2023年9月29日
IT 注目の人物

知られざるスティーブ・ジョブズ・コレクション 画廊との20年

マッキントッシュ・コンピューターからiPhoneまで、ITの傑作商品を次々と開発して世界を変えたスティーブ・ジョブズ。IT分野のフロントランナーとして世界をけん引する⼀⽅、⽇本⽂化にも深い関⼼を持っていたことが知られている。

しばしば京都を訪れ、すしやそばといった⽇本⾷も好んでいた。そうしたジョブズが、ひそかに熱中して集めていた⽇本⽂化が、もう⼀つある。ジョブズの死去(2011年)から来年で10年。ジョブズの「隠れた⼀⾯」に迫る。

(国際放送局 佐伯健太郎)

※この記事は2020年5月26日に公開したものです。

新製品発表 スクリーンに現れたのは…

ジョブズがマッキントッシュ・コンピューターを発表した1984(昭和59)年1⽉。

スクリーンに現れたのは、テクノロジーとはおよそそぐわない、流れるように美しい⿊髪をくしでとかす浴⾐姿の官能的な⼥性だった。

新製品を発表したジョブズ(左) 画⾯には新版画の作品(右)が…

この絵は、橋⼝五葉(はしぐち・ごよう)という“新版画”の作家が1920(⼤正9)年に制作した⽊版画「髪梳ける⼥」(かみすけるおんな)。当時の関係者は、ジョブズが会社に持ち込んだものを利⽤したと話している。

ジョブズは、コンピューターを発表する前の1983年6⽉と、その後の1984年2⽉に、同じ作品を⽇本で購⼊したことがわかっている。ジョブズがとても気に⼊っていたとみられる。

ジョブズが禅や和⾷などの⽇本⽂化に傾倒していたことは知られているが、“新版画”に熱中していたことは、ほとんど知られていない。私は、ジョブズがなぜ⽇本の新版画を採⽤したのか、以前から不思議に思っていた。そうしたジョブズの「隠れた⼀⾯」を知るキーパーソンが東京にいた。

「新版画を集めたいので、いろいろと教えてほしい」

1983(昭和58)年3⽉、東京 銀座の⽬抜き通りにあった⽼舗の画廊を、よれよれのTシャツにジーンズ姿の3⼈の若者が訪れた。その1⼈が、当時、アップル・コンピュータの会⻑を務めていたジョブズだった。

接客をしたのは、松岡春夫さん。英語を話し、1969(昭和44)年から1975(昭和50)年まで、画廊のサンフランシスコの⽀店に勤めた。

松岡春夫さん(当時78)

松岡さんに名刺をさし出したジョブズはいきなり、「これから新版画を集めたいので、いろいろと教えてほしい」とあいさつした。当時は印刷代がまだ⾼い時代で、松岡さんは、⼿渡された多⾊刷りの名刺を⾒て驚いた。

ジョブズが松岡さんに渡した名刺

このとき同⾏した2⼈は、ジョブズと共に会社を⽴ち上げたスティーブ・ウォズニアック⽒と同僚のロッド・ホルト⽒。いずれもアップル・コンピュータの歴史に残る⼈たちだ。

初めて店を訪れたジョブズが購⼊したのは、新版画の作品2点。このうち、桜の背景に富⼠⼭が描かれた作品について、松岡さんは、欧⽶⼈が好みそうな典型的な作品だと感じた。ただ、もう1点の美⼈画は、数が少なく、貴重なもので、⾼額であったにもかかわらず、ジョブズが買ったことが印象に残った。

ジョブズが初来店時に購⼊した川瀬巴⽔「⻄伊⾖⽊負」(にしいずきしょう)1937(昭和12)年

実は、松岡さんは、ジョブズがどんな⼈物か知らなかった。わかったのは、その⽇、⾃宅に帰って、ジョブズを紹介する⼣刊の記事を⾒たときだった。その後、松岡さんとジョブズとのつきあいは20年に及んだ。

新版画=明治〜昭和の⽊版画

ジョブズが購⼊した“新版画”の作品というのは、明治後半から昭和にかけて作られた⽊版画のことだ。江⼾時代に⼈気があった浮世絵版画に近代的な⾊を使い、伝統の復興を⽬指した。

海外から観光客を誘致するため、当時の鉄道省が作った海外向けのポスターやカレンダーに採⽤されたり、アメリカの展覧会で紹介されたりして、1930年代半ばには、⽇本よりも海外で⼈気があった。

