた国民的詩人です。

もともと貧しい「農奴」の出身ですが、絵描きの才能が認められ、のちに農奴から解放されると、ウクライナ語の詩集『コブザール』(吟遊詩人)を1840年に発表し、一躍有名になります。存在しない、と決めつけられたウクライナ語で詩を書いていることに注目する必要があるでしょう。
その詩は、ウクライナの過去の栄光と現在の悲惨な状況を対比的に描いているのが特徴的で、ウクライナを滅ぼしたロシアを激しく批判した反ロシア的な詩が数多くあります。
例えば、「夢(喜劇)」は酔っ払った主人公の「わたし」が見た夢の内容を語るという設定で、ロシアの宮殿でのぜいたくな暮らしと、貧しく厳しい生活を強いられるウクライナの民の様子が対比され描かれます。
「夢(喜劇)」(一部抜粋)
太っ腹で豪奢なことが好きな輩は(※)
年中 寺院を建造している(中略)上から下まで 金ピカの衣装の
胡麻すりたちが控えている。
おや 背の高い、
イライラした様子の
皇帝陛下のお出ましだ。
かたわらには 哀れな皇妃。
干からびたキノコのように
痩せこけて 脚の長いその人は、
気の毒なことに、
たえず頭を揺り動かしている。(中略)
正教徒たちは大声で叫んでいる。
喚き、吠えたてる。
「父なる皇帝のお出ましだ、お出ましだ!
ウラー(※)!ウラー!ウラ~ア、ア、ア、ア・・・・・・」わたしは吹き出し、笑いがとまらなかった。(中略)
豚のような顔をした長老たちが
一列に並んで
荒い息を吐き、鼻を鳴らしながら、
七面鳥のように突っ立って、
横目でドアを見つめている。(後略)『シェフチェンコ詩集』藤井悦子編訳 岩波文庫
※太っ腹で豪奢なことが好きな輩:
ロシアの皇帝ニコライ1世のことを指している。
※ウラー:
ロシア語で「万歳」という意味。
当時のロシア皇帝や皇后、それに従う高官たちをあざ笑い、その支配を皮肉りました。
よほど怒りを買ったのでしょう。当時の皇帝はシェフチェンコに対する判決書に自ら自筆で注釈を付け、「詩と絵を書くことを禁止」とした上で、無期流刑としました。彼ほど重い罰を受けたメンバーはいませんでした。
47歳で亡くなったシェフチェンコの生涯は、ウクライナそのものの運命を想起させ、その詩は独立を目指す人々の心の奥底に入り、力を与えました。ウクライナでは詩と詩人が重んじられ、詩人が独立運動の指導者の一人になったこともありました。

独立運動の機運、その後どうなる?
次に盛り上がりを見せるのは、1917年のロシア革命の時期です。帝国ロシアの瓦解の兆しが見えると、ウクライナの民族主義グループは「中央ラーダ(※)」を結成して独立宣言を出し、「ウクライナ人民共和国」が成立します。
しかし、ロシアでの革命で政権を握ったボリシェヴィキ(※)はウクライナの独立を認めず、「革命遠征軍」と称して、ウクライナに赤軍を送り込み、キーウ攻撃をし、ここでまたウクライナは敗北します。

最終的に、ウクライナは1922年に、ロシアなど3つの社会主義共和国との条約で「ソビエト連邦」の一部となるのです。
※ラーダ
コサックの意思決定の集会に由来し「評議会」などを意味する。ロシア語の「ソビエト」にあたる。
※ボリシェビキ
レーニンが率いたロシア社会民主労働党の左派で、1917年の十月革命(十一月革命)で社会主義政権を樹立した。のちの共産党。
ソビエト政府はウクライナをどうしたの?
ソビエト政府は当初、支配を根付かせるために「ウクライナ化政策」と呼ばれる路線を取ります。ウクライナ語をロシア語とともに公用語に採用し、ウクライナ文化を鼓舞したのです。

その結果、1922年から1933年までの10年間は、まるで“ウクライナのルネッサンス”というぐらい、いろんな運動、詩、散文、劇作、絵画など、ウクライナ文化が全面的に花開いた時代になりました。「ウクライナ民族主義」へのソビエト・ロシアからの譲歩だった、と言えます。
その後、何が起きた?
しかし、ウクライナの民族主義と「ウクライナ化」に反対し、インターナショナリズムの名のもとに「ロシア化」を推し進めようとする勢力がありました。スターリン(※)はその筆頭でした。

