フィギュアスケート 鍵山優真 父とつかんだ銀メダル

北京オリンピックのフィギュアスケート、男子シングルで初出場ながら銀メダルを獲得した18歳の鍵山優真選手。シニアデビューから2シーズンで急成長を遂げ、世界のトップレベルにまで駆け上がったその傍らには、いつも父でコーチを務める正和さんがいる。父がスケーターとして初めてオリンピックの舞台に立ってから30年。その思いを受け継いだ息子が北京で結実した絆の物語をひもとく。
(スポーツニュース部 記者 今野朋寿)

目次

    “滑り方が似てるねって”

    鍵山選手が初めてリンクに立ったのは富山市のスケートリンクだった。
    1992年のアルベールビル大会とその2年後に開かれたリレハンメル大会に出場した正和さんは引退後、ここでインストラクターを務めていた。

    鍵山正和さん

    「僕の職場が氷の上だったので、なかなか遊んであげられる時間もなくて遊びついでですよね。最初のうちは氷のリンクの端っこの方で自分で氷をガリガリ削ってぱくぱく食べてましたよ」

    鍵山正和さん(1993年 NHK杯)

    現役時代の正和さんは当時、世界で数人しか跳べなかった4回転ジャンプに挑んだ日本選手の草分け的な存在だ。

    遊び場だったはずのリンクは、息子の成長とともにフィギュアスケーターとしてのノウハウを伝える場へとなっていった。
    ジャンプの回転の軸を作るためにスピンの練習を繰り返した。
    スピードを出して跳ぶことを意識させる練習を徹底したのも、このころからだ。

    鍵山優真選手

    「お父さんも選手の頃はよいところがたくさんあった。多くの人が膝の使い方とか滑り方が似てるねって言ってくれるんですけど、イコール、使い方が上手いって言われてるのと一緒だと思うのですごくうれしい」

    父譲りのスピード感あふれる軸の安定したジャンプ。
    それが鍵山選手の代名詞となっていった。

    “いつ辞めてもいいや”

    正和さんは当初、熱心に練習する息子をうれしく思う反面、スケートにのめり込んでいく姿に複雑な思いも感じていた。

    鍵山正和さん

    「結果が出ようが出まいが一生懸命に打ち込んでくれればいいっていう感じで思っていたんですよね。いつ辞めてくれてもいいやっていうのもありました。知ってるので、厳しさを。だからこんな所に足を突っ込んでくれるなというのも、親としてはありました」

    父としての思いとは別に、競技者として鍵山選手は着実に力を伸ばしていく。
    ノービスからジュニア、ジュニアからシニアと階段を上がるごとに世界との距離が縮まっていく。

    正和さんは厳しさを増すその道の先へと進む覚悟があるのかと息子に尋ねた。
    鍵山選手に迷いはなかった。

    鍵山正和さん

    「彼はすごくスケートが好きでスケートのことを愛してると思うんですよね。なので多分、そういったものが自然に出てくるようになってくると思うんですよ、もう少し時間をかければ。だから多分それが彼の魅力になってくるのかな」

    “3番手を狙わない”

    シニアデビューすると目の前には大きな壁があった。
    世界のトップを走る羽生結弦選手と宇野昌磨選手だ。

    鍵山正和さん

    「怪物選手たちと肩を並べていくためには怪物級の練習をしなきゃいけない。もちろん彼にも言ったんですけど、誰が見ても真似できないっていうぐらいまでやっぱり練習をしていかないと追いつけない。(大事なのは)3番手を狙わないって事です。3番手を狙っていてはやっぱりそこがてっぺんになってしまう」

    鍵山優真選手

    「僕が狙ってるのはさらに上。羽生選手とか宇野選手とかと肩を並べて戦えるぐらい強くならないといけない」

    “誰が見てもまねできない練習”
    1日朝昼晩、圧倒的な練習量を積み重ねると成長曲線は急カーブを描く。
    去年の世界選手権で初出場ながら2位と躍進を遂げた。

    “われわれは挑戦者だ”

    駆け上がる勢いそのままに北京オリンピックへと向かうと思われたが、思わぬ落とし穴が待っていた。
    今シーズンの序盤、自信を持っていた安定感のあるジャンプが突然、失われたのだ。
    鍵山選手は戸惑い悩んだ。

    鍵山優真選手

    「もう酷かったですね、今シーズンは駄目なのかなって思って。オリンピックがあるので落ち込んでられないなと思ったんですけど、でも何かふとしたときに本当に上手くいくのかなと思ったりして」

    気づかぬうちに増していた重圧。去年11月の国際大会のショートプログラムで過去にないミスが続いたあと、正和さんはこう息子に声をかけた。

    “初心にかえって練習してきたことをやるだけ。われわれは挑戦者だ”

    鍵山優真選手

    「自分でもどうすればいいか分からない状態だったので、そこでお父さんが言葉をかけてくれて、立ち直れました」

    鍵山正和さん

    「優真がしっかり練習してきたからこそ言えることばであって。やっぱり練習がちゃんとできていなければどんな言葉をかけてもダメでしょう。だから、僕が支えていると言われますが、あいつが“魔法の言葉”に変えてくれている」

    鍵山選手は不調を乗り越えてオリンピック代表の座を勝ち取った。

    “これからも一緒に”

    鍵山優真選手

    「ただ勝ちたい、勝つのではなくてやっぱり自分の理想とする演技をした上で、勝利をつかみ取りたい」

    オリンピックに向けた準備を進めていた1月。
    鍵山選手は勝つために必要なことを求めて自身にとって3種類目の4回転ジャンプにも積極的に取り組んでいた。

    そして、迎えたオリンピック本番。

    鍵山選手は父ゆずりの軸のきれいな4回転ジャンプを次々と決めた。

    “3番手を目指すな”ということばのとおりに日本勢トップの銀メダルを獲得した。

    父は涙を拭いながら息子にそっと「おめでとう」と伝えた。

    鍵山優真選手

    「すごく充実していて濃い2年間だった。今までずっと一緒にうれしいことも苦しいことも過ごしてきたのでそれを乗り越えて今回のオリンピックで自分らしい演技ができたことはよかったと思うし、成長した姿を見せることができてよかった。親孝行ができたし、これからも一緒に頑張っていきたい」

    オリンピックという舞台で夢をつかんだ父と子の物語。
    その続きは4年後に向けてまた紡がれていく。

    鍵山優真選手のプロフィールはこちら

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