海外向けの雑誌(1950(昭和25)年)の表紙に使われた川瀬巴⽔の作品

「作品を選ぶ嗅覚には、プロの感覚を感じた」

ジョブズは⽇本に来ると、⼈が少ない午前中に店に⽴ち寄ることが多かったが、1⽇に2回⽴ち寄ることもあった。娘を連れてきたこともあった。

松岡さんが⽬を⾒張ったのは、新版画についてのジョブズの知識だった。店に⼊ってくると、松岡さんがいる奥の版画コーナーの部屋に⼊ってきて、在庫にある作品を⾒せてもらいながら、パッパッと素早いスピードで、「これは」という作品を購⼊した。それが終わると、新版画の作家の画集を⾒て、作品をチェックしていた。

その様⼦を⾒ていた松岡さんは、「ほしいものが、すべて頭の中に⼊っているようだった」と話している。

同時に強く印象付けられたのが、ジョブズの審美眼の確かさだった。ジョブズは、新版画の重要な作品をきちんとおさえていた。それは、明らかに、⼀般の⼈とは違っていた。

松岡さんは、「ジョブズさんの作品を選ぶ嗅覚には、プロの感覚を感じた。まだ若かったにもかかわらず、新版画について何⼗年も勉強しているという感じだった。よほど勉強していたのではないか」と、驚きを隠さない。

また、ジョブズが注⽂したのは、特に1923(⼤正12)年の関東⼤震災の前に制作された作品が多かった。そうした作品は、多くが焼失していて数が⾮常に少なく、貴重なものとなっていた。

川瀬巴⽔「塩路おかね路」1918(⼤正7)年

ジョブズが購⼊した「塩路おかね路」(しおじおかねみち)について、松岡さんは、「外国⼈がおよそ選ぶことのない渋好みの作品。数が少ないので、値段も⾼かった」と話している。

この作品は、川瀬巴⽔(かわせ・はすい)が⽇本の⾵景を版画で制作した最初期のものだ。ジョブズは、そこまで知っていたのだろうか。

松岡さんによると、ジョブズが購⼊した新版画の作品は、少なくとも41点。最も多かったのは、⾵景画が得意だった川瀬巴⽔の25点で、全体の60%を占める。

このほか、川瀬巴⽔の作品24点を含む33点の注⽂を受けていた。ジョブズは、特に川瀬巴⽔と美⼈画、そして雪景⾊の作品を好んだ。

川瀬巴⽔「雪の⽩ひげ」1920(⼤正9)年

ただ、松岡さんは、店にあるものを紹介することに徹し、客の好みをあえて聞くという、⽴ちいった接客はしなかった。

ジョブズが選んだものについて松岡さんは、「平和や⾊彩の豊かさが感じられる作品が多い。ノスタルジーの感じ⽅が、⽇本⼈と同じなのではないか」と話している。

ビジネスの成功を⼦どものように喜ぶ

松岡さんとよく話すようになったジョブズは、時折、⾃分のビジネスのことについて話すこともあった。

ジョブズは、当時のソニーの盛⽥昭夫会⻑のことをよく話し、「盛⽥さんにヘリコプターに乗せてもらって、東京を1周した」と笑顔で話していた。また、ソニーが開発したブラウン管の「トリニトロン」が欲しかったと話し、それに関する商談がまとまったときには、店内で⼦どものようにはしゃいでいた。

⼀⽅、IT分野のフロントランナーになっていたジョブズにとって、松岡さんの店に通った時期は、みずから設⽴したアップル・コンピュータから追放された時期とも重なる。この直前、松岡さんは、ジョブズが「おれは⼀株を残してアップルを去るんだ︕」と厳しい⼝調で話していたのをよく覚えている。

松岡さんは当時のジョブズの⼼境について、「新版画の作品を⾒ることで、⼀時的にでも、厳しいビジネスの世界から逃れて、傷ついた⼼を癒やし、リラックスしたかったという、そのひと⾔に尽きるのではないか。本⼈には、それが、とても⼤事なことだったのではないか」と話している。

新版画 関⼼の原点は…

しかし、なぜ新版画が好きなのか、ジョブズが明かすことはなかった。

ビル・フェルナンデス⽒

そんなジョブズの新版画への関⼼の原点を、明かしてくれた⼈がいた。⼗代の頃からの友達で、アップル最初の従業員として雇われたビル・フェルナンデス⽒。彼は、「スティーブに新版画についての興味を与えたのは、⾃分の⺟親だった」と話している。

ジョブズは13歳から18歳まで、友達だったフェルナンデス⽒の家でよく遊び、彼の⺟親に⾃分の息⼦のようにかわいがられていた。

実は、フェルナンデス⽒の祖⽗が川瀬巴⽔の作品を集めていた。そして、スタンフォード⼤学で⽇本美術を学んだ⺟親が、⾃宅でいつも新版画の作品を10枚ほど掲げていたのだ。