※スターリン
1924年から1953年までの旧ソビエトの指導者。恐怖政治による独裁体制を敷いた。
ウクライナで始めに攻撃されたのが文学研究所でした。1933年になると、ウクライナ化を推し進めてきた指導者を「民族主義的偏向だ」と批判し、自殺に追い込み、知識人・文化人を逮捕。更には党員までも、流刑や処刑を行いました。「粛清」と呼ばれます。
そして、ここにきてやり玉に挙がったのが、「Ґ(G)」の文字でした。ロシア語になく、「民族主義的偏向の象徴だ」としてこのとき廃止され、辞書からも消されます。1933年のことです。
「Ґ(G)」は、いわば「ロシア化」の犠牲者と言えるでしょう。
旧ソビエトに対して独立運動は起こらなかった?
第二次大戦が勃発し、ソビエトがナチス・ドイツと戦う「独ソ戦期」になると、ソビエト政府は再び、ウクライナ語やその文化を鼓舞しました。民族的なものも動員して戦意高揚につなげたいというねらいでした。
一方、ドイツによる侵攻の際、西ウクライナでは民族主義的なグループの軍事組織が、ドイツ軍と協力する形で、一時ソビエト連邦からの独立宣言も出しました。
しかし、その後、ドイツ軍との間に対立が生じて熾烈な戦闘となり、ドイツ軍が撤退した戦後は、今度はソビエト軍と戦闘を繰り広げますが、結局敗れました。
変化の兆しはいつ?
戦後は反動で再びウクライナ語は抑圧されたのち、60年代には部分的に緩和されましたが、その間も「Ґ(G)」が復活することはありませんでした。
ようやく変化の兆しが見えてきたのは、1980年代後半。「ペレストロイカ」の時期です。ペレストロイカとは、社会主義経済が停滞する中で、ソビエト政府が中央集権的な経済の管理体制を見直す動きです。
さらに、1986年にウクライナで起きた「チェルノブイリ原発事故」(※)は、ソビエト政府への反発を強め、ウクライナの民族意識に火をつけました。

その年の6月には、ウクライナの作家・詩人たちはキーウで集会を開いて、「言語のチェルノブイリ」という言葉でウクライナ語に対する危機感を訴えたのをきっかけに、ウクライナ語の文字「Ґ(G)」の再導入を求める声も上がり始めたのです。
※チェルノブイリ原発事故
ウクライナ北部のチョルノービリ原発(チェルノブイリ原発)で核燃料が溶け、爆発と火災が発生し、大量の放射性物質が放出された“史上最悪レベル”と呼ばれる原発事故。
独立のプロセスは?
1989年には通称「ルーフ(=運動)」という“民主派”の組織が形成されます。これはかつての中央ラーダ以来の民族統一戦線といえるような連合体でした。
ルーフは当初、ウクライナ共産党とも協力する方針でした。しかし、共産党がルーフの存在を認めようとしなかったため、次第に急進化し、翌90年には「ウクライナの完全独立」を目標に掲げるに至ります。

決定打になったのは、当時のウクライナ共産党のトップの態度でした。ウクライナの最高会議で「主権宣言」を採択するか否かという大事な審議の局面で、彼を含めて63人の議員が、ソビエト共産党の党大会に出席するために審議をほっぽり出してモスクワに行ってしまいました。
残された人々は、当然ながら「無責任だ」と憤りました。“民主派”のルーフと“主権派”と呼ばれたウクライナ共産党の残りのグループが一体となり「主権宣言」を採択したのです。
そして1991年、ウクライナ最高会議はついに圧倒的賛成多数で「独立宣言」を採択するに至ります。採択した8月24日はウクライナの独立記念日となりました。

「Ґ(G)」はどうなった?
この文字はおよそ60年ぶりに復活を遂げました。「独立宣言」が採択される直前の1990年のことです。
復活を決めたのは、ウクライナ科学アカデミーの言語学研究所でした。
「Ґ(G)」はまさしく、ウクライナの「独立運動」の中にあって、象徴的な運命を背負わされてきたのです。
(ここまで中井名誉教授の話)

“独立運動”の魂
ロシアによる侵攻が始まったあとの3月9日。
その日はあの国民的詩人シェフチェンコの誕生日でした。
ウクライナの街の広場では、人々が詩を朗読し、ロシアへの抵抗を誓っていました。

最後にそのシェフチェンコの詩を紹介します。
「遺言」(1845年)
『シェフチェンコ詩集』渋谷定輔・村井隆之編訳 れんが書房新社
私が死んだら
なつかしい ウクライナの
ひろい丘の上に
埋めてくれ(中略)
私を埋めたら
くさりを切って 立ち上がれ
暴虐な 敵の血潮と ひきかえに
ウクライナの自由を
かちとってくれ
そしてわたしを 偉大な 自由な
あたらしい家族の ひとりとして
忘れないでくれ
やさしい ことばをかけてくれ
ウクライナの歴史の記事
ウクライナの歴史についてはシリーズでお伝えしてきました。

