国産ジェットなぜ撤退 三菱航空機 元社長が語る教訓

国産初のジェット旅客機として愛知県を拠点に開発が進められた「スペースジェット」は2008年に事業化が決まり、15年に初飛行に成功しました。しかし完成機の納入が6度にわたって延期され、23年2月に事業からの撤退が発表されました

巨額の開発費が投じられたプロジェクトはなぜ未完に終わったのか。開発を担った三菱航空機(三菱重工業の子会社)の元社長、川井昭陽さんに聞きました。

重なる納入延期 元社長が感じていた懸念

3度目の納入延期が発表された2013年の記者会見

川井さんは2013年から2年余り社長を務め、就任した年には3度目の納入延期を発表しました。記者会見では「そんなに大きな影響はないのではないかと確信している」と述べていました。

しかし、実際には懸念もあったといいます。

三菱航空機 元社長 川井昭陽さん
「日本はもう長い間、民間機をつくってもいない。誰もいない、分かっている人が」

川井さんには苦い経験がありました。45年前に開発に携わった国産ビジネスジェット機「MU-300」が初飛行に成功しましたが、不況を受けてアメリカの航空機メーカーに事業が売却されました。そのため、民間航空機の開発経験がほとんど継承されなかったといいます。

「MU-300」

「型式証明」が壁に

今回の最大の壁は、安全基準などを満たしていることを証明する「型式証明」の取得でした。製造する日本と納入先の国で必ず取得が必要ですが、携わった経験のある人材が不足していました。

川井昭陽 元社長

川井元社長
「“飛ぶ飛行機”をつくるのはやさしい。だけど、“安全ということが証明できた飛行機”をつくるのは、これはすごく難しい話。(型式証明については)みんな素人集団であったと言わざるを得ないと思う」

“学ぶ姿勢”の欠如も

危機感を覚えた川井さんは、型式証明の取得の実績がある外国人技術者を招きました。しかし日本の技術者たちには、謙虚に学ぶ姿勢が欠けていたといいます。

川井元社長
「その当時の方(日本の技術者)たちは『俺たちは飛行機を知っているんだ』と。(外国人技術者は)世界のトップレベルです。だけど、その人が言っても年寄りだから『年寄りが何を言っとるんだ』と、こうなる。それを何ともできなかった自分が、やはり情けないと思う」

「開発を継続させること。やめれば何もなくなる」

川井さんが退任したあとも、開発陣は型式証明の壁を崩せず、プロジェクトは終わりを迎えました。

今回の事業撤退は、長年、人材育成をおろそかにしてきた結果だと言う川井さん。プロジェクトの経験と教訓を生かすために、航空機産業などで開発を続けていくべきだと話します。

川井元社長
「どう人を育てるかというところで準備が足らなかったんじゃないかなと思う。開発を継続させることです。本当に、継続は力。ということは逆に、やめてしまえば何もなくなる。だから小さくてもいいから開発をずっと続ける。その核となる人間はずっと長い間かけて育てていく。そっちのほうに希望を見いだしたいと思っている」

課題検証へ国の会議発足

スペースジェットを巡っては、経済産業省が撤退に至った原因の究明などを行う会議を設けました。今後の航空機産業の発展に向けた課題も検証し、2023年度中に戦略を取りまとめるということです。

経済産業省も事業撤退の原因究明に乗り出した

(名古屋局 玉田佳、中西英晴)
【2023年8月2日放送】
あわせて読みたい