フェルナンデス⽒の⼦どもの頃の家

フェルナンデス⽒は、「スティーブは間違いなく、私の家に掲げられていた美術品の影響を受けていた」と話している。

左端が川瀬巴⽔「⾚⽬千⼿の滝」1951(昭和26)年

フェルナンデス⽒が当時住んでいた家の写真からも、川瀬巴⽔の作品が掲げられているのがわかる。その後、⽇本を訪れたジョブズは、この中にあった「⾚⽬千⼿の滝」(あかめせんじゅのたき)を松岡さんから購⼊した。ジョブズはどんな気持ちだったのだろうか。

これまでの取材で、私はジョブズと親しい関係にあった⼈たちに連絡を取ったが、秘書を務めたリン・タカハシ・フランクリン⽒から「浮世絵にはとても興味を持っているようだった」というコメントを得るのが精いっぱいだった。

また、アップル⽇本法⼈の社⻑などを務め、ジョブズと7年間仕事をした原⽥泳幸⽒は、「ビジネスにおいては深いつきあいがありましたが、プライベートな部分について、彼はすべての⼈と距離をおいていたと思われます。彼の⽇本の⽂化に関する興味はいろんな場⾯で知っていましたが、決してそれを⽇本⼈に話さなかったことも、彼らしさと思っています」というコメントを寄せてくれた。

いまも謎の1枚

ジョブズとの20年にわたるつきあいの中で、松岡春夫さんにとっては、いまも謎の残る1枚がある。川瀬巴⽔が戦前の1937(昭和12)年に制作した「阿かい⼣⽇」(あかいゆうひ)だ。

川瀬巴⽔「阿かい⼣⽇」1937(昭和12)年

⾺に乗った兵⼠たちが平原を進むこの絵は、美しい⾵景を好んで描いた川瀬巴⽔のほかの作品とは全く異なっている。この作品は、ジョブズが松岡さんに、「どうしても探してほしい」と注⽂して購⼊したものだ。ふだんは、店の在庫の中から購⼊していたジョブズが、この作品だけは、松岡さんに探し出すよう強く求めた。

松岡さんは、「作品に表現された逆光やグラデーションがきれいだと思ったのか。コンピューターでは表現できない⾊彩だからほしいと思ったのか。リラックスしたかったのか。平和を感じたかったのか」と話している。

松岡さんにその理由を尋ねるチャンスはなかったが、いまも謎の残る1枚となっている。

ずっと愛していた新版画

松岡さんとジョブズとの最後のやり取りは、2003(平成15)年の秋だった。すでに銀座の画廊から独⽴していた松岡さんの店の電話の留守録⾳に、「Hi, Haru, Iʼm Steven Jobs」というジョブズの声が⼊っていた。

その後、2011(平成23)年に出版されたジョブズの⾃伝を⼿にした松岡さんは、1枚の写真に⽬がくぎづけになった。ジョブズの⾃宅の壁に、「あの作品」が掲げられていたのだ。

新版画の美⼈画の名⼿として知られる⿃居⾔⼈(とりい・ことんど)が、1931(昭和6)年に制作した「朝寝髪」(あさねがみ)。ジョブズが28年前(1983年)に店を初めて訪れたときに購⼊した2点の1つ。

松岡さんは、「ジョブズさんが店で最初に購⼊した作品を、その後も⼤事にしてくれていたことがうれしく、感動した」と話している。ジョブズにとっては、ずっとお気に⼊りの1枚だったと思われる。

ジョブズの⾃伝を⼿にする松岡春夫さん

ジョブズがなぜ新版画を好きだったのか、新版画が彼のデザインにどんな影響を与えたのか、という疑問から始めた取材だったが、わからないことも多い。

ただ、スティーブ・ジョブズという、いまも影響⼒のある存在が、新版画の作品を熱⼼に集めていたことで、新版画に新たな光があたるのではないか。かつて、⽇本の浮世絵が、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、モネやゴッホなどの芸術家に⼤きな影響を与え、その現象は「ジャポニスム」と呼ばれた。新版画は、ジョブズにとっての「ジャポニスム」だったとも⾔えるのではないか。

松岡さんは、「ジョブズさんは⾃分のセンスや審美眼だけを信じて作品を選びとっていました。そうして選んだ作品は、新版画の傑作ばかりだった。彼が収集を続けていたら、間違いなく、新版画の世界で⼤きな影響⼒を持つことになったと思います。彼が集めたものを“スティーブ・ジョブズ・コレクション”として、ぜひ⾒たかった」と話している。